國分直一先生自伝)中文版『遠空』 出版 RT_@tiniasobu
2023/06/25
國分直一先生の自伝『遠い空』の中国語版ができあがりました。日本語版の編者のひとりとして、お礼をもうしあげます。 安渓遊地
「全方位的民族考古学家」
台湾考古学研究在二十世紀最具代表性的学者
一段細膩、幽黙而真誠的台湾回憶
国分直一出生於日本,却在台湾度過少年時期,自京都帝国大学畢業後又任教於台南,並在此展開考古学与民俗学調?研究,直到一九四九年中返回日本。他早年生活都在台湾,台湾也是他学問的起点。
国分直一的学識広博,講究横跨多領域的研究方法,一生対於学問工作充満熱情与堅定意念,対於台湾考古也提出過許多著名論述,諸如台湾史前文化的北方来源説、東亜的地中海等。在時代困境的輾圧下,他対知識的探求与研究工作努力不懈,作育英才無数,為台湾民族学研究奠定基礎。他将台南的調?成果,出版為《祀壺之村》,至今仍是研究平埔族群歴史的経典名著;他早年台南周辺平埔族調?資料,也成為当代西拉雅族文化復振運動的重要資源。
他与日本時代台北帝国大学的教授們,包括医学部的金関丈夫、文政学部的移川子之蔵与宮本延人等人也有往来,並参加金関丈夫提倡的《民俗台湾》,成為金関丈夫長期的知識処レ伴。二戦後,国分直一更担任台湾大学日籍留用教授,期間協助建立台湾的考古学与人類学的学術伝承,培養了戦後第一代的台湾人類学家与考古学家。
《遠空》是他学術上的自伝与回憶,収録他所発表過的散篇文章与晩年的口述訪談紀録,以像是小説般的情節,鋪陳国分直一与台湾半生縁分的一世牽絆,以自然而坦率的筆触,描述実際上漫長、辛苦且藷齒d的生命歴程与大時代思維的転変軌跡,不僅記録了戦前的時代氛囲,更反映了従1910年代到1950年代的台湾社会与歴史。
専業推薦
陳有貝(国立台湾大学人類系教授)
陳偉智(中央研究院台湾史研究所助研究員)
(依姓氏筆画排序)
推薦序 陳有貝
推薦序 陳偉智
譯註者序 邱鴻霖
日文版序 金關恕
臺灣版序 安溪遊地
I 克服閉塞的時代?學問的自傳
幼年時代(第一回)
幼年時代(第二回)
?愁記
離愁
有木棉樹的學校
山中日記 國分一子
北安曇的群山
部隊記實??越過「加羅」到「思源曙梃禔v
話?回去還是不回去
代理父親記
蘭嶼紀行(第一回)
蘭嶼紀行(第二回)
正在改變樣貌的雅美族
東上等兵就是 Shitarack 先生
追憶臺灣蘭嶼的長老 Shamankapogan 先生
回憶兩本雜誌??《民俗臺灣》與《Ethnos》運動
何謂《民俗臺灣》運動?以川村湊先生所見來談
《同人回覽雜誌》回憶?
來自同時代的見證
II 對學問的感受?珍藏的故事
接觸異文化??少年時代的故事
有木棉樹的學校??經?了京都再度前往臺灣
鹿野忠雄??消失在婆羅洲的民族學家
臺灣研究者的群像
《臺灣高砂族系統所屬的研究》時期
金關丈夫??人與學問
兵隊記
留任的四年期間
紅頭嶼(蘭嶼)的回憶
對南島的感受
與推土機互序U??越南戰爭與綾羅木?遺址
雜誌《Ethnos》與我的夢想
國分直一簡略年表
後記
嘉南平原的正中央有一個叫做大除、林的小村荘。東辺越過一望無際的甘蔗田後,可以遠望蜿蜒的新高連峰。這裡到山?地帯為止距離三里,到海岸距離有十里多,北辺跟南辺接続著無限的平原。
父親是這個村子的三等郵局長。我在昭和八年九月,大約四年後序I違已久地従京都回来。「大哥幾年不見,還是一様痩巴巴的,」弟弟們笑著迎接我,「很対不起送過去的東西没障Q法満足処ン,但我很開心看到処ン回来気色很好。」母親高興得手足無措。父親還是父親,他不緒闌v想運動但還是很担心我。
「処ン去女子学校教書,女生很難理解的,要是処ン渚渚還在就好了,可惜很早就死了。」他還是把我当作小孩子一様。
那天晩上,父親很感慨地説:「処ン也長大了,我想有一天我們就回去内地所諱B」
曽経聴説過家裡的児子只要有一個従学校畢業了,大多不久就会伝給後面的新人,但是却発生了「不足為外人道的問題」。
中学三年級的多可司抓著頭説:「是我的事情。」四年級的四方司憤慨地説:「多可司那個初ゥ処レ只会打架鬧事而已。」
我問父親不足為外人道的問題是怎麼回事,才知道多可司?了某位有権勢官吏的児子(父親是這麼説的)。因為這位児子写情書給多可司朋友的渚渚,所以就説他軟弱然後?了他。被害人的父親到学校進行了很強勢的談判,結果是多可司受到無限期停学的処分,然而校長似乎没有想要息事寧人的意思,甚至説孩子不好是因為父母也不好。父親用著平静的語調説起這件事,並没有很激動的情緒,母親則熱涙盈女黶B
我出発去台南赴任之前,想要与説這個話的人談談,隔天就去了嘉義中学。校長渡辺節治先生上半身前傾,稍微四方形的臉且臉色鉄青,看起来有点神経質。
「暑x処ン就是大哥暑怐H国分是問題学生,不管怎麼説像他這種体格,毎次一説到打群架都有他的処ヘ。上面的哥哥是很藷皷ク,但三年級的国分很令人困擾。他在我的修身課上発出怪声音,還公然的叫我償W蟹。一定是三年級的国分対著我就読嘉義高等女学校的女児説他是『償W蟹的孩子O型腿』,這種学生会妨礙教育的,雖然是無限期停学,但就算要転学也没地方要収所諱B」
校長連譲我説句打招呼話的空隙都不給,一口気説完這些話。
把学生教成這様,学校方面也有一些責任所諱C我雖然無意間変得反抗,但也不得不感到慚愧,只能隠蔵起悲哀就此罷休。
校長突然把静静地要離開的我叫住,問我「処ン在做什麼工作暑x?」我回答:「我最近従京都回来,接著要去台南第一高等女学校赴任。」之後校長帯点軽視的眼神看著我説:「是那個京大事件的京都大学所諱B」接著又説:「大学畢業不能太馬虎所・C外地有外地的特別情況。処ン暑x,不能没有考慮到処ン還穿著這一身服装。」校長不帯一点感情,穿著那身白色,在這個土地被叫做官服的制服。
穿著這個服装行走的人們,毎個人都意識到了什麼?応該没有公僕的自覚,而是覚得自己是在民女嵓V上的官員,具有這様的外地官僚意識所諱H這比配著槍剣喀?喀?作響走在路上的時代還要奇怪,我離開時心裡抱持著這種想法。
後来父母帯著弟弟們回到母親的故?静岡,因為這是自従父親在明治四十一年来台以来第一次回内地,多可司一個人開心的説:「助ノ助ノ像浦島太郎一様。」我也突然想要跟大家一起再回去内地,但因為父親説:「自己想要葬身於這片土地,但却無法実現真的很可惜。雖然我是貧窮的官吏,但完全想不起来自己做了什麼事情?得回憶而感到空虚。所以暑]怕只有処ン,留在台湾工作好暑怐H」雖然没有自信可以留下来工作,但也就不再想了。
多可司一本正経的説:「大哥加油暑潤B」臉上帯著止不住感傷的表情,然後跟四方司両個人得意的拉著大行李箱走在父母親前面,父母親也在這種気氛下笑著出発了。
雖然已経到九月底了,頭上還是頂著大太陽,但正因為父母的笑容還有弟弟們意気風発的様子,可説是庶サ我在這片土地上開拓了一条生存之道。
後来,多可司的同年級同学,渡辺校長的長男春一君,把校長私蔵的春宮図帯到学校給同学們看而引起問題。這個人好像也追随多可司的?歩,回去了内地。
二
台南来到了各個大街小巷都無法避免沙塵満天的季節。
在大約可以容納一個師団軍隊的站前広場,其中的一個角落,矗立著一薯ョ巨大有如森林中的木棉樹一般、彷彿知道這条街道所有歴史的榕樹。西辺是一条筆直朝下的人力軽便車道,顕示出這裡是向西辺傾斜著,榕樹底下有一条種植美麗鳳凰木的道路朝著南辺。従這条路走没多久,会有一個円環,円環的緬甸合歓樹影下立著白色児玉先生像従那辺経過古色古香的州庁舎洋楼和具有広東風格美感的両広会館,再走幾歩路就到了官舎街。在南辺角落有一薯ョ大柳樹的房子左転之後,走到尽頭是供奉鄭成功的開山神社的紅色囲牆,在走到紅色囲牆尽頭的南辺山丘上座落著一間寧静安定的学校。
進了大門後,在玄関的前面有一薯ョ白色樹皮的木棉樹,像是学校的象徴一般,矗直地朝著天空生長木棉樹。
到職第一天,我面対著一群可愛少女,渚D們的声音年軽、稚嫩,総帯著像是要捉弄処ン的視線,譲人想摸摸渚D們妹妹頭;站在譲人感到已経成長為女性的少女当中,我開始後悔千里迢迢地為了工作来到這裡,因為対於深住曼殊院僧房的我来説,這裡像是会譲人心力交瘁的世界。
校長是松平治郎吉老師,這裡一半的教師,或許超過一半以上都是女性。
松平校長是我中学時代的恩師。他自由的思考方式譲我感到新鮮,是最吸引我的老師。
但当在我站在好久不見的老師面前,因為太懐念而説不出話来的時候,老師突然説:「処ン的履歴表的字很糟恕a欸。」接著問:「処ン有先去見過台北的督学再過来所諱H」我回答没有去過,結果老師開始叱責:「処ン応該要帯著伴手礼,殷勤地去拝訪督学才対!」「在這所学校,不管是学務主任還是総務主任,都一定要帯点東西去打招呼,処ン怎麼這麼粗心,以後不能這様。」
「処ン怎麼剪了一頭披散的短髪,都没有留長過暑怐H」
接著又像是訓誡我一般地説著:「高年級学生的精神年齢都超過処ン。」「老師在我還是学生的時候教我做人処世的道理,不,他是看到我還是像個中学生一様而感到不満所諱B」我感到越来越渺小了。
「老師已経変了。」雖然我這麼想,但那個晩上我還是像被鐘p走一様的搭上急行列車,到台北新起町的市場,買了好幾箱内地産的二十世紀梨準備出門。
我帯著二十世紀梨去拝訪主任督学大浦精一老師,老師是我高等学校時代的恩師,所以感覚不僅僅是督学而已。他是以寡言厳謹著名的人,所以我想如果送了二十世紀梨的話,一定会被他喝斥的,在我惶恐的敲了老師家玄関的大門時,「暑x,終於回来了。」老師燦爛得笑著来歓迎我。
老師跟我説了很多話,最後説:「我很愛喝酒,也会請芸伎,舞蹈也変好了。」「老師做這些通俗的事情也是在展示累積社会経験的方法,是督学官這様的地位譲老師変成這様的人暑怐H会譲老師接近酒和女人,都是怎麼様的人所・H」在我想到出神的時候,「処ン暑x,在女子学校可不能整天暑ク暑ク哈哈的。」老師突然又変回很正経的様子,話題也転到時代的思想了。
「松岡洋右和中野正剛等都提出了正確的主張,権藤的理論也応該要関注,就是回帰日本精神。但是台湾這個地方,処ン太悠哉了,毎次到一些研究会的時候還是会擁戴裴斯泰洛斉的思想。」
「上任後首先要做的工作就是做好授課的細項。」
恩師大浦老師消失了,主任督学官大浦老師時不時強圧的様子映在我的眼中。
後来我去拝訪了庄司万太郎老師,以前有聴過他的西洋史的課,膚色黝黒,身材高大的老師和嬌小的太太一起接待了我,用親切温暖的話語告訴我,従現在起要努力精進,発掘出台湾的歴史。
在談話的当中,老師問到月薪多少,完全不知情的我回答:「我還没有詢問。」老師就説:「処ン太随性了,応該有五等,是在四月任官没錯所諱B」
什麼是五等?我不知道什麼是任官。
多虧了二十世紀梨,譲松平校長的心情変得好多了。「老師的確是変了,但是什麼譲老師変成這様的所・H」
「従内地仏教学校来的善良老師,之後,也許是数年来在這塊土地的官僚気息中学到了很多事情,漸漸地改変了処世之道以及対事情的看法所諱H」
老師対我很不満,但我在心中感到很難過。
我在一個地名很有趣、叫做桶盤浅的台地上租房子,吃飯都是去附近的公寓吃。
序文
國分直一先生と台湾
安渓遊地(日本 山口県立大学・名誉教授)
國分直一先生は1908年に東京に生まれ、2歳から台湾で暮らしました。彼は、成長して学者となり東アジアの先史学・民俗学の分野で大きな業績を残し、2005年に満96歳で山口市で亡くなられました。この本は、彼の自伝の翻訳です。
私は人と自然の関係の人類学の研究をしています。国立山口大学の教員になった1982年ごろ、大学の宿舎が國分先生のご自宅の近くだったので、家族で家をお訪ねして、琉球弧の島々や台湾の考古学や民俗学の課題について、いろいろのご教示をいただくことができました。國分先生のつないでくださったご縁のおかげで、台湾大学図書館や嘉義市の陳澄波文化基金会と山口県立大学との提携につながりました。今日では、学生の交流だけでなく、山口県と台湾の友好にまで発展しています。このことは、國分先生がわたしたちに残してくださった大きな贈り物です。
幼年時代を、高雄の海に面した家で暮らした國分少年は、台湾の社会を直接体験しました。男が威張っている日本人社会とは違って、台湾の女性たちは男に負けていません。國分先生は、女性にはとても優しい紳士であり、大学教員として、外国の学生たちからも慕われました。その背景として、幼いころの異文化との出会いによって自分とは異なるものへの寛容が身についたからだとおっしゃっていました。それと同時に、わけもなく威張る人たちへの強い反発心も培われました。晩年の國分先生は、大学者なのに少しも威張ることなく、若い私や妻の話を、いつも感心して聞いてくださり、時には拍手して喜んでくださるのでした。
台北の高校から京都帝国大学に進学した國分先生は、文学部で史学を学びます。彼はデモに参加したことから、治安維持法違反の疑いで、特別高等警察に付け狙われます。学生運動の仲間が次々と逮捕され拷問死するような、戦争にむけた「閉塞の時代」でした。「あのままでは國分君は殺されてしまう」と心配した、台湾の恩師の計らいで、台南第一高女の教員となって、台湾に帰ってきます。それでも、先史学への情熱は抑え難く、教育の傍ら研究を続けました。その時、台北帝大医学部教授で人骨人類学の金関丈夫教授の知遇を得たのが、國分先生の学問の大きな展開点となりました。
アメリカ人の歴史学者で、228事件の真相を台湾からの留学生が知るきっかけになったFormosa Betrayed(1965)の著者であるG.
H.
Kerr先生が、「日本のダ・ビンチ」と評した金関博士は、理科・文科の専門の壁をはるかに越えた、広く深い知性と人格をそなえた人物でした。台湾の知識人も加わった「金関サロン」の人々は、それぞれの狭い専門にかたまらないで、皇民化の圧力の強まる台湾で文化の多様性を大切にする知的な抵抗運動を続けました。戦後台湾に留用された金関・國分両先生は、228事件に遭遇し、弱い立場の人たちの救援のために身の危険を省みずに努力します。そんな緊迫した中でも、金関先生は絵を鑑賞するゆとりを失いませんでした。この本の翻訳者の邱鴻霖さんの案内で、國分先生の野帖の詳しい記述(http://ankei.jp/yuji/?n=2383)を検証するために2018年8月に竹南駅前を歩いたのが昨日のようです。
留用日本人の交流の場として、一部だけ制作された『回覧雑誌』があります。戦前の『民俗台湾』の延長として精神の穴を埋めるように、同人が健筆を奮って回覧した一部だけの雑誌です。そこに投稿された國分直一先生の手記が、今回翻訳されたこの自伝の背骨になりました。台湾や京都での人間模様を描く私小説風の内容は、先生のお人柄そのままに、微笑ましく暖かなものです。
4年間の留用の後、日本に戻った國分先生は、長野県の高校教員になり、その後、九州の指宿高校に転じました。山口県下関市の水産大学校に職を得てからは、水を得た魚のように教育に研究に没頭します。特高に捕まって殺された学生運動の仲間たちの、重くつらい思い出からようやく解放されたのです。夫妻で再び懐かしい台湾を訪ねられる機会もめぐってきました。その後、東京教育大学・熊本大学を経て、下関市の梅光女学院大学(現在の梅光学院大学)の名物教授として、長く勤務されました。その時には、考古・人類・民族・民俗の幅広い学問分野にまたがる豪華なカラーグラビアの雑誌『えとのすin
Asia』を創刊して、編集長として32号まで多彩に知的なサロンを発展されました。
先生が85歳ぐらいの時のことです。新幹線の駅に降り立った私は、國分先生に出会って「先生、あと2分でローカル線の汽車が出ます!」と申し上げたところ「走りましょう!」といっしょに通路を走ってくださいました。「先生、間に合いました!」と言う私に、先生は、息も切らさず「では、私はタクシーですから」とおっしゃったのです。43歳も年下の後輩を励ますために伴走してくださっただけだったのでした。
もうすぐ90歳になろうかという頃の國分先生は、毎年2冊の論文集と、時々分厚い翻訳を出版されていました。「論文を執筆して頭が疲れると、翻訳の仕事にかかり、頭がほぐれたら、また論文にかかる」とおっしゃって、お酒も召し上がらずに、毎晩午前3時まで執筆を続けておられました。
國分直一先生が、不死鳥のように輝きながら、後進の私たちにくださったメッセージは、「学問の小さなセクションに固まらないようにしてください」というものでした。生まれた国や民族が違っても、誠実に接しているうちに共存し、理解し合える時が来る、という金関先生からの教えも國分先生の大切にしておられたことです。そして、なによりも、戦争が迫ってくるなかでも、時代の閉塞を打ち破り、平和のために知恵をあわせて、今できるあらゆる努力をしよう、というのが、我々に託された國分先生からのメッセージだと思います。