サイード)「全世界を異郷と思うものこそ完璧な人間」という考えの来た道(5/9増補)
2010/05/06
2010年5月7日改訂 Hugo of St. Victor: Didascalicon III のリンクを追加
2010年5月9日改訂 Didascalicon の中の古典詩句の引用について
赤坂憲雄さんに勧められて『東北学』の次の号の「旅学」特集に
旅のエッセーを――アフリカのコンゴ川沿いの森で養子になった経験を中心に――書
いています。すぐ50枚にもなって、短
くするのに四苦八苦中。
そこに赤坂さんが講演で引いていた サイードの言葉を孫引きしようかとおもったら、
http://members.at.infoseek.co.jp/myoshitake/kako2000-02.html には、
エドワード・サイードの「オリエンタリズム」という本がある。以前にも書いたが、
サイードはその著の中で、いかにオリエント(東洋)が西洋の特に知識人を中心とし
た人によって作り出されるオリエント像(オリエンタリズム)の中に押し込められ、
自己を表現できないか、という構造を暴き出した。彼はヴィクトル・ユーゴーの次の
文を引用をしている。
「故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じ
られるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。ただ、全世界を異郷と思うも
のこそ、完璧な人間である。」
とあったので、ヴィクトル・ユーゴーならフランス語で探せるなとおもって検索を続
けると、これは、人違いで、
池澤夏樹さんが、次のように調べていました。
サイードは、アウエルバッハの引用で、それはさらに、12世紀のフランスの聖ヴィ
クトル・フーゴーからの引用だったようです。
安渓遊地が、アフリカの物々交換経済の研究で指導してもらった、玉野井芳郎先生の
友人のイリイチまで当場します。
http://www.impala.jp/ikoku/archives/000252.html
こういう論拠で引用する以上、短く切り出すことは許されない。
『ディダスカリコン』の第3巻第19章をそっくり平凡社の『中世思想原典集成』か
ら引く――
最後に異国の地が提起される。
それもまた人間を修練するものである。
全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。
というのは、他方である人が言うように、「いかなる甘美さで生まれ故郷がなべて
の人を引きつけるのか、そして自らを忘れ去ることを許さないのかを私は知らない」。
修練を積み重ねた精神が少しずつ、これら可視的なものや過ぎ去るものをまず取り
換えることを学ぶこと、次いでそれらを捨て去ることができるようになることは徳性
の大いなる始源である。
祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。
けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、
全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。
第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであ
り、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。
私はといえば、幼少の頃より流謫の生を過ごしてきた。
そして、どれほどの悲痛をともなって、精神がときとしてみすぼらしい陋屋の狭苦
しい投錨地を後にするものか、どれほどの自由をともなって、精神が後ほど大理石の
炉辺や装飾を施した天井を蔑むものかを私は知っている。(引用ここまで)
先のサイードおよびアウエルバッハの引用では「祖国が甘美である……」以前がな
いし、「第一の人は……」から後がないから「全世界が流謫の地であると思う」こと
の意義がわかりにくかった。
要するにユーゴーは現世を捨てて大いなる真理に向かえと言っているのだ。
世界は修練のためには煩悩だと言っているのだ。
だから全世界が流謫の地と見えるようになる。
彼は別の書ではもっとはっきり「全世界は、天国が祖国であるべきであった者たち
にとっては流謫の地である」と言っている。
最後の部分はフーゴーの達成の表明でもある。
彼はザクセンで生まれ、そこの修道院で修行してから、マルセイユの聖ヴィクール
修道院に移って勉学を重ね、やがてパリの聖ヴィクトル修道院を率いるまでになった。
だから幼い時に悲痛と共に「みすぼらしい陋屋の狭苦しい投錨地」を出て、最終的
には豪奢な建物を蔑むことができるほど現世離れした自由な境地に至ることができた。
この第3巻第19章の中にはオヴィディウス、ヴェルギリウス、ホラティウスがそ
れぞれ引用してある。
故郷から離れたと言っても、フランス暮らしを楽しんでいるぼくは「世界に愛を分
散させた」レベルに過ぎない。
かと言って、その先まで修行を進める意志などあるはずがない。
イリイチの『テクストのぶどう畑で』をぼくはゆっくり読んでいるし、これを機に
『ディダスカリコン』もゆっくり読むだろう。
このふだん読み慣れない論理構造を持った、中世的なうねるような文体はなかなか
好ましいのだ。
今度パリに行ったら聖ヴィクトル修道院の跡を訪ねてみようかと思うのだが、どう
も場所が特定できない。
シテ島の左岸側というのだが、今のサント・シャペル修道院の前身が聖ヴィクトル
だったのだろうか。
もう少し調べてみなければならないようだ。(引用終わり)
困った時は、プロに助けを求めるのが早道というわけで、わがラテン語のぼせの時代についてのエッセーhttps://ankei.jp/yuji/?n=556
以来おつきあいいただいている、一橋大学図書館のHさんにメールを送ったら、たち
まち、以下の原文(ラテン語)が送られてきました。感謝。
http://freespace.virgin.net/angus.graham/Hugh.htm
CAPUT XIX
De exsilio.
Postremo terra aliena posita est, quae et ipsa quoque hominem exercet.
omnis mundus philosophantibus exsilium est, quia tamen, ut ait quidam:
Nescio qua natale solum dulcedine cunctos Ducit, et immemores non sinit esse sui.
magnum virtutis principium est, ut discat paulatim exercitatus animus
visibilia haec et transitoria primum commutare, ut postmodum possit etiam
derelinquere. [778B] delicatus ille est adhuc cui patria dulcis est;
fortis autem iam,
cui omne solum patria est; perfectus vero, cui mundus totus exsilium est.
ille mundo amorem fixit, iste sparsit, hic exstinxit. ego a puero
exsulavi, et scio quo maerore animus artum aliquando pauperis tugurii fundum deserat,
qua libertate postea marmoreos lares et tecta laqueata despiciat.
5/7 Hさんからの情報追加がありました。解凍しなくても本文が閲覧できるページ
Hugo of St. Victor: Didascalicon III
http://www.thelatinlibrary.com/hugo/hugo3.html
5/9 Hさんに、さらなるおねだりをしておいたら、返事がきました。
おねだり
「Didascalicon III の中のサイードも引用した部分冒頭
delicatus ille est adhuc cui patria dulcis est
中 patria (祖国が) dulcis (甘美だ)というのは、
大学2年のラテン語のぼせの時代にならったホラーティウスの詩句、
Dulce et decōrum est prō patria morī (Hor.)
「甘美にして名誉なり、御国のために命捧げることは」
を思い起こさせますが……」
「調べ物自体は趣味的に楽しいので」とおっしゃるHさんが、Hugo St. Vi
ctor の「本歌取り」の研究を検索してくださいました。
(おお、 ウェルギリウス! 彼の『牧歌 ; 農耕詩』のタータカ、タータカ、ター
タカ、タータカ、タータカ、ターターという「指の関節型六韻脚dactylic hexamiter」
の詩句こそが、わたしの頭の中で鳴り続ける主旋律であった、あの暗唱づけの日々を
甘美に思い出します。)
以下Hさんからのメールの引用です。感謝。
>>>この第3巻第19章の中にはオヴィディウス、ヴェルギリウス、
>>>ホラティウスがそれぞれ引用してある。
サン=ヴィクトルのフーゴー ; 五百旗頭博治, 荒井洋一訳
「ディダスカリコン(学習論) : 読解の研究について」.
泉治典監修『サン=ヴィクトル学派』東京 : 平凡社, 1996.1
(中世思想原典集成 ; 9), p. 25-199
第三巻第一九章「流謫の地について」(p. 104-105)
訳註の p. 189 に従って検索すると、
Ovidius. Epistulae ex Ponto. 1.3.35-36
http://www.thelatinlibrary.com/ovid/ovid.ponto1.shtml
Nescio qua natale solum dulcedine cunctos
ducit et inmemores non sinit esse sui.
オウィディウス ; 木村健治訳「黒海からの手紙」.
オウィディウス ; 木村健治訳『悲しみの歌 ; 黒海からの手紙』
京都 : 京都大学学術出版会, 1998.9 (西洋古典叢書) 所収
Vergilius. Eclogae. ウェルギリウス『牧歌』第1歌.68-70
http://blog-imgs-40.fc2.com/l/i/t/litterae/IndexLocorum.html#Vergilius
http://litterae.blog8.fc2.com/blog-entry-1051.html
en umquam patrios longo post tempore finis
pauperis et tuguri congestum caespite culmen,
post aliquot, mea regna, videns mirabor aristas?
ああ,いつの日か,長いときを隔てた後に,故郷の地と,
貧しい小屋の芝土をもった屋根を,
後に,わしの王国たる幾つかの穂を,わしは見て驚く事になるだろ
うか.
ウェルギリウス ; 小川正廣訳「牧歌」. ウェルギリウス ; 小川正廣訳
『牧歌 ; 農耕詩』京都 : 京都大学学術出版会, 2004.5 (西洋古典叢書)
Horatius. Carmina. ホラーティウス『歌集』2巻16歌9-12
http://blog-imgs-40.fc2.com/l/i/t/litterae/IndexLocorum.html#Horatius
http://litterae.blog8.fc2.com/blog-entry-1288.html
non enim gazae neque consularis summovet lictor miseros
tumultus mentis et curas laqueata circum tecta
volantis.
なぜなら,財宝も,執政官の刑吏も取り除きはせぬのだ,
惨めな心中の混乱と格子天井の周りを 飛ぶ「心労」は.
ホラーティウス ; 藤井昇訳『歌章』東京 : 現代思潮社, 1973.3 (古典文庫 ; 47)