卒業生は今)青年海外協力隊の村落開発普及員に卒業後すぐ合格
2010/04/12
国際文化学部では、青年海外協力隊に興味をもつ学生がけっこういます。国際文化学部の場合は、村落開発普及員か、日本語教師をめざすことが多いのではないでしょうか。これらはほぼ誰でも応募できることから、倍率が平均の倍ぐらい高くて、まず一度で合格することはまれだと言われています。http://www.ets-org.jp/hosoku/mirai_011_02.html
でも派遣される職種と実際の活動ってのは、ほとんどの場合、食い違っていて、結
局どの職種で派遣されても結果はそれほどは違わないのでは、という感触をもったり
もします。
さて、安渓ゼミにいた南裕子さんは、在学中にペルーへいったり、山口の有機農家
に弟子入りして、娘として部屋をひとつもらったり、在学中にアメリカ合衆国のセン
ター大学に交換留学に行って、有機農家にホームステイしたりした経験をもつ人です
が、このほ
ど、難関を突破して村落開発普及員としてネパールに派遣されることが決まりました。
同じ道をめざす後輩のために体験記を書いて下さいとお願いしておいたら、メール
が届きました。抜粋でおとどけします。
面接員にしてみれば、現場の農業経験が豊富で、英語は日常会話に不自由しないほ
どできて、スペイン語にも興味があるというようなところで評価をしてくれたのでは
ないか、と思います。面接でもリラックスしていて異文化との出会いを楽しむ力があ
りそうという印象を与えたものだろうと、想像しています。
以下いただいた引用です。
遊地先生、貴子先生お元気にされていますでしょうか。
先月の14日に2年間お世話になった山口を去り、今は実家で2歳くらいの子ども
たちに毎日プールを教えています。週3回は体育館や公民館でおじさまとおばさま方
と混ざって卓球を再開しました。祖母と母と親子三代でピラティスや社交ダンスなど、
公民館をフル活用しています。先日のニュースで入社式についてやっており、新社会
人のピシッとした姿を見て、「私はいつになったら、あんな風に会社勤めをするのだ
ろうか……」と思いながらネパール語と闘っていました。
8月から青年海外協力隊の訓練が入ってきます。8月のどこか3週間で栃木県の学
校で肥料のことについて勉強します。9月は5日間ほど、東京で村落開発普及員とし
ての活動方法を学びます。10月から12月の2ヶ月間は長野県だったかな?で語学
を学びます。
さて、近況報告と今後の予定はこれくらいまでにして、私が協力隊に応募するにあ
たっての、今までのことを少しだけ書きたいと思います。山口県立大学の後輩に拘わ
らず、これから協力隊への応募を考えてらっしゃる人たちが、先生のサイトを見た際
に、参考にしていただければ幸いです。参考になるかは不確かですが…
青年海外協力隊の事を知ったのは、おそらく、お寺に嫁いだ県大の先輩じゃないで
しょうか。彼女は野菜隊員でアフリカに行っていたと話しておられました(安渓注。
山口大学出身でニジェールにいっておられた、貴ちゃんです)。山口県にきてから無
農薬農家の方との出会いがあり、協力隊に応募する1ヶ月前までは張り切って野菜隊
員で応募しようと考えていました。安渓先生方からも、野菜隊員は応募数が他の部署
よりも少ないので、私の農家でのお手伝い経験が活かせるのではないかと言われまし
た。
アメリカの交換留学プログラムが終了し、秋卒を目指していた私は、帰国してから
は卒業論文に追われていました。卒業式の2ヶ月後くらいに秋募集の締め切りだった
と思います。
久しぶりに家に帰って、母と協力隊の話をしました。もちろん私は野菜隊員で行く
つもりだということにたいして、母は賛成してくれるのが当たり前だと思っていまし
た。しかしながら、教員である母からすれば、安定もしていないし、給料ももらえな
い。ましてや発展途上国に派遣されることになるし、2年間野菜だけ育てる。そんな
活動をしたいといった私に納得がいかなかったようでした。「あんた、農民になりた
いと?大学出て、教員免許も取れるってのに、あんたが将来何をしたいか、私には理
解できません。」と言われてしまいました。いつも私が外に外に出向いていく事を自
分のことのように喜んでいた母だったので、反対されて驚きました。でも、そこで本
当に野菜隊員としていきたいと強い意志があれば、そんなことでやめなかったと思い
ます。私はすんなり野菜隊員での応募をあきらめてしまいました。
自分がおばあちゃんになってからは自給自足を田舎でしたいと思っていますが、
農家でお手伝いさせてもらってわかることは、農民はお金にならないということです。
無農薬で野菜を育てる農民になるだけでは、生活は苦しくなると思います。私はあく
までも半農半Xが理想ですから、野良仕事以外の仕事にも就きたいと思っています。
そこで、私が選んだ部署が村落開発普及員でした。選んだというよりも、それしか私
が行ける部署がなかったというのが正しいですね。村落開発普及員というのは、特別
な経験や能力が特に問われるような部署に属していないため、他の部署と比べると倍
率が非常に高く、わたしのような大卒では通らないのではないかと言われていました。
実際、面接を受けにこられた方はほぼみなさん会社から有給をもらって面接にこ
られている方ばかりでした。村落開発普及員としての派遣される利点といえば、野菜
隊員と違って野菜作りにこだわることなく、様々な活動を自らが提案し、実際に、他
の活動にも携わることができるということでした。私は非常に飽き症なので、常に野
菜と向き合えと言われると続きません。しかし、そこで識字率が悪いのであれば、留
学経験を活かして少しでも英語を教える事ができるでしょうし、日本の事も紹介する
機会が作れると思ったからです。これなら私の自由な性格にあっているし、母も文句
は言わないだろうと思い、1次の書類選考が通過するまで母に内緒で応募しました。
山口大学のようにボランティア活動に関してや協力隊に関してのサポートセン
ターのようなものは山口県立大にはなかったので、一次の書類選考の書類では、堅い
文章になることなく自分の思いを自由に書く事ができました。書類は主に、自分
長所短所や自分が今までやってきたことなどの質問があり、それぞれ3行程度でした。
レポートは、「もしあなたが第一希望の国に派遣されたら、どのような活動を行いた
いか」という内容で1500字くらいで書きました。
インターネットで審査の合否が確認でき、自分の番号が無事にあったことを確認し
て、初めて親に応募していた事を報告しました。書類締め切りから合否が出るまでに
1ヶ月ほど間があいており、気持ちが宙ぶらりんの日々を送っていましたが、1次合
格してから2次面接までの間の期間は2週間しかあいていなかったので、そのままの
熱い気持ちで東京に面接にいけたことが良かったと思います。
面接までの間、緊張しないために友人と遊んだり、アルバイトをしてお客さんと話
して過ごしました。そこで面接の練習になったのが、アルバイト先のお客さんとの会
話です。常連のお客さんは、私の事を心から応援してくれていましたが、多くのお客
さんは私のしようとする事に鼻で笑ったり、全く理解できないから志望動機を教えて
くれと言われました。お客さんなので、そういわれても決して嫌な顔はできません。
常に笑顔で時に真剣に話をし、聞かなければなりませんでした。そのお陰で、東京で
行われた面接ではそんなに緊張もせず、面接官の方と笑顔で会話することができまし
た。
2次試験の結果も1ヶ月待ちだったため、再び気持ちが宙ぶらりんに。北九州の若
者支援センターの方に、あまりに社会を甘く見ていると相手にされずに、もう私には
取り柄なんてないんだと、落ち込む日々が続いていました。しかし、その気持ちを晴
らしてくれるかのように2次試験にも合格する事ができました。しかし、合格通知を
受理した後に、派遣先の国や地域、村のことなどを知らされるまでに、1週間くらい
かかったと思います。書類審査の時に、希望する国や地域を3つ挙げることができま
す。しかし、必ずしもその希望通りに行けるとは限らないのです。私はペルーに行く
機会があった時に、スペイン語を話している国や地域が多い事を知り、スペイン語を
話す事ができれば将来スペイン語を使用する国や地域を旅できると思い、中南米を希
望していました。結果的に派遣先はネパールになりましたが、ネパールを知り尽くす
勢いで、語学勉強を頑張っています。
今考えると出会いというのは運命なんだなぁと感じます。山口県立大学に
安渓先生がいなかったら、山口県立大学に編入してないですし、先生ご自身のサイト
に、論文やオカリナを吹いている写真を掲載していらっしゃらなければ、私は山口県
に興味などわかなかったです。そして、山口の市内観光を自転車で廻っていなければ、
龍福寺の裏通りにある休憩所に入らなければ、防府の農家のお父さんお母さんにも出
会ってませんでした。そんな出会いの積み重ねと言いますか、自分が頭より身体が先
に動いてしまうことや、思い立ったら行動に移さないと気がすまない性格があったか
らこそ、今までの出会いがあったと思い、とても温かい気持ちになります。
今でもそうですが、協力隊などの”ボランティア”という考えは私には無いです。
ボランティアという言葉を使う事に抵抗があるからです。私はただただ、農家の人た
ちと過ごす時間や農家に住んでいる動物たちや生きものたちといる生活することが楽
しくて仕方が無かった。そして、そこで野菜を育てることが楽しかっただけなのです。
農家の方々が猫の手でも借りたいくらいと行っているところに行って、少しでも私が
できることがあれば、みんなが笑顔になれればとやっていたことなのです。その生活
をもう少し続けていたい。すべて自分の幸せのためにやっているように感じるんです
ね。特に私に関しては何か特別な能力、例えば看護士や医者のように治療する力があ
るわけではありません。ですが、ネパールの地で、新たな人やいきものたちとの出会
いを通して、少しでもみんなが笑顔で過ごせるようにしていけたらいいなと思ってい
ます。
南 裕子