復刻紹介)臺南聖廟考 完 1918年刊行の稀覯本が山口県で復刻されました。 RT_@tiniasobu
2022/06/07
ご紹介がおそくなりましたが、非常に貴重な資料が復刻されましたので、お知らせいたします。
システム上表示できない文字(黄の繁体字、雨+洪)については、添付のpdfでご確認ください。
入手ご希望の向きは、下記の発行者の佐伯さんにご連絡ください。1冊送料込み2000円で日本国内でしたらお届けいただけるとのことです。
新刊紹介・山田孝使『臺南聖廟考』(1918年/復刻版、2021年)
黒羽夏彦
台南孔廟は、その由来をたどると鄭氏政権時代に建てられ、清代・日本統治時代を経て現在に至るまで改修を繰り返しながら残った、いわばこの土地の歴史の生き証人と言える。台湾府学、つまり科挙受験生が集まる台湾の最高学府でもあったため、「全台首学」と呼ばれた。1895年、台湾は日本の植民地統治下に入り、日本の軍隊や官員が来台、台南孔廟も接収される。当初は台南民政支部職員の宿舎に充てられ、1898年からは台南第一公学校がここに置かれた。宿舎や学校として使用するにあたって一定の補修工事は施されたものの、その落魄ぶりは否めなかった。そこで1917年になって公学校は移転、改めて大規模な修築工事が実施されて翌1918年に完成する。本書『臺南聖廟考』は、この修築工事を記念して執筆された。
本書の復刻版を製作された佐伯伸治氏よりわざわざご恵贈いただきました(ありがとうございます)。著者の山田孝使(のりよし)は、佐伯氏の縁戚にあたる方だという。山田孝使は1874年、岡山生まれ。1902年、28歳のときに来台して総督府に勤務。復刻版のあとがきを読んで初めて知ったのだが、山田家は代々、篤学の家系で、閑谷学校の関係者もいたらしい。閑谷学校にも孔廟がある。山田孝使の来歴の詳細は分からないが、儒学を介したつながりが想像される。
清代において、台南孔廟は官廟であった。造営費は公費負担が原則で、その後、改築・補修が必要なときは地方士紳の義捐金によって賄われた。府学が孔廟に置かれたので、学官及び雑役などが日常的な管理を行ったが、こちらは孔廟そのものとは財政基盤が異なり、台湾府の戸粮房(租税部門)から公金が支給されたほか、府学に附属する学田からの収入によって支えられたという。祭祀は台湾府から公費が出されたが、それだけでは足りないので、楽局の田園(楽田)からの収入にも頼ったらしい。
ところが、日本統治下に入ると、制度が全く異なるので、孔廟の運営は公費には頼れなくなった。1897年、当時の磯貝静蔵・台南県知事の指示により、楽局大租権地(清代台湾の土地制度は複雑なので、説明は省略)の収入で祭祀の費用を賄えるように措置が取られ、祭祀の継続が可能となった。その際、楽局の関係者は離散していたので、当時の台南で文名の高い人物を中心に董事8名が選任された。すなわち、蔡國琳(挙人)、蔡夢熊(廩生)、許廷光(廩生)、商朝鳳(増生)、黄修甫(生員)、楊鵬搏(生員)、陳慶☆(雨+洪)(生員)、陳脩五(胥吏)である。ほとんどが科挙受験資格者で、挙人は郷試の合格者、廩生・増生・生員は府学在籍経験者ということになる。なお、このうち陳脩五は科挙関連の資格を有していないが
、清代台南府
の胥吏として実務知識に詳しく、日本統治下に入った後も引き続き公務に従事していた(陳脩五については新田龍希「胥吏と台湾の割譲──南部台湾における田賦徴収請負機構の解体をめぐって」[『日本台湾学会報』第21号、2019年]を参照)。
ただし、楽局大租権地の権利が確保されても、滞納者が多かったらしく、1901年から台南県学務課が管理事務を行うようになった。さらに、台湾総督府が土地の確定・買収事業を進めた際に、楽局附属の土地も買収され、交付された公債証券は学租財団によって管理された。こうして孔廟の楽局から、その本来、所有していた土地の権利は切り離されたが、祭祀・補修等の必要経費は学租財団から支出されることになったという。それでも、大規模修築工事を行うには資金が足りないし、公的施設ではないから台南庁が負担するわけにもいかない。そこで、1917年、台南庁長・枝徳二の主唱により、資金集めが行われることになった。
本書は、孔廟の歴史的由来や祭儀の細目が整理されているほか、修築事業に関わる具体的な記録が収録されている点でも貴重な資料である。私自身は日本統治時代初期台湾の人的ネットワークに関心を持っているが、その観点からも実は面白い。修築事業の発起人や関連事務の分担者の名前が逐一記載されており、そこには日本人か台湾人かを問わず、当時の台南における有力者の名前がほぼ網羅されている。寄付金取纏者の一覧(36~44頁)には寄付金集めの責任者となった人の名前が列挙されており、大半は台南庁の役職者、各支庁長、各学校長で、台湾人の場合は各区長である。中には、
台南庁長・枝徳二が他にも台南博物館長/台南庁土地整理組合長/台南庁公共曙誌祁組合聯合会長/台南庁防疫部長/台南慈恵院長といった複数の
肩書で名前が記載されているようなケースもある。つまり、台南庁の指揮系統を通じて職域ごとに資金集めが実施されたと考えられる(中には半強制的なケースもあったかもしれない)。それとは別に、巻末附録として高額寄付者の名前が金額別に掲載されており、これは当時の台湾南部地域(屏東から嘉義まで含まれる)における有力者リストとして見ることもできる。
個人的な関心では、修築事業関係者のリストの中に、劉瑞山、顔振聲、高再得、林茂生などキリスト教徒の名前も見られるのが気になった。長老教会は孔廟との関係をどのように考えていたのだろうか? 彼らはそれぞれ地域の有力者であったから、そうした立場的なことから名前だけ貸したのだろうか?
中国の伝統的な統治体制においては、儒学の祭儀は官府と一体となって執り行われていた。そうした伝統は現在でも続いており、例えば、台南孔廟には歴代総統から贈られた所ウ額が掲げられているし、確か孔廟の祭儀では台南市長が主催者になっていたように思う。
では、日本統治時代の台南孔廟はどうであったかと言うと、本書によれば、「台南聖廟の祭事は、固より官府の主る所なりしも、本島改図後は、諸般制度の変に由り、此廟の如きも官施の祭式なきに至れる」ので、明治30年に磯貝知事は上述した董事や本島人紳士に協議して祭事を行わせたという。「祭儀に与る者」としては、「台南に在住せる本島人にして、(一)参事区長の職に在る者、(二)旧制の文武挙人・廩生・秀才等の学芸素養を有する者、(三)学校の教職に在る者等」が挙げられている(179~180頁)。つまり、祭事の主催者はあくまでも現地台湾人有力者であった。そして、祭日前五日に「台南に在る文武官街長、学校長、文武高等官、文武判任官の主なる者、及び内地人本島人の民間有力者等に対し祭典参列案内状を発
す」(181頁)とされている。
台南孔廟修築・再興にあたっては様々な思惑が絡まっていたのだろうと想像される。孔廟が荒れ果てた状況に心を痛めた台南現地知識人には孔廟再興の要望があったであろう。日本人官員には漢学の素養の深い人々も含まれていたから、孔廟への敬意が当然あったろうし、他方で広義の「同文」イデオロギーを利用して現地知識人懐柔という意図もあったかもしれない。儒学的伝統観念からすれば官府が孔廟の祭儀に関与するのは当然であったが、他方で日本統治下では制度的に行政の関与はできなかったようである。こうした様々な思惑のベクトルがどのように絡まり合っていたのか、自分なりに整理して考えてみたい(おそらく先行研究もあるはずだが)。本書『臺南聖廟考』はそうした作業のための貴重な手引きとなる。
あとがき『台南聖廟考』復刻にあたって
佐伯伸治
台南聖廟とは台南の孔子廟のことだ。台湾最古にして最高の教育機関でもあったという。大正6年(1917)に大改修に取り掛かり、翌年に完成した。この本はそれを記録にとどめたもので、大正7年(1918)に台湾で刊行された。
大正7年といえば、第一次大戦が終わった年で、百年以上前のことだ。この本のことを知ったとき、すぐにでも読んでみたかったが、何しろ残部僅少、値が張った。迷った挙句、令和3年(2021)2月のある日の深夜、勢いで注文した。
2月24日、本が届いた。この日は偶然、沖縄孔子廟の最高裁判決が言い渡された日でもあった。十五人の裁判官の中で、唯一反対意見を表明したのが徳山(現周南市)生まれの元外交官、林景一裁判官だった。そのことになぜか安心し、なぜか嬉しかった。何度も判決を読み返し、届いたばかりの台南聖廟考のページを繰った。知っているべきことを知らない自分が情けなかったが、この本のおかげで腑に落ちたことも多かった。孔子廟の判決の日に孔子廟の本、こんな偶然があるのだろうか。何かに背中を強く押された。あとは一瀉千里、マツノ書店に相談し、赤坂印刷に電話をかけ、復刻の話は一気に進んだ。
実は、著者の山田孝使は、息子の結婚相手の高祖父にあたる人だ。「孝使」は「のりよし」と読む。明治7年(1874)、岡山に生まれ、明治35年(1902)、28歳のとき、渡台して総督府に勤めた。大正4年(1915)に鄭成功を祭った縣社開山神社の沿革史を執筆した。3年後の大正7年(1918)に出版された二冊目の著書が本書「台南聖廟考」だ。
山田家の先祖は、備前国和気郡天神山城主浦上宗景の家臣だったが、浦上家の滅亡後、帰農して同郡奥吉原に住んだ。山田家は、代々郷村の教師役を務めた篤学の家系で、宝暦年間には、乾堂山田平次義厚と、その子の大木山田長左衛門忠正が、備前閑谷学校に学んで読書師を務めたという。
その山田家の13代当主が著者山田孝使だ。孔子廟も、そこで毎年執り行われる釈奠(せきてん)釈菜(せきさい)の行事も、著者には身近だったに違いない。唐から帰国し、釈奠(せきてん)の儀式を整備した吉備真備のお膝元が岡山だ。その地に生まれた著者が、「全臺首學」の台南聖廟の大改修に立ち合い、その記録を本にまとめる機会を得た。その僥倖に密かに快哉を叫んだに違いない。
この本は貴重な人名録でもある。大改修を主導し、本の序文を書いた枝徳二は、嘉南大曙Vプロジェクトの大功労者だ。枝の葬儀での友人代表挨拶は、台湾の民生長官を勤め終戦の詔勅でも有名な下村海南だった。枝の功績は大きい。再評価が待たれる一人だろう。本書の発行人高畠怡三郎は、高名な韓石泉医師の恩人だ。韓医師の自伝では「貴人」と呼ばれていた。寄付金の関係者の中には、のちに高橋是清の主治医を務めた氏原均一氏の名や、小澤太郎元山口県知事の台南中学校時代の校長廣江萬次郎氏の名も見える。永寧公学校長の赤松二三氏は、著者の娘婿で最後の台東街長だった人だ。住居の官舎は平成18年(2006)に修復保存され、日本から遺族が記念行事に招待されたという。往時茫々、懐かしい人々がここにいた。
台湾の人たちも一緒に頑張った。台南孔子廟修復の特徴は、費用のかなりの部分を寄付金で賄ったところにあるという。ここに名前の挙がった人たちの子孫がこの本で先祖の名前を見つけて喜んでくれたらこんな素晴らしいことはない。
日本で寄付といえば、おいなりさんの千本鳥居だ。私の思い出の千本鳥居は、山口県との県境、島根県津和野町のおいなりさんだ。ここは「稲荷」でなく「稲成」と書く。「成る」は商売繁盛につながるということで、商売人のお詣りが多い。私の祖父もその一人で、一時期、千本鳥居の一つに祖父の名前があった。それを見つけた時の嬉しさは今でも覚えている。ただ、残念なことに、千本鳥居は少し経つと新しく寄進された鳥居と入れ替えられてしまう。祖父の鳥居も次に行ったときにはなくなっていた。
本の中の記録はなくならない。「台南聖廟考」は、入れ替えのない千本鳥居のようなもので、この事業に関わった人たちの記録として貴重だ。ここに挙がっている台湾の人たちには、やがて、戦争や戒厳令下での困難な時代が来た。懸命に生き、台湾を今日の素晴らしい国に育てた人たちだ。その名を呼んであげてほしい。既に黄泉の客となられて久しいが、百年の時を隔ててよみがえり、今の私たちに大事なことを気づかせてくれるだろう。
発行者連絡先
〒745-0805 山口県周南市大字櫛ヶ浜47
佐伯伸治
メール kanjimu1◎gmail.com (◎を@にして送信)
以上は、ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど――台湾をめぐるあれこれ」の2021年10月25日の記事
http://formosanpromenade.blog.jp/archives/87036973.htmlと、
再刊にあたっての発行者の後書きを、それぞれの執筆者の許可を得て再録しました。
改修なった臺南聖廟の写真は、以下のサイトからお借りしました。 https://www.twmemory.org/?p=11939
以上、掲載は、安渓遊地@生物文化多様性研究所 でした。