世界の宝)約一世紀の神隠しの後に----陳澄波の『東台湾臨海道路』が日本に現存(台湾・ARTCO誌記事の翻訳)
2016/01/03
台湾の美術雑誌「ARTCO今藝術」277号:112-113頁(2015年10月号)の記事の内容を紹介します。
雑誌の紹介は、http://ankei.jp/yuji/?n=2157 の原文にあるとおり、陳澄波文化基金会のご厚意によります。
和訳の下訳にあたっては、台湾国立国家図書館司書の洪淑芬博士のご支援を得ました。
新聞の画像は、臺灣日日新報 [電子資源] :
(漢珍/ゆまに)清晰電子版から取得したもので、国立台湾大学図書館特蔵組司書の林慎孜氏のお教えをたまわりました。
約一世紀の神隠しの後に----陳澄波の『東台湾臨海道路』が日本に現存
After missing for nearly a century: Chen Cheng-po’s “Coastal Road in Eastern
Taiwan” emerges in Japan
文:陳湘藷縺@写真:財団法人陳澄波文化基金会
この夏届いた一本のメールが、陳澄波が前台湾総督の上山満之進に委託されて描いた『東台湾臨海道路』作品再発見のきっかけとなった……
総督と画家がともに山林を愛する
嘉義出身の油画家陳澄波氏。今回上山前総督の委託に応じ、二十四日に台北を出発、二十五日蘇澳を経て、東海岸に赴き、多奇里渓に到達して、実景を描いた写実絵.(註1)
上山満之進は日本統治時代第11代の台湾総督(任期は1926-1928)であった。文献によれば、上山は台湾を去る前に、日本円1000円で陳澄波に頼んでこの絵を描いてもらった。その意図は、自分の思い出と後代の子孫への記念だったそうだ。しかしながら、この1930年の『東台湾臨海道路』の画像は文献にだけ見られ、陳澄波の家族さえこの絵の原作を見たことはなかった。ましてその行き先を掌握できたはずがなかった。
こうした状況のままで長い年月がたったが、日本の学者児玉識(Shiki
Kodama)が行政の委託で地方誌の研究と著述をしたことにより、転機が訪れた。児玉識は台湾総督であった上山満之進の生涯にたいへん興味をもっている。上山は農林専攻の文人総督であり、土地・山林・原住民の文化に特に熱心であった。これは歴代の台湾総督のなかではめったにない資質だったのだ。
児玉識は、上山関係の文献を閲覧して、台湾の画家陳澄波が上山総督のため一幅の絵を描いたことがあったことに気付いたが、上山が亡くなったあとのこの絵の行き先はわからなくなっていた。上山が生前に所蔵していた文献類の収蔵状況を児玉が調査していたとき、意外にも一幅の大きな油絵を見つけた。その油絵が陳澄波の作品かどうかを確認するため、日本の安渓遊地(Yuji
Ankei)教授、当時輔仁大学跨文化研究所の博士課程在学中の笹岡敦子(Sasaoka Atsuko)を通じて、とうとう陳澄波文化基金会との連絡がついた。
陳澄波文化基金会の董事長である陳立栢は、このニュースに一刻も待てない気持ちで8月10日には日本に飛んで、この絵の実物のようすを目にした。児玉はこの絵のどこにも画家の署名を見つけられず、これが上山満之進が陳澄波に依頼した絵であることを確定できないでいた。幸いにも陳澄波文化基金会一行が着いて、この絵の正面の下左の隅にある陳澄波の署名を見いだして確認した。これによってようやくこの絵が陳澄波の真作であると初めて確認されたのである。
82歳の高齢である児玉はこのために、初めての外国旅行の経験を台湾での調査の計画に捧げた。夫人とともに8月25日に嘉義市へ陳澄波の長男の陳重光を訪れた。陳立栢は、父の陳重光が前年陳澄波の収蔵になる原住民族の土偶、キセルなどが発見されたことを示した。
さて、約四年前、基金会は陳澄波の20号の大きさの絵を東京芸術大学に寄贈した。それは、『山居』(太魯閣)の絵画に描かれた原住民族の山林中の低い家屋内の生活状況から、この絵が日本となにかの縁があると陳立栢氏が直感したためであった。いま児玉教授が『東台湾臨海道路』の原作の所在を教えて下さったことによって、いっそう自分の直感が誤りではなかったことを証明できるのだと陳立栢氏は考えている。
児玉は陳澄波の原住民族関係の収蔵品を閲覧して、陳澄波と上山満之進が二人とも原住民族に強い関心を持っていたこと、それが陳澄波に絵を描いてもらいたいと上山が指名した理由の一つだと思う、と述べた。
児玉は上山満之進についての研究を進めるなかで、上山総督が人道的なやり方で台湾人民に対応したのだと考えるようになった。上山が総督であったとき、台北帝国大学(現在の台湾大学)を準備・設立したほかに、山地から材木を切り出すだけでない造林の計画を進めた。他方面の政策もほかの総督と非常に違う方向をとった。とくに原住民族に対する政策はそうであった。実際には、上山が総督職を退任したとき、13,000円の記念金が集まったが、このほぼ全額を台北帝大に寄贈し、原住民族研究の基金にした。このことは1930年10月16日の『漢文日日新報』に報道された。上山は当時の台北帝大総長の幣原坦(Tan
Shidehara)にこのお金を調査・研究・『蕃界事情』の印刷などに使うようにと委嘱した。(児玉教授は談話の中で、上山が原住民族の言語の研究を特に重視し、できるだけ国際的な文字で原住民族の言語を記録したと教示された。)
児玉は陳重光を表敬訪問したほか、陳澄波文化基金会は児玉のために、嘉義市立博物館の中にある陳澄波の特設展示と嘉義公園を案内した。博物館には陳澄波の詳しい年表と彼が書いた手紙や家族からの手紙などがある。嘉義公園には昔陳澄波が絵を描いた現場に作品の複製と説明板が設けられて、民衆の対照のたよりにすることが考えられているが、今の公園は幾度かの改修を経ており、残念なことに、児玉教授が訪れた直前の8月の始めごろのソウデロア台風(13号)の被害にも遭うなどして、目下の公園の現場では、当時この偉大な画家が見たであろう風景を想像することはなかなか難しい。
『東台湾臨海道路』は甚大なる研究価値を有する
自太魯閣峽入口新城。雇自動車。出臨海道路。先長○基里程。是処有高一萬尺之山嶽。排列上空。過鐵線橋。断崖絶壁。勢如鬼削。自動者傍山臨海。下俯不測深淵。僅一二蕃婦荷物。行于其間。實危乎高哉深哉驚心駭魄之絶景也。
タロコ峡入口の新城の村で自動車を雇って臨海道路に出る。道はうねうねと延びている。ここは高さ3000メートルの高山があり、上空にそびえている。鉄線橋を過ぎる。その勢いは鬼が削ったようだ。自動車は山と海の間を通る。下を覗けば計り知れぬ深淵。わずかに一人か二人の原住民族の女性が荷物を担いでその間を行き来する。実に危険で高くまた深く人の心を驚かす絶景である。(註2)
陳立栢氏によれば、この『東台湾臨海道路』の大きさ(高69 cm、横128.5
cm)は、現存の陳澄波の絵の中で二番目に大きい作品である。そして、保存状況もわりあいに良いという。絵の構成は、上左の方には翠緑の山塊が青の海洋を抱くようで、天と海を隔すのは山である。注意すべきことは下左には二人の白地に赤と青の図柄の服を着る原住民族がいて、右側の海には二人の人が木の船を漕いでいることである。絵の額の板には原住民族の図柄が彫刻されている。このような額の形式は陳澄波のほかの作品にはみられない。児玉教授は、上山満之進の甥が書いた上山の伝記には、陳澄波が上山の委嘱により描いたこの絵の額は原住民族の舟の板で作ったと記されていると言った。
また、この絵の裏には展覧会の展示作品ラベルがある。そして、額の板の裏側には絵を懸けるための穴と吊り糸も完全に保存されている。であるから、この画は陳澄波の絵を研究する人にとっては朗報でありであり、東アジア美術史の研究にも重要な素材であるに違いないと確信する。
註1:これは1930年8月26の『漢文日日新報』に掲載された内容である。陳澄波が上山前総督の委託で(上海から)台北に向かい、蘇澳を経て、東海岸の写実画を描いたことを記録している。
註2:1930年9月12日の『漢文台湾日日新報』は『東台湾臨海道路』の絵を掲載し、この説明をした。当時の新聞報道では絵の題は『太魯閣峡臨海道路』であったが、この文章に採用した『東台湾臨海道路』という題は陳澄波文化基金会が発表した作品資料名である。引用文の○の部分は古い記事で原文が判読できない文字である。
訳註1:註2の引用文を台湾大学図書館特蔵組提供の別の画像(添付)で再度確認したところ、下線の部分がほぼ解読できたのでそれを補っています。
訳註2:本文中、上山が原住民族の言語に関心をもっていたというところ、「盡力以(日)文字去將語言給記録下來」の(日)は、おそらく記者の誤解で(国際音標)とするのが事実に近いため、そのように訳してあります。