國分直一)赤坂憲雄氏著「柳田國男と沖縄」なる論考にはさまれた誤った情報によると見られる記事について
2010/04/11
2010年4月23日 修正版です。 たまたま が、たままた になっていました。
2010年4月24日 赤坂憲雄さんと山口で座談をする機会があったので、記事を追加しました。
以下の原稿を、2005年になくなられた國分直一先生にみせていただいて、入力したことがあります。『沖縄文化』に投稿すべきと思ったのですが、はたして投稿されたか、掲載されたか疑問ですので、ここに掲載させていただきます。
なお、國分先生についてご存じない方は、http://ankei.jp/yuji/?n=200 などをご覧下さい。
赤坂憲雄氏著「柳田國男と沖縄」なる論考にはさまれた誤った情報によると見られる記事について
國分直一
一、
赤坂憲雄氏は一九九八年一一月に出版された『沖縄文化』第三四巻一号に「柳田国男と沖縄」なる雄篇を発表されている。
赤坂氏は、「柳田は一体どのような眼ざしと方法とをもって日本と沖縄を繋ごうとしたのか、そのあたりに焦点を絞りながら概括的な話をさせていただきます」として、日本と沖縄のつながりを第一期、明治四十年代から昭和六年、第二期、昭和六年から二十年、大三期、昭和二十年から三十七年にわけて概述している。
先ず、柳田は根源的な場所は、古代という時間のある所を掘り起こすことによってヤマトと沖縄が繋がってゆくことをとらえようとしたと説いている。
その概述を通して、沖縄と日本とのつながりが解説されているが、この雄篇の最後に解説された所に、誤った情報によったことからくる記事が一箇所ある。
「……金関丈夫が撮ってきたスライドに感動して、柳田はそれを昭和天皇に見せることを望んだが、金関丈夫にスライドをみせられた天皇はさっぱり関心を示さず、それを聞いた柳田が大変落胆した、というエピソードがあります。」
二、
金関丈夫が一九五四年に柳田の依頼によっておこなった波照間島の下田原の貝塚の発掘調査をめぐるスライドや、敗戦にもかかわらず昂然たる島民の姿を撮影したスライドの操作は國分が行ったのであるが、昭和天皇は上体を前に傾けながら熱心にご覧になっておられた*。
金関丈夫の御進講の後、くつろいだお茶の会があり、侍従や、たまたま帰朝していたフランス大使らも参加していた。
昭和天皇は積極的に話された。下田原貝塚の文化が日本考古学で明らかにされてきた、縄文系、或いは弥生系の文化であるのかという御質問には感心したものである。
昭和天皇が感動をされながら金関丈夫の御進講を聞かれたことも、その報告を受けた時の柳田の表情まで思い浮べられる。
赤坂氏の重要な論文における一点のまちがった情報による記事は沖縄の人々にとっても愉快な記事ではあるまい。あえて立ち入らせてもらうことにした。
一年前に赤坂氏の論文を読んでいながらそのままにしていたことを、申しわけないと思っている。たまたま畏友、安渓遊地教授のご注意もいただいている。
*注記(安渓遊地作成)
一九九二年に、敬愛する國分先生のお話をたっぷりとうかがい、ビデオに収録させていただくという機会をもつことができました。その中に「南島への想い――波照間島調査のころ」というお話があります。その中で國分先生は、次のように語っておられます。
「天皇は、沖縄の人たちのことが心配で心配でしょうがなかったですね。波照間島の人たちがたいへん元気だということを申し上げたら、たいへん嬉しそうにしておられました。天皇は強烈な戦争責任を感じておられたと思います。」
追記
2010年4月23日に赤坂憲雄さんを山口にお迎えして、2時間半の座談会をしました。http://ankei.jp/yuji/?n=888
その席で、赤坂さんは、ご自身が典拠としたのが『定本柳田国男集』の第18巻の月報に、金関丈夫先生がかかれた「天皇と柳田先生」という記事だったことを明らかにされました。講演録だから引用がついていなかったけれど、別のところで引用つきできちんとかかれたそうです。
同じ場に居合わせた二人の学者の記憶がずいぶん違うということを入り口に「聞き書きにおける事実とは何か」という話がふくらみました。感謝。
