研究と実践)生き物に語りかけてみる――実践 #アニミズム_入門__RT_@tiniasobu
2004/10/20
2019年7月12日修正 加計呂麻島 の文字を修正しました。
生き物に語りかけてみる――実践アニミズム入門
というエッセーを書きました。京都にある昭和堂が発行している、生き物文化史 Biostory という雑誌の2号に掲載されました。
編集長は、私の提示した「熱帯アフリカ・バンツー語における哺乳類名の比較」
などの堅い論考より、あやしいエッセーを望まれました。ウェブ版では写真は
省略してあります。
人間以外のものに話しかけたことはおありだろうか。愛犬や、機嫌が良いとき
なら猫も、声をかければきちんと答えてくれて、コミュニケーションがなり立
つ。このことは誰も否定しないだろう。
それなら、ドブネズミやカエルやヘビや野生の鳥たち、虫たちならどうだろう
か。さらに、草や木は、そして山や川は、人間の呼びかけに応えてくれるもの
だろうか。
人間は他のすべての生命体とともにこの美しい星に属している。こんな自明の
ことを忘れて、人間が土地を「所有」できるなどという虚構が、この星をくま
なく覆ってしまった21世紀。
他の生き物たちとの間の失われた絆を取り戻し、草木虫魚の世界の一員として
今を生きなおしてみる[岩田、1973: 281]ための基礎的な訓練を、山口県の
山村に居をかまえて妻とともに試みている私の、これは実習手帖である。
一、生き物に語りかける人たち
身の回りのあらゆる生物に語りかける人物が私の身近にいた。母である。観葉
植物などには、葉を一枚一枚なでさすりながら「もうすぐ咲くね」などと話し
ていると、普通ではなかなか咲かないサボテンなどが大輪の花をつけるのが不
思議だった。
母の遺した1956年2月の日記から。
流しの水の流れ口からいつもヒョイと顔を出す大きなドブ鼠。トラみたいに勇
気があり、図太く私の顔を見ても逃げようとしない面構えをめでてオトラサン
という名誉称号をあたえ、魚の切れハシ、芋のかけらといつも貢物をして可愛
がっていたそのオトラ鼠がさっきスイと窓からとび込んで来たドーモーな野良
猫のために咬えられた。びっくりした私はホウキをもって何とかしてオトラサ
ンを助けようと広い台所を走り廻って追かけたが遂々逃げて了った。窓からの
ぞくと白い雪の田圃道をオトラ咬えたノラ猫先生悠々と立去る。がっかりして
冷たい台所にヘタバル。折角仲よくして手なづけていたのに……。昼から流し
にたつのが億劫だった。第二代を育成するのは却々の難事業なのに。今更のよ
うにオトラサンがなつかしくなって流し口を眺めていた。
母は、台所の流し口の下あたりで暮らしていたガマガエルにも名をつけて「フ
クちゃん、今からお湯流すから、ちょっとどいててや」などと声をかけていた
ものだった。
雪深い田舎町の、むかし高峰譲吉さんが住んでいたという造り酒屋の大きな蔵
に、ときおり家主のばあさまが皿に入れた牛乳をもって行く。「白ちゃん、白
ちゃん!」と呼ばわるうちに、するすると太い梁から降りてくるものがある。
酒蔵を守る巨大な白いアオダイショウであった。
こんな環境のおかげで、私はあらゆる生き物と話ができる幼心のときをもつこ
とができたのかもしれない。しかし、科学万能の神話の時代に成長した私は、
次のような行動をとる母親にはついて行けなかった。
ある時、母は、何年も花を咲かせない庭の梅の木を切ることにした。その晩の
こと、着物の女の寂しげな後ろ姿が見えた。声をかけようとしたとたんにかき
消える。三晩続けて同じ夢を見るにおよんで、彼女はくだんの梅の下に駆けて
いって叫んだ。「何よ、未練たらしい!物も言わんと毎晩でてきて……。わか
ったわ。今年は切らんといたげるさかい、くやしかったら花でもなんでも咲か
してみよし。」命拾いしたその梅の木は、翌年、枝いっぱいに花を咲かせ、実
までつけたのだった。母が逝って5年。今もその梅は春を忘れず元気である。
母は一人実践するばかりで、花や木やネズミと語る言葉をどうやって身につけ
たのかを語らなかった。
山口県の浄土真宗の寺の住職を母方とし、加計呂麻島に生まれ奄美に大本教を
広めた父をもつ母は、長じては京都で宗教新聞の記者として、様々な宗教者の
生身の姿と出会った。そんな母にとって、花やネズミと話すことは、既存の宗
教への深い幻滅を乗り越えて、まだ見ぬ南の島への憧憬を育てていく方法だっ
たのかもしれない。
1970年代の始め、川喜田二郎先生の移動大学運動に触れてフィールドワー
クへのあこがれを植え付けられた私は、大学院で伊谷純一郎先生の指導を受け、
西表島の廃村研究[安渓、1977]をへて南島の稲作史の研究に挑んだ[安渓、
1992aなど]。その後、西表島での無農薬稲作の産直運動に深入りし[安渓、
1992bなど]、その葛藤の突破口のひとつとして山口で自ら田を耕すようにな
って12年がたつ。この歩みは、まがりくねってはいるけれども、土着の人々
の観察・聞き取りから参与観察へ、そして参与のありかたの反省と模索をへて、
自らが「着土」[祖田、2003]をめざすようになるという道筋だったのだな、
と今は理解している。
興味がおありの方は、添付のpdfファイルをごらんくださるとともに、
Biostoryを手にとってごらんください。