わが師)移動大学でフィールドワークの魅力を教えて下さった川喜田二郎先生をしのぶ
2009/09/23
安渓遊地と貴子が、いまのようなフィールドワークを専門とするようになったのは、
川喜田二郎先生(1920年5月11日 -
2009年7月8日)の始められた移動大学運動に参画したからでした。広島のKJ法研究
会が出している機関誌『地平線』で、先生の追悼文をあつめているので、誘いに応じ
て送らせてもらった文章で、まだ印刷されていませんが一足お先にウェブ上で公開さ
せていただきます。
いつでもどこでも移動大学
――川喜田二郎先生にいただいたもの
安渓遊地(あんけい・ゆうじ)
川喜田二郎先生に初めてお会いしたのは、1972年の夏、青森県の鰺ヶ沢町で開かれ
た第10回の移動大学の参加者としてでした。その時以来今日まで、移動大学でいただ
いたものの大きさに感謝しつつ、謹んで先生のご冥福を祈りします。
大学1年生の5月病が慢性化し、3年生になっても、専門の生物学で何がしたいの
か分からないという挫折感をもっていた私は、移動大学という二週間のキャンプが小
笠原で開かれるという知らせをもらって、参加を決意しました。1972年のことです。
きっかけは、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』(岩波新書)を読んで、アイデアを
小さい紙片に書きつけて組み立てる「こざね法」を知り、それを洗練させた川喜田二
郎先生のKJ法というものがあるというので、KJラベルを注文したことでした。そのつ
てで、ダイレクトメールが届いたのです。十分な水がないことを理由に小笠原移動大
学が中止されたあと、青森で開くという知らせがきました。始めから青森だったら参
加していなかったかもしれませんが、108人の参加者が2週間のキャンプ生活をする
という岩木山中に向かいました。
6人ひと組のテント生活。フィールドワークやKJ法と夜の語らい。そこで出会った
のは、それまでに味わったことのない開放感から、すっかりくつろいで腹の底から笑っ
ている自分でした。チームのメンバーが焚き火を囲んでいると、川喜田先生が空いた
ところに座って、いろいろなお話をしてくださいます。話しながら先生は、よく顔を
しかめられたのですが、席があいているたき火の風下は、いつも煙のくる場所だった
からだと後で気付いたものでした。KJ法の作業がなかなか進まないでいると通りかかっ
た川喜田先生が「お、これは大変だぞ!」と、例のちょっととぼけたような声で言わ
れたのが印象に残っています。
時刻表を見ることも、写真を撮ることもまったく経験がなかった私でしたが、気が
ついた時には、翌年の夏、新潟で開かれる第11回角田浜移動大学の準備スタッフとなっ
て、写真係を引き受けていたのでした。あまり自宅にはいなくて、開催までの半年の
うち、東京タワーの下あたりにあった、通称「城山アジト」という家や、新潟などに
100泊したことを覚えています。ひきこもりで大学に行かない「寝たきり学生」だっ
た私が、こんどは「蒸発学生」になってしまったと、母はぼやいていたそうです。
移動大学の8つの目標のうちで「人間性開放」や「雲と水と」に惹かれていた私は、
アフリカでのフィールドワークにあこがれて大学院に進みました。KJ法そのものは苦
手でしたが、移動大学のご縁で結ばれた妻の貴子が、ていねいに教えてくれました。
1981年に沖縄の大学に就職して、学生たちと公設市場のフィールドワークをしました。
その成果を合宿して累積KJ法でまとめあげ、つくば大学に在職中だった川喜田先生に
図解をお見せした時「うん、きみらのKJ法は本物だ」と言われた時は、身がひきしま
る感じがしました。
その後は、西表島やアフリカの論文を書いていて先が見えなくなった時、屋久島に
つどった若者たちと地域課題の解決策を考える時など、ここ一番という時に、KJ法が
その威力を発揮する場面に出会います。今は、韓国ソウル大学校の全京秀(チョンギョ
ンス)先生と知り合って、新しい国際プロジェクトの夢を育てているところです。そ
んな異質の交流の場面では、やはりKJ法での意思疎通が有効なようです。(筆者のUR
http//ankei.jp)