#与論島)#無学日記_復刊されました 島の伝承の宝物 RT_@tiniasobu
2022/03/06
ともあり えんぽうより たより きたる
いま、とっても忙しい岩下明裕さんから、北海道から与論島を訪ねたら、そこで喜山康三さんというすばらしい人にあったから、ぜひお友達になりなさい、というメールが来たのは昨年の秋でしたか。そして、『無学日記』という冊子が送られてきて、これがもう在庫がなくて手に入らないのがおしい、ということでした。
このたび、岩下さんの努力で、りっぱに改訂版として復刊されましたので、喜んで跋文を書かせていただきました。
地方小出版として書店でも注文できますし、出版元になってくれた共同文化社のサイトにも、やがて載ると思います。これだけの充実した内容が2200円は安いと思います。
編集の都合で、序文となった私の文章のおわりのタイトル「島は孤ならず」は、
とく こ ならず かならず となり あり のもじりです。
ご参考までに、最近の琉球新報のニュース 海からヤギがやってきた を添付します。https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1478123.html
はしがき
人間文化研究機構の「北東アジア地域研究推進事業」(2016~2022年)のなかで、拠点のひとつを引き受けて最終年度を迎えました。本拠点は「地域フォーラム」を創ることを目的の一つとし、主として国際関係に関わるテーマを担ってきましたが、国と国の前線にあたる境界地域にも目配りをするとともに、そこに暮らす人びとのことを考えてきました。礼文、稚内、根室、標津、小笠原、隠岐の島、対馬、五島、竹富、与那国の10の境界地域の自治体を結んだ、境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)や企業や市民とともに活動するNPO法人国境地域研究センター(JCBS)などとともに、現地の方々と同じコミュニティの仲間として共有できる何かを探し続けてきました。
私たちは、その何かを見つけることについては、まだまだ道半ばですが、地域のなかには国境だけではなく、様々な境界が存在すること、人々はその境界に苛まれつつも、これを乗り越えながらたくましく生きていることなど多くを学びました。
奄美のなかの、いやそう一口で言ってはいけませんが、与論との出会いはそのなかで生まれました。古代史からの境界地域としての来歴(高梨修「『境界領域』としての奄美史」平井一臣編『知られざる境界のしま・奄美』北海道大学出版会など)を持つだけではなく、中世においては薩摩と琉球の狭間に置かれ、現代にいたっては米国が支配する「異空間」の前線にもなった与論は大きな印象を与えました。
しかし、当たり前のことですが、島をとりまく環境の変化にも関わらず、島には普通の日常があり、その日常を生き抜いてきた人たちがいます。私を含む外部からの観察者はそうしたものをなかなか「記録」として目にすることができないのが普通です。その意味で、喜山さんが発掘した『無学日記』は衝撃でした。このような「在地の記録」を世に紹介し、多くの読者に知ってほしいとも思いました。現地の暮らしとそこに込められた思いの一部でも共有し、その向こう側を想像することを通して、広がりある地域の多様性や違いをもとにした新しいコミュニティづくりを考えることができればとも。
本書の刊行にあたり、著者の故・池田福重さんから『無学日記』に関するすべてを託された喜山康三さんと、福重さんのご子息及び関係者のみなさまにご協力いただいたことに、心よりお礼申し上げます。本書を手にした読者が、本書を通じて、それぞれの地域について何かを考えるきっかけになれば、拠点プロジェクトの成果ともなり、喜びです。
2022年1月
「北東アジア地域研究推進事業」
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター拠点代表 岩下明裕
いまよみがえる『無学日記』の輝き
誠の島・誠のことば
与論島は、沖縄復帰の一九七二年までは日本の最南端でした。そして島人たちは二三キロしか離れていない沖縄島北端の辺戸岬に集まった人々と、年に一度互いにかがり火を焚いて交信したそうです。私が妻と小学生になったばかりの息子とともに、ボーダーの島の歩みを学ぼうと、初めて与論島にお邪魔したのは、一九八九年四月はじめのことでした。
『奄美文化の源流を慕って』(道の島社)などの著作がある野口才蔵先生や、たくさんの民具と方言を収集しておられる与論民俗村の菊千代さんに味わい深いお話をうかがいました。そして、民宿星砂荘の向かいにあったお店の、当時九〇歳になられる佐藤為宜志(ためぎし)さんに二日間にわたってじっくりお話をうかがうことができたのです(http://ankei.jp/yuji/?n=126)。佐藤さんのお話の中で、稲籾をすり臼で挽いて玄米にする時に、互いに息をあわせるために、「イヒ イヒ 打ち出せ 打ち出せ 誠の ことばを 打ち出せ……」と掛けあう言葉が、印象に残っています。そして「子どもや孫たちには、お金にならないようなことも大切にして、どこまでも正直に、人から信頼されるような生き方をしてほしい」
と語られました。
ちょうどその年、本書の著者の池田福重さんは亡くなられ、喜山康三さんは、池田さんの残された手記を世に出す努力を開始されました。「誠の歌をうたい、誠の島を傷つけない」ことをめざしておられた著者の気持ちをくんで、体裁を整え、事項解説や、与論の島ことばの索引をつけるかたわら、島のみなさんに依頼してたくさんの挿絵や切り絵を準備されました。島の保育園の子どもたちがのびのびと描いた絵は今回おしくも割愛されましたが、たいへん魅力ある一冊として、七年後の一九九六年に出版されました。
自然との深いかかわりの中で
『無学日記』は、砂糖作りの小屋にひとりでいた時に、急病に倒れ生死の境をさまよった思い出から始まります。幼い時から叩き込まれた、人間としての誠をつらぬく生き方、特に自然との関わりの知恵やその恐ろしさなどが、記憶をたどって語られ、どの思い出にも豊かな島ことばでの会話と、周到な訳がつけられています。私が胸を打たれたのは、妊娠中のカカ(妻)と畑仕事をする合間に、巣ごもりしている鳩を石で撃ち落として見せたとき、子どもみたいなことをして、とカカにただ泣かれたということでした。そして、せっかく生まれた長男が五年後に亡くなってしまったとき、あの時傷つけた鳩と同じ内股に症状が出たというのです。食べもしないのに、むやみに生き物を傷つけたり殺したりしてはならないという、
島の生き方が身にしみます。
与論の海には、かっぱのようなイシャトゥがいるのですが、海で軽はずみにその名を呼んだり悪口を言ったりすると、命を取られるような仕返しにあいます。そうした恐ろしい話も生々しく語られています。普通は目に見えないこうしたものへの恐れから、海では陸の言葉とはちがう言い換えがあり、そうした言葉づかいが地名などにも反映されているのではないか、と喜山さんは解説しておられます。
島の歌も散りばめられており、私と妻が佐藤為宜志さんから教えられた臼挽きの歌も、島ことばでは、例えば「ウチジャショリ ジャショリ マクトゥ ウチジャショリ マクトゥ ウチジャシバ ヌ パジカチュンガ」誠を打ち出せ打ち出せ、誠を打ち出せば何も恥じることはない……などと歌われたものだったことがわかります。
自分史・地域誌・無学の学
この本は、七九年の人生を生きた男性の伝えてこられた島の生き方のエッセンスであり、時系列にそって語られた自分史でもあります。こうした自分史がいくつも撚り合わされたとき、血の通った地域誌・地域史が誕生するのだと思います。島の生き方を外部の「専門家」などが記述してみても、どうしてもピンぼけになりがちです。島びと自身が筆をとるという取り組みを応援することは、私どもも西表島などで試みてきたことですが(http://ankei.jp/yuji/?n=207)、ここではさらに、本になるまでの産婆役までが地元の方というみごとな例があったのでした。
もとの原稿に、無学小説、無学大学などの言葉があったことから、この本は『無学日記』と名付けられたのでした。琉球弧の八〇〇におよぶ集落をくまなく歩いた地理学者の、仲松弥秀先生からいただいた手紙の一節を思い出しました。
私が小学校二年か三年生の時、字の知らない御媼さんから言われました。「弥秀よ!『墨は知って、モノ知らぬ人間』に成るなよ!!」(昔は毛筆、墨は文字の意味) 私は「墨知ったらモノわかる人間に成る」のに変な言をいう御媼だなとその時は思いました。今になって判りました。学問する者が、「モノ」の判らぬ人間が、満々と世界中に広がって居ることを。安渓両氏の『島からのことづて』(葦書房)は「現代の墨知っている者」に対しての無意識ながらの金言と思っています(http://ankei.jp/yuji/?n=114)。
「人が救われるなら学問で救われる。人が滅びるならば学問で滅びる。だから子どもには正しい学問をさせなさい」――これは、ある南の島に「調査」にやってくる学者たちに投げかけられたことばです。島の人たちにとって、意味がわからない研究に協力しても、その成果が送られてくることは稀で、かりに送られてきても、島での生活にとっての大切さに結びつく場合はほとんどない、というのです(宮本常一・安渓遊地『調査されるという迷惑』みずのわ出版)。学歴の有無にとらわれず、本当の知恵を求める仲間として、ともに研究してほしいというメッセージでした。
その意味で、アジアのボーダー地域を這い回るようにしてフィールドワークを重ねてきた岩下明裕さんが、この『無学日記』を通して池田さん、喜山さんに引き合わせてくださったのは、とてもありがたいことでした。
島は孤ならず
喜山さんのように、与論島に根をおろして、地域の伝承や生きる知恵をほりおこして守り、共有して未来に伝える努力を続けてこられた方と、私どものように島をまれに訪れるものがともにできることがあるとすると、一番目は、島々の経験をつないできた交易と交流のネットワークの研究ではないかと思います。北は種子島と屋久島から南は与那国島と台湾のように、島は決して孤立していたわけではなく、物心両面の深いつながりを保ってきたのです。世替わりの渦の中では、時としてそのような交流は、密航あるいは密貿易とよばれたりしてきました。しかし、それは支配する側の勝手な言い分です。支配者が変わりそれに合わせて境界線がどのように書き換えられようとも、島びとたちが、
そして手をむすびあった島々が、生きのびるための必須の知恵がそこにはあったのです。
そして、島々の環境と文化の違いに応じて、ほとんど集落ごとに多彩だと言ってもよい、自然とのつきあいかたの知恵や、それを支えてきた精細な島ことばの世界は、一度失われればとりもどすすべはありません。ユネスコが奄美沖縄の諸言語を日本語の危機に瀕する姉妹語として位置づける理由もここにあります。島ごとに伝承の知恵を集め、次の世代に手渡せるようにすることができたらどんなにか素晴らしいでしょう。わたしが妻の貴子とともに一九七〇年代から通ってきた八重山の西表島と与那国島の生物文化データベースを最近ネットで公開したのもそうした願いからです(https://aiiriomote.wixsite.com/mysite https://dunanmunui.wixsite.com/my-site)。
喜山さんが掘り当てておられる与論島を中心とした泉の水を、私たちもともに味わう仕合せをいただける、この本の再刊をよろこびたいと思います。学問の壁を越え、調査する側もされる側もない、住民とひとつになった深い勉強を夢みています。北からは、この本の再刊に骨を折られた岩下さんが所属する北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、全国の自治体をつなぐ境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)、市民が集うNPO法人国境地域研究センター(JCBS)、そして南からは琉球大学と総合地球環境学研究所のLinkageプロジェクトに加えていただきながら、与論島にもおうかがいできる日がくるのを指折りかぞえています。
安渓遊地(あんけい・ゆうじ、山口県立大学名誉教授)
総合地球環境学研究所のLinkageプロジェクト・メンバー