My angina pectoris diary (1)
2022/03/09
自分は心が狭いと気付いて 患者Aの私的日記(1)
熱心に見にきてくださるあなたに。続きを含めて全文が読める添付のpdfは、鍵付きです。鍵の言葉は、あなたの好物で、すべて小文字のローマ字です。
はじめの部分は、かんたんにして、高校の同窓会の文集に載せたことがあります。 http://ankei.jp/yuji/?n=2431
◎序章以前
高校3年間、私は「心臓が弱い生徒」扱いで、水泳の授業は見学だった。下痢を起こす腸カタルの菌が「心臓に来た」のだ。医学的にはあり得ないこの珍事のいきさつをお話しよう。そこには実験校の予算の苦しさという問題が潜んでいる。
きっかけは夏場のプールでの体育の授業だった。幼いころから、たいへん腸が弱い子どもだった私は、高校生ぐらいまで、よく下痢をしていた。そんな私が、予算不足のために水を替えられなくて、緑色に濁った水のプールで行われる水球の授業に出たあと、放課後に週1回の数学の家庭教師の所を訪れた。勉強が終わって駅まで歩く途中で、道やの下の端が波打って見えだしてきた。とても歩き続けられないので家庭教師の家にもどり不調を告げると、医師の往診を頼んでくださった。熱とその他の症状をみて、腸カタルという診断がつき、お尻に抗生物質の注射をしてもらったが、その薬の名前は空前の痛さとともに記憶された。硫酸カナマイシンというのだった。原因は、プールの緑の水を飲んだこと以外は思い当たらない。
さて、私の当時の主治医は、H医師といって小さな診療所を営む町医者だった。「よう効く薬はいかん」が口癖で、PL顆粒などのどんな安い薬の袋にも赤いハンコで「高貴薬」と押してあった。私には名医で、中学生の時、梅雨の頃、母の手作り握り寿司を食べて下痢となった私が、診療所を訪ねると、「先生~」という私の声と顔色を見ただけで「どうしたんや? 寿司でも食うたんか?」と言われるほどだった。母は、ハゲちゃんと愛称していたH先生に、なんとか今後は水泳の時間を見学で済むような診断書をとお願いした。
名医「腸が弱いため水泳の授業を休むようにというのでは学校がこまるやろなぁ。そうや、どうも君は、心臓が人より小さいようだぞ。そう書いておこう!」
その診断書を高校に提出したあと、職員会議ででも報告があったのか、通学電車などで隣合わせた高校の先生方が心配でたまらないような顔をして「君、心臓が弱いらしいな? 大丈夫なんか?」と声をかけてくださるのだった。なぜ心臓が弱くなってしまったのか、本当の理由を説明できるはずもなく、「え、あぁ、はいはいはい。なんとかそれなりに元気でやっています。ありがとうございます」と答えながら、自分が急に大人になっていくのを感じていた。その後もプールの水は相変わらず緑色だったが、大量に追加されたサラシ粉によって白濁を加えたペンキのような怖しい色になっていた。
もちろん町医者の限界というものもあって、後に母の死因となる脳腫瘍(神経膠腫glioblastoma)を見過ごして、傾聴と「高貴薬」によるケアを続けておられたH医師の診断を疑った兄が、大学病院に母を送って異常が判明したということも起こったのだった。
思い出される兄との会話
兄「医学の博士号はな、足のうらの飯粒やねん」
私「なんやそれ?」
兄「取らんと気持ち悪いけど取っても食えん」
私「なるほどー。なるならお勧めは何科?」
兄「ふむ、皮膚科といわれとる」
私「そりゃまたなんで?」
兄「まず、夜中にたたきおこされることがない。2番目に、患者はめったに死なん。そしてなにより、患者は治らん」
◎予兆とセカンドオピニオン
言葉のあやや大人の事情ではなくて、本当に心臓が停まりそうな気がしたことがある。
実際に、停まりそうな感じがしたのは、あれは、2005年に半年のスペインからもどって、その翌年、大学のあたらしいボスとして着任したE先生(心臓外科医、着任前には、県立病院の院長になって積年の赤字経営をわずか1年で単年度黒字に持ち込んだという辣腕の噂があったが、大学では腰の低い実に丁寧な方であった)のつよい勧めで文科省の現代GPというプロジェクトに応募したのが通ってしまった時。10月中に1450万円もの予算の年度内に執行可能な数字を、人件費・消耗品・旅費など費目ごとにわけて、整理して提出しなさいということになった。まだ事務員は付かないから申請者がやるのだが、表計算ソフトを使ったことがないので、まる2日徹夜することになったのである。その時の私の年齢は、55歳。これは、父が虎ノ門病院で
心臓の環状動脈バイパス手術(CABG)を受けた年齢より10歳ぐらい下だが(父は手術後86歳まで生きた)、それ以来、どんなに忙しくても最低でも2時間は寝るように、あとはいつでもどこでも何度でも寝るということに気をつけてはいる。
E先生には、いつもセカンドオピニオンをもらいにいったなぁ。
私「先生、肩が痛くてあがりません。こりゃ、がんかもしれません」
E先生「そんな顔色のいいがんはありません。五十肩でしょう」
私「つける薬はありますか?」
E先生「ありません。壁の上のへんにこうやって掌をあてて、伸ばしなさい。そのうち治ります。治ったと思ったら反対側にでて、それが治ったらまたもとの所が痛くなったりします。でも、病院とかにいっても、レントゲンとって、効きもしない薬をくれるだけのことで、治りません。そのうち自然に治ります」
私「はあ、そうなんですね! 病院では聞けない貴重なご助言をありがとうございました!」
◎予感
2018年12月やや不調。1年半前に大学を定年退職して、夏場は田んぼのまわりの40度ぐらいもある急な傾斜の草刈りを、シャツを水に濡らしながら4時間も続けてやるような激しい運動をしていたし、台湾の山に登って山中2泊するような暮らしをしてきたのだが、現役時代とあまり相変わらず農閑期は何冊もの本作りに取り組む季節だ。あまり体を動かさずデスクワークが多い日々である。おまけに、フィールドワークの総集編ともいうべき科研費が1年間だけ通って、そのための仕事も膨大にある。冬はどうも摂取カロリーオ?バーになって、皮下脂肪が厚さ1センチほど増えた感じだ。なんとなく口の中の軽い違和感とともに胃のあたりが重い感じ。胃カメラを呑みにいく暇がずっと取れなかったなと思ったりする。
◎始まり
2019年1月13日(日)
朝5時半ごろの汽車に乗り、空港経由で東京をめざす。睡眠時間4時間程度か。
モノレールを降りたあたりだったか、パソコンなどの入った重いリュックのベルトに両肩を通してあるいているときに、なんだか胸が苦しいように感じた。そのまま歩いているうちに10分ほどでおさまったが、動悸が激しい感じ。リュックによって血流が妨げられるためかとだけ思う。午後旧知の台湾の人たちと面会して、悲劇の画家の大きな全集の一巻の編集主幹の仕事などをやってくれないか、と持ちかけられる。専門違いの重荷ではあるが、積み重ねたご縁だからありがたく受けようと思う。若い人たちを交えてともに夕食。池袋の安宿で宿泊。
1月22日(火)
午前2時半すぎまで、科研費のまとめのために翌朝のパソコン入力の仕事をしてもらう準備のデータ整理。赤ワインを150CCほど飲んで午前3時に寝る。6時45分ころ起きる。睡眠4時間弱。
7時半ごろの汽車でT駅から大学のあるM駅へ向かう。M駅から300メートルほどの、大学の本館2階まで歩いただけなのに、まるで昔2キロほど全力疾走したときのように、のどがいがらっぽく、息も苦しくなって、一人掛け用のソファーにへたり込んで、10分ほど伸びていた。そのあと、少し胸がいたいような、重いような感じがして、断続的にそれが続いた。それでもアルバイトさんと夕方まで仕事をした。
いずれも大事な仕事が控えていて、その準備のために睡眠時間が4時間を切った翌日の症状だった。(つづく)