スペインの新聞記事)日本の原発奴隷――調査報告/原子力発電所における秘密
2010/05/26
エル・ムンド[EL MUNDO:スペインの全国紙 ]2003.6.8
調査報告/原子力発電所における秘密
日本の原発奴隷
という記事が日本語で読めるようになっています。「美浜の会」に感謝。
http://www.jca.apc.org/mihama/rosai/elmundo030608.htm から
映像は 現代Nuclear Ginza 日本名は 隠された被爆労働 でYouTubeで検索。
上 http://www.youtube.com/watch?v=92fP58sMYus
中 http://www.youtube.com/watch?v=pJeiwVtRaQ8
下 http://www.youtube.com/watch?v=mgLUTKxItt4
参考書は、樋口健二、1991『アジアの原発と被曝労働者』八月書館
映像も本も安渓研究室にあります。
以下引用
日本の企業は、原子力発電所の清掃のために生活困窮者を募っている。 多くが癌
で亡くなっている。クロニカ〔本紙〕は、このとんでもないスキャンダルの主人公達
から話を聞いた。
DAVID JIMENEZ 東京特派員
福島第一原発には、常に、もう失うものを何も持たない者達のための仕事がある。
松下さんが、東京公園で、住居としていた4つのダンボールの間で眠っていた時、二
人の男が彼に近づき、その仕事の話を持ちかけた。特別な能力は何も必要なく、前回
の工場労働者の仕事の倍額が支払われ、48時間で戻って来られる。2日後、この破産
した元重役と、他10名のホームレスは、首都から北へ200kmに位置する発電所に運ば
れ、清掃人として登録された。
「何の清掃人だ?」誰かが尋ねた。監督が、特別な服を配り、円筒状の巨大な鉄の
部屋に彼らを連れて行った。30度から50度の間で変化する内部の温度と、湿気のせい
で、労働者達は、3分ごとに外へ息をしに出なければならなかった。放射線測定器は
最大値をはるかに超えていたため、故障しているに違いないと彼らは考えた。一人、
また一人と、男達は顔を覆っていたマスクを外した。「めがねのガラスが曇って、視
界が悪かったんだ。時間内に仕事を終えないと、支払いはされないことになっていた」
。53歳の松下さんは回想する。「仲間の一人が近づいてきて言ったんだ。俺達は原子
炉の中にいるって」。
この福島原発訪問の3年後、東京の新宿公園のホームレスたちに対して、黄ばんだ
張り紙が、原子力発電所に行かないようにと警告を発している。“仕事を受けるな。
殺されるぞ”。彼らの多くにとっては、この警告は遅すぎる。日本の原子力発電所に
おける最も危険な仕事のために、下請け労働者、ホームレス、非行少年、放浪者や貧
困者を募ることは、30年以上もの間、習慣的に行われてきた。そして、今日も続いて
いる。慶応大学の物理学教授、藤田祐幸氏の調査によると、この間、700人から1000
人の下請け労働者が亡くなり、さらに何千人もが癌にかかっている。
完全な秘密
原発奴隷は、日本で最も良く守られている秘密の一つである。いくつかの国内最大
企業と、おそるべきマフィア、やくざが拘わる慣行について知る人はほとんどいない。
やくざは、電力会社のために労働者を探し、選抜し、契約することを請負っている。
「やくざが原発親方となるケースが相当数あります。日当は約3万円が相場なのに、
彼等がそのうちの2万円をピンハネしている。労働者は危険作業とピンハネの二重の
差別に泣いている」と写真家樋口健二氏は説明する。彼は、30年間、日本の下請け労
働者を調査し、写真で記録している。
樋口氏と藤田教授は、下請け労働者が常に出入りする場所を何度も訪れて回り、彼
らに危険を警告し、彼らの問題を裁判所に持ち込むよう促している。樋口氏はカメラ
によって―彼は当レポートの写真の撮影者である―、藤田氏は、彼の放射能研究によっ
て、日本政府、エネルギーの多国籍企業、そして、人材募集網に挑んでいる。彼らの
意図は、70年代に静かに始まり、原発が、その操業のために、生活困窮者との契約に
完全に依存するに至るまで拡大した悪習にブレーキをかけることである。「日本は近
代化の進んだ、日の昇る場所です。しかし、この人々にとっては地獄であるというこ
とも、世界は知るべきなのです。」と樋口氏は語る。
日本は、第二次世界大戦後の廃墟の中から、世界で最も発達した先進技術社会へと
移るにあたって、20世紀で最も目覚しい変革をとげた。その変化は、かなりの電力需
要をもたらし、日本の国を、世界有数の原子力エネルギー依存国に変えた。
常に7万人以上が、全国9電力の発電所と52の原子炉で働いている。発電所は、
技術職には自社の従業員を雇用しているが、従業員の90%以上が、社会で最も恵まれ
ない層に属する、一時雇用の、知識を持たない労働者である。下請け労働者は、最も
危険な仕事のために別に分けられる。原子炉の清掃から、漏出が起きた時の汚染の除
去、つまり、技術者が決して近づかない、そこでの修理の仕事まで。
嶋橋伸之さんは、1994年に亡くなるまでの8年近くの間、そのような仕事に使われ
ていた。その若者は横須賀の生まれで、高校を卒業して静岡浜岡原発での仕事をもち
かけられた。「何年もの間、私には何も見えておらず、自分の息子がどこで働いてい
るのか知りませんでした。今、あの子の死は殺人であると分かっています」。彼の母、
美智子さんはそう嘆く。
嶋橋夫妻は、伸之さんを消耗させ、2年の間病床で衰弱させ、耐え難い痛みの中で
命を終えさせた、その血液と骨の癌の責任を、発電所に負わせるための労災認定の闘
いに勝った、最初の家族である。彼は29歳で亡くなった。
原子力産業における初期の悪習の発覚後も、貧困者の募集が止むことはなかった。
誰の代行か分からない男達が、頻繁に、東京、横浜などの都市を巡って、働き口を提
供して回る。そこに潜む危険を隠し、ホームレスたちを騙している。発電所は、少な
くとも、毎年5000人の一時雇用労働者を必要としており、藤田教授は、少なくともそ
の半分は下請け労働者であると考える。
最近まで、日本の街では生活困窮者は珍しかった。今日、彼らを見かけないことは
ほとんどない。原発は余剰労働力を当てにしている。日本は、12年間経済不況の中に
あり、何千人もの給与所得者を路上に送り出し、一人あたり所得において、世界3大
富裕国の一つに位置付けたその経済的奇跡のモデルを疑わしいものにしている。多く
の失業者が、家族を養えない屈辱に耐え兼ねて、毎年自ら命を絶つ3万人の一員とな
る。そうでない者はホームレスとなり、公園をさまよい、自分を捨てた社会の輪との
接触を失う。
“原発ジプシー”
原発で働くことを受け入れた労働者たちは、原発ジプシーとして知られるようにな
る。その名は、原発から原発へと、病気になるまで、さらにひどい場合、見捨てられ
て死ぬまで、仕事を求めて回る放浪生活を指している。「貧困者の契約は、政府の黙
認があるからこそ可能になります」。人権に関する海外の賞の受賞者である樋口健二
氏は嘆く。
日本の当局は、一人の人間が一年に受けることが可能である放射線の量を50mSvと
定めている。大部分の国が定めている、5年間で100 mSvの値を大きく超えている。理
論上、原子力発電所を運営する会社は、最大値の放射線を浴びるまでホームレスを雇
用し、その後、「彼らの健康のために」解雇し、ふたたび彼らを路上へ送り出す。現
実は、その同じ労働者が、数日後、もしくは数ヵ月後、偽名でふたたび契約されてい
る。そういうわけで、約10年間、雇用者の多くが、許容値の何百倍もの放射線にさら
されている説明がつくのである。
長尾光明、78歳、多発性骨髄腫に罹患。東電・福島第一原発で働いた自分の写真を
抱える/ 撮影:樋口健二 (上記のサイトを参照)
長尾光明さんは、雇用先での仕事の際に撮られた写真をまだ持っている。写真では、
彼は、常に着用するわけではなかった防護服を着ている。病気になる前、5年間働い
た東電・福島第一原発で、汚染除去の作業を始める数分前にとった写真である。78歳、
原発ジプシーの間で最も多い病気である骨の癌の克服に励んで5年を経た今、長尾さ
んは、原発を運営する会社と日本政府を訴えることに決めた。興味深いことに、彼は、
契約されたホームレスの一人ではなく、監督として彼らを指揮する立場にあった。「
大企業が拘わる仕事では、何も悪い事態が起こるはずはないと考えられてきました。
しかし、これらの企業が、その威信を利用し、人々を騙し、人が毒される危険な仕事
に人々を募っているのです」と長尾さんは痛烈に批判する。彼は、許容値を超える大
量の放射線にさらされてきたため、歩行が困難となっている。
30年以上の間、樋口健二氏は、何十人もの原発の犠牲者の話を聞き、彼らの病を記
録してきた。彼らの多くが瀕死の状態で、死ぬ前に病床で衰弱していく様子を見てき
た。おそらくそれ故、不幸な人々の苦しみを間近で見てきたが故に、調査員となった
写真家は、間接的にホームレスと契約している多国籍企業の名を挙げることに労を感
じないのだ。東京の自宅の事務所に座り、紙を取り出し、書き始める。「パナソニッ
ク、日立、東芝…」。
広島と長崎
企業は、他の業者を通してホームレスと下請け契約をする。労働者の生まれや健康
状態などを追跡する義務を企業が負わずにすむシステムの中で、それは行われている。
日本で起こっている事態の最大の矛盾は、原子力を誤って用いた結果について世界中
で最も良く知っている社会の中で、ほとんど何の抗議も受けずに、この悪習が生じて
いるということである。1945年8月6日、アメリカ合衆国は、その時まで無名であっ
た広島市に原子爆弾を投下し、一瞬にして5万人の命が失なわれた。さらに15万人が、
翌5年間に、放射線が原因で亡くなった。数日後、長崎への第二の爆弾投下により、
ヒロシマが繰り返された。
あの原子爆弾の影響と、原発の下請け労働者が浴びた放射線に基づいて、ある研究
が明らかにしたところによると、日本の原発に雇用された路上の労働者1万人につき
17人は、“100%”癌で亡くなる可能性がある。さらに多くが、同じ運命をたどる“
可能性が大いにあり”、さらに数百人が、癌にかかる可能性がある。70年代以来、30
万人以上の一時雇用労働者が日本の原発に募られてきたことを考えると、藤田教授と
樋口氏は同じ質問をせざるをえない。「何人の犠牲者がこの間亡くなっただろうか。
どれだけの人が、抗議もできずに死に瀕しているだろうか。裕福な日本社会が消費す
るエネルギーが、貧困者の犠牲に依存しているということが、いつまで許されるのだ
ろうか」。
政府と企業は、誰も原発で働くことを義務付けてはおらず、また、どの雇用者も好
きな時に立ち去ることができる、と確認することで、自己弁護をする。日本の労働省
の広報官は、ついに次のように言った。「人々を放射線にさらす仕事があるが、電力
供給を維持するには必要な仕事である」。
ホームレスは、間違いなく、そのような仕事に就く覚悟ができている。原子炉の掃
除や、放射能漏れが起こった地域の汚染除去の仕事をすれば、一日で、建築作業の日
当の倍が支払われる。いずれにせよ、建築作業には、彼らの働き口はめったにない。
大部分が、新しい職のおかげで、社会に復帰し、さらには家族のもとに帰ることを夢
見る。一旦原発に入るとすぐ、数日後には使い捨てられる運命にあることに気づくの
である。
多くの犠牲者の証言によると、通常、危険地帯には放射線測定器を持って近づくが、
測定器は常に監督によって操作されている。時には、大量の放射線を浴びたことを知
られ、他の労働者に替えられることを怖れて、ホームレス自身がその状況を隠すこと
があっても不思議ではない。「放射線量が高くても、働けなくなることを怖れて、誰
も口を開かないよ」。斉藤さんはそう話す。彼は、「原発でいろんな仕事」をしたこ
とを認める、東京、上野公園のホームレスの一人である。
原子炉の内部。下請け労働者のグループが日本の原子炉内部で働く。彼らのうち何名
かは原発奴隷である。彼らは、何らかの技術的知識が与えられることはなく、国際協
定で認めら れた最大値の1万7000倍の放射線を浴びている/撮影:樋口健二
(上記のサイトを参照)
原発で働く訓練と知識が欠如しているため、頻繁に事故が起きる。そのような事故
は、従業員が適切な指導をうけていれば防げたであろう。「誰も気にしていないよう
です。彼らが選ばれたのは、もしある日仕事から戻らなくても、彼らのことを尋ねる
人など誰もいないからなのです。」と樋口氏は言う。一時雇用者が、原発の医療施設
や近くの病院に病気を相談すれば、医者は組織的に、患者が浴びた放射線量を隠し、
“適性”の保証つきで患者を再び仕事に送り出す。絶望したホームレスたちは、昼は
ある原発で、夜は別の原発で働くようになる。
この2年間、ほとんど常に藤田、樋口両氏のおかげで、病人の中には説明を求め始
めた者達もいる。それは抗議ではないが、多くの者にとっての選択肢である。村居国
雄さんと梅田隆介さん、何度も契約した末重病にかかった二人の原発奴隷は、雇用補
助の会社を経営するヤクザのグループから、おそらく、殺すと脅されたために、それ
ぞれの訴訟を取り下げざるをえなかった。
毎日の輸血
大内久さんは、1999年、日本に警告を放った放射線漏れが起きた時、東海村原発の
燃料処理施設にいた3人の労働者の一人である。その従業員は、許容値の1万7000倍
の放射線を浴びた。毎日輸血をし、皮膚移植を行ったが、83日後に病院で亡くなった。
労働省は、国内すべての施設について大規模な調査を行ったが、原発の責任者はそ
の24時間前に警告を受けており、多くの施設は不正を隠すことが可能であった。そう
であっても、国内17の原発のうち、検査を通ったのはたったの2つであった。残りに
ついては、最大25の違反が検出された。その中には、労働者の知識不足、従業員を放
射線にさらすことについての管理体制の欠如、法定最低限の医師による検査の不履行
なども含まれた。その時からも、ホームレスの募集は続いている。
松下さんと他10名のホームレスが連れて行かれた福島原発は、路上の労働者と契約
する組織的方法について、何度も告発されている。慶応大学の藤田祐幸教授は、1999
年、原発の責任者が、原子炉の一つを覆っていたシュラウドを交換するために、1000
人を募集したことを確認している。福島原発での経験から3年後、松下さんは、「さ
らに2、3の仕事」を受けたことを認めている。その代わり、彼に残っていた唯一の
ものを失った。健康である。2、3ヶ月前から髪が抜け始めた。それから吐き気、そ
れから、退廃的な病気の兆候が現れ始めた。「ゆっくりした死が待っているそうだ。」
と彼は言う。
* * * * *
この新聞は、インタビューを受けられた樋口健二氏より提供された。記事の訳内容
の一部は、樋口氏によって訂正されている。なお、原文では、写真は全てカラーで掲
載。
訳責:美浜の会
引用終わり