#榕樹文化)#台湾_と_#山口_をむすぶ新刊紹介_『#陳澄波_全集第11巻文稿・筆記』等 #Chen_Chengpo_RT_@tiniasobu
2022/08/16
『榕樹文化』77-78号 に掲載していただいた記事です。2022年秋季ー23年新年号です。
陳澄波文化基金会のホームページが変わっていて、pdfからはアクセスできなくなっていますので、以下のテキスト中では修正しておきました。
本文を引用される場合は、添付のpdfからお願いいたします。
『陳澄波全集』第11巻の 私どもの担当した解題の英語版は、以下にはりつけてあります。
http://ankei.jp/yuji/?n=2580
台湾と山口をむすぶ新刊紹介----『陳澄波全集第11巻文稿・筆記』等
安渓遊地・安渓貴子
過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。(ウァイツゼッカー『荒れ野の40年』岩波ブックレット)
いつも、戦争中やその直後に書かれた文章などをご紹介していますが、それは、国と国の戦争や内戦などが起こった時代のことを心に刻むためであり、いまをいかに生きるべきかを、自らに問いかけるためです。
今回は、連載をお休みさせていただいて、台湾と日本の地域をつなぐという観点から最近出た本を紹介させていただきます。
國分直一先生とのご縁に導かれて、2012年から台湾に山口県立大学の学生たちと通って勉強させていただいてきました。2016年3月からは、児玉識先生のつないでくださった道すじのおかげで嘉義市出身の画家・陳澄波を顕彰する陳澄波文化基金会との交流も始まりました(本誌第71・72号)。そして、大学生の勉強に役立てば、と陳澄波のお孫さんの陳立栢さんが陳澄波が大正時代に書いた日本語作文練習帖のデジタルデータをくださったのです。
その内容は、明治時代以前の美文が多く、なかなか当今の日本の若者にも歯が立たないものでした。癖のある陳澄波の字を少しずつ解読しては基金会に原文と英訳をお送りするということを続けていました。そのうちに、基金会に残された2冊の日本語ノートのもう一方の、昭和初期の哲学講義ノートも預かることになり、解読の困難さはさらに深まりました。
2019年1月、基金会のスタッフの若手が、絵の勉強をするために日本を訪れた機会に、陳澄波が学んだ東京美術学校(今日の東京藝大)がある上野に、安渓遊地は呼ばれました。刊行中の陳澄波全集の第11「文稿・筆記」の巻の解説文を英語で執筆してくれないかという依頼とともに、彼の書いた記事や、遺品の中の書簡のデジタルデータをおあずかりしました。美術も文学もまったく専門外ですが、学生ともども手厚いお世話になってきたお礼の気持ちで、お引き受けすることにしました。哲学ノートについては、台湾での学生実習の引率者として加わってもらっている吉永敦征さん(情報倫理)、その他の美術批評の部分は、同じく井竿富雄さん(国際政治)に助けてもらいました。そして、戦後書かれた「回顧・社会と芸術」と
題する中国語のノートやスケッチブックの中の文字なども参照してまとめました。
英文17ページの依頼に、55ページも書いてしまった原稿は、英文校閲を経て中文に訳されて、このほど完結した陳澄波全集全18巻の一冊の解題として収録されました。その内容は多岐にわたりますが、タイトルを、Teacher,
Artist, and Politician: Chen Cheng-po’s vocations as hinted in his
notebooks (教員・画家・政治家──ノートが暗示していた陳澄波の天職)としました。陳澄波の生涯を井竿富雄さんの以下の文章
は手際よくまとめています。(井竿・吉永・安渓、2017『上山満之進と陳澄波』
https://www.yamaguchi-ebooks.jp/?bookinfo=kendaicoc7taiwan)
陳澄波は台湾・嘉義出身である。台湾が日本の領有に帰した1895年に生まれ、台湾総督府国語学校師範乙科に学んだ。ここで画家・美術教師であった石川欽一郎に絵の手ほどきを受けた。石川とは終生師弟関係の間柄というべき関係を持っていた。学校を卒業後、一旦公学校の教員として勤務した。しかし、30歳の時に一念発起して教師を辞職し、東京美術学校図画師範科に入学した。そして在学中の1926年に、台湾の画家として初めて帝国美術院美術展覧会に作品《嘉義の町はづれ》が入選した。翌年さらに帝展に作品が入選し、加えて台湾で初めて開催された近代的な美術展である「台湾美術展覧会」通称「台展」に作品が入選した。台展ではこれ以後連続入選を果たしていくことになる。美術学校を卒業後、陳澄波は研究科に進学し
さらに研究を重ねた。美術学校研究科修了後、陳澄波は台湾に帰らず、1929年に中国・上海へ渡り、現地の美術学校で教鞭を取ることになった。上京して美術学校入学以来、陳澄波は大量の作品を描き、精力的に日本国内の美術展などへ出品していたと言われる。また、中国居住中も、折に触れ台湾に戻って個展を開催していた。上山満之進と陳澄波の出会い、そして山口県防府市に残された陳澄波の作品《東台湾臨海道路》の制作はこのような中で実現した(1930年)と考えられる。ところが、陳澄波の上海生活はあまり長く続けられなかった。日中が満州をめぐって戦端を開いたからである。満洲事変として知られる武力衝突は、さらに第一次上海事変として拡大した。陳澄波は台湾出身、つまり「日本人」であったから、敵国民として扱
わ
れることになり、1932年に中国生活を断念し台湾へ戻ることになった。そして陳澄波はこれ以後、1947年に国民党政権によって裁判抜きの公開銃殺という形で殺害されるまで故郷・嘉義に暮らしの場を置きながら画家としての活動を続けていくことになった。
53歳の時に228事件で銃殺され、その後も白色テロの中で長く埋もれていた陳澄波の人生行路については、実習の学生たちが、ご長男の陳重光さんにお話をうかがう機会がありましたのでそこから引用します。
陳 日本の悪いところもありますけど良いところがたくさんあります。一番悪いところは差別待遇ですね。台湾人と内地人との差別待遇。待遇はあのサハリンとか朝鮮とかその差別待遇ですね。それから宗教。強制的に拝めというんですね。天照大神とか大和民族の最高の神ですね。天皇は現人神というものを擦り付ける(刷り込む)んですね。そして日本語で話しなさいと。学校では日本語以外話してはいけないです。日本語以外は。うちでも、うちへ帰ったら台湾語ばっかりですけど、うちでも日本語使いなさいと日本語常用家庭を設営したんです。これも嫌がらせというか、僕としては圧力があったと思うんですね。戦時中は帝国主義の圧迫ですね。日本人、本州でもそういうことがあったんですね。警察局で特高という名の刑事が
あちこち歩き回って思想問題のある人を牢屋に放り込んだんですね。あれは日本でもやられたらしいんですね。戦争に反対なんてこっちに言えないですね。これらが嫌なんですね。
ところがとてもいいこともしていただいたんですね。建設とかあるいは交通建設、工業建設、それに嘉南大曙Vも農業に対してはとてもいい、だったんですね。また、法に従えというのもいい政治だったんですね。法を守れと。だから台湾の人で歌を歌った人があるんです。「法の祖国は日本と、血の祖国は中国と。台湾は心の祖国」という歌をうたったんですね。
──戦後、嘉義の市の参議員として陳澄波が活動した時、どういう政治家だったかということは覚えていらっしゃいますか?
陳 戦後ですね。祖国に帰った喜び、それが台湾の人大部分が思っていることです。ところがその喜びが幻滅になったんですね。台湾の政治の移り変わり、日本から中国、その時に一年ばかり観察したんですよ。そしたら中国政府は腐敗しきった政府だったんです。それが僕ら家族は耐えきれなかったんです。それで戦後みんなから参議員になってと勧誘されたんです。それを僕たちは反対したんです。家族みんなが反対したんです。一番反対する理由はお父さん自身が中国政治を理解していないです。腐敗しきった政府を理解せずに正義感をみなぎらせて政治に飛び込んだ。それが大変だったんですね。ところがみんなの勧誘を押し切れなかったんです。とても有名ですから、選挙するときはあちこちで演説なんてしないです。ただ名刺
を印刷するだけであとは全然金も使わないです。広告、ビラもないし何もないし、ただ名刺を友達があちこちの親戚に配ってそれで当選したんです。僕たちも隣組とか親戚に、一票頼みますって全然言わないんですね。選挙に出ることに反対していたんだから。まあ正義一点張りで政治に携わることが異常な犠牲を招いたのが一番の残念ですね。政治家としては不合格ですよ。ほんとに不合格です。正義一点張りで政治に携わるなんて、なんていうかね、もう不合格一点張りです。中国政治の腐敗しきった政治の中では全然ですね。日本の政治界はあんまりわからないけど日本でも正義一点張りじゃ不合格らしいんですね。あの、児玉先生が書かれた上山総督の本(『上山満之進の思想と行動』海鳥社)を読みましたけども、
上山先生も一生
正義一途の政治家だからあまり採用されないんですね。そういうことを感じました。
陳澄波「作文集帳」(大正四年元旦)解題
148頁にわたって綴られた内容は、美しい日本語の作文を学ぶための文選を陳澄波が書き写したものです。当時の陳澄波は総督府国語学校公学師範部乙科(いわゆる「本島人」のための学科。現在の台北教育大学)に在学中でした。一番はじめの「學に志し藝に志す者の訓」は、江戸時代の儒医・三浦梅園(1723-1789)によるたゆみない學藝への励ましの言葉です。この文章は、国語学校師範科で美術教師・画家の石川欽一郎(1871-1945)に才能を見出されて、教育者と芸術家の道をめざそうとしていた陳澄波の勉強の人生の指針となりました。選ばれた文章は、美しい日本語のアンソロジーとしての短文で、古くは枕草紙から、江戸時代、明治時代の文章を中心に、名前が判明するものだけで56名におよび、実にバラエティに富んでいます。も
っとも頻繁に選ばれたのが、「鉄道唱歌」などの作詞で知られた大和田建樹で、12回登場。それに次ぐのが小説家の徳冨蘆花でした。途中に借金の証文の書き方のような実用文の雛形が含まれているのは、彼が自分で必要と思う題材を選んでいた証拠と考えられました。後半も写生文は多くありますが、しだいに高山樗牛や福沢諭吉といった社会性に富んだ文章も多く写されるようになり、陳自身の興味の変遷がうかがわれます。そして、最後の項目は、君子の三楽を説いた孟子の「有得天下英才而教育之、三樂也、君子有三樂、而王天下不與存焉」を踏まえ、郷里の嘉義の公学校の教師として生きる陳澄波の喜びが刻まれているようです。台湾が日本領土となった年に生まれた台湾青年が、いかに高いレベルの日本語学習をしていたかが如
実に伝わってくる貴重な資料で、陳澄波は数え年一三歳で公学校に入学していますから、非常な速度で、今日の普通の大学生のレベルをはるかに越えるような、高度なしかも美しい日本語を習得しようとしていたこともわかります。
陳澄波が自分で選んだ文章の中に、彼の晩年の悲劇と、まさに「時代の復讐」と言うべき、近年の復権を予言する内容がすでに含まれていたことがわかったのでした。特に以下に引用する高山樗牛の死の前年の文章は、陳澄波の東京時代にその全集の第一巻『美学及美術史』が、親友の姉崎嘲風によって出版され、陳澄波も随所に傍線を引いて熱心にこれを読んでいました。戦争の前後に、決死の覚悟で読了をめざして取り組んだ田辺元の『哲学通論』と並んで、彼の画業と人生に大きな影響を与えたものだったのです。
そして、家族への便りなども含めて彼の書き残したものの全体を見渡してみると、台湾にもどってからの彼の挑戦は、台湾に美術の研究所と学校を創り、さらに芸術家とその生活を経済的に支える美術愛好家たちを育むということが主となっていたことがわかります。息子の陳重光さんの証言にも関わらず、単に正義感だけで立候補を引き受けたのではなかったと考えられます。陳澄波自身が鍬を振るって1937年から嘉義市近郊の荒れ地を開墾して、戦後にはお米の生産にも携わっていたことなどの発見もありました。
89、書生を誡む[勝海舟]
人難に臨み死を畏るヽは固より鄙むべし。然れども速に死するを以て快となすも亦貴ぶに足らず。是れ其弊なり。吾嘗て謂ふ、吾邦の武士は元亀、天正の際より盛なるは無しと。然れども当時の風尚は、一死身を潔よくするを以て能事畢るとなし復た後患を顧みず。夫れ萬般の責任も一身に擔はんと欲せば、至難至難に耐へ、
綽々として餘裕あるものに非るよりは能はざるなり。嗚呼幕府の末造に方りて生死の途に出入し、窮厄を踏み心膽を練り、遂に皇政維新の洪業成したる者は既に黄土に帰せり。今の局に当るは概ね其支蘗のみ。此後十年当に庶務を調理し、國威を振揚すべき物は汝等書生の肩頭に懸る。汝等果して能く此の責任に堪ふるか否か。予が見る所を持てすれば近時の書生は僅かに一二の學課を修め、多少の智識を具ふるに過ぎず。而して天下は一活物にして区々たる死學問小才子の能く辨ずる所にあらず。必ずや世間の惨風を凌ぎ人生の酸味に飽き、世態を知り人情を盡して然る後興に經世の要務を談ずべし。吾後進の輩に告ぐ、宜しく身を困窮に投じ、実材を死生の際に磨くべきのみ。
77、君と吾(嘲風氏に與ふる文の一節)、高山樗牛
此間の消息を今更君に語るの要はあらじ、吾等はただ此の自覺に本きて、吾等の世界を建設するの務ありと存じ候、されど君よ、吾等の世界は、尚頗る難事なるべし。少くとも吾等の生国にて、吾等の解せらるるは頗る難事なるべく候。唯意思の存ずる所に実在あり。君と吾と此世に存せん限りは、世はなほ吾等のものたるを妨げじ。君よ、吾等は互に心強かるべく候。毘藍の風吹き荒めども、なほ消し難きは眞信の一燈ならずや。そも何者の王者か能く吾等の獨立を危うし待べき。吾れはこの覺悟を以て、君と共に人生の歸趣に安住せむことを希ふものに御座候。
107、賞罰毀譽の論 中村正直[抜粋]
蓋大人豪傑は、其の學問、識見遥に尋常庸衆の上に超え、風俗習慣の範圍を脱するが故に、其の是非する所、其の可否する者、自ら後前の論と氷炭相反し、世人に疑ひ怪しまれ、甚しきは窘逐殺戮せらるに至る。然れども時代の久しきを經るに從ひ、大人豪傑の名は益々顕はれ、その識見議論天下に行はれ、世の有らん限り朽ることなかるべし、之に反して、これ等の人を疑怪し窘逐する人は、国王にもせよ、宰臣にもせよ、一時平民の大勢力あるものにもせよ、其各烟消して霧散す。その隅々傳はる者も、その臭名、聞く者鼻を掩ふ。西人これを時代の復讐といふ。
『陳澄波全集』各巻の英文と中文の解説文は、以下のサイトを参照してください。 https://ccpcf.asiademo.com/
さて、本誌の連載でもおなじみの、國分直一先生の本格的な伝記が『國分直一與臺南──不是灣生的灣生』として、2021年5月に台南市政府文化局から出版されました。
著者は、国立成功大学の考古学研究所所長の劉永昌教授です。361ページにおよぶ充実した内容で、國分先生が亡くなられた翌年の
2006年に安渓遊地・平川敬治編で海鳥社から出してもらった自伝『遠い空──國分直一、人と学問』の内容を丁寧にとりこんで、学問的な背景や台湾とのかかわりを大幅に増補した力作です。巻末には、1)國分先生の自伝的な著述や写真の紹介、2)論文・著書目録、さらに、これまで日本ではあまり把握されてこなかった、3)新聞への投稿記事、そして、4)『民俗臺灣』の中の報告文を網羅しています。カラー写真もふんだんに入れて、愛情深くまとめられた決定版というべき内容と思われます。國分先生の自伝『遠い空』の中文への翻訳も国立精華大学の邱鴻霖先生によって完成し、台湾での出版を待つばかりになっているといううれしいニュースも届いています。
もう一冊、山口県とのゆかりで復刻された山田孝使著『臺南聖廟考』(1918年/復刻版、2021年)を黒羽夏彦氏の記事から抜粋で紹介しておきます。全文は、貴重な資料の復刻にあたられた佐伯伸治さんの跋文とともに、http://ankei.jp/yuji/?n=2579に掲載してあります。
台南孔廟は、その由来をたどると鄭氏政権時代に建てられ、清代・日本統治時代を経て現在に至るまで改修を繰り返しながら残った、いわばこの土地の歴史の生き証人と言える。台湾府学、つまり科挙受験生が集まる台湾の最高学府でもあったため、「全台首学」と呼ばれた。1895年、台湾は日本の植民地統治下に入り、日本の軍隊や官員が来台、台南孔廟も接収される。当初は台南民政支部職員の宿舎に充てられ、1898年からは台南第一公学校がここに置かれた。宿舎や学校として使用するにあたって一定の補修工事は施されたものの、その落魄ぶりは否めなかった。そこで1917年になって公学校は移転、改めて大規模な修築工事が実施されて翌1918年に完成する。
台湾総督府と、台湾在住の人士の寄付をあつめて修築された、臺南孔子廟の歴史的由来や祭儀の細目が整理されているほか、修築事業に関わる具体的な記録が収録されている点でも貴重な資料である。
昭和に入ると、性急な皇民化が進められ、陳重光さんも、批判的に回想されたように、それが宗教方面にも及ぶことになるわけですが、大正時代には、台湾の人たちがもっとも大切にしてきた学問と宗教の拠点を整備するために、多くの努力がなされたことの記録として、通読は困難であっても、寄付者のリストを含めて、広く読まれる価値のある内容を含んでいると思います。送料とも1冊2000円です。お申し込みは、以下まで。
〒745-0805 山口県周南市大字櫛ヶ浜47 佐伯伸治さん
メール kanjimu1◎gmail.com (◎を@にして送信。◎の前の文字は、算用数字の1です。)
こうした古い本だけでなく、新しい時代のいぶきを感じさせる本も続々と刊行されています。ここでは、山口県出身で台湾在住のルポライターの栖来(すみき)ひかりさんの『台湾と山口をつなぐ旅』(2018年西日本出版社)をご紹介しましょう。
結婚によって2006年から台北で暮らしている栖来さんは、陳澄波の日本語ノートの解読作業でも陳澄波文化基金会の依頼でご尽力くださいました。ふるさとの山口県の各地に、台湾で活躍した人々の足跡がしるされていることに気づいて、それを訪ね歩く交流の旅をします。台湾の視点からやまぐちを再発見するという新しい切り口の一冊で、これまで連載でご紹介してきた、國分直一先生や、磯永吉博士、上山満之進をはじめとする5人の台湾総督などが生き生きと描かれ、本人の自筆のイラストが魅力を高めています。その後も、『時をかける台湾Y字路──記憶のワンダーランドへようこそ』(図書出版ヘウレーカ、2019)や、『台日萬華鏡』(台湾・玉山社、2022)などを続々出版し、2022年4月からは、昭和25年設立の由緒ある(一財)
台湾協会の台湾連絡所長に就任するなど、多彩な活躍の様子は、彼女のブログ・台北歳時記
https://taipeimonogatari.blogspot.com/で追いかけられます。
(あんけいゆうじ・あんけいたかこ)