韓国・珍島にて)人間ビビンバをつくろう!――チョン・ギョンス先生との出会い
2008/11/07
2008年11月1日から3日にかけて、わたしたちは、学生9人とともに、韓国珍島をおとずれました。その時の、短いレポートです。
前後にも学会や講義などをこなしましたが、そのクライマックスの珍島での「エスノドラマ」を紹介しましょう。
「人間ビビンバ」を作ろう!――韓国・珍島学会会長チョン・ギョンス先生との出会い
安渓 遊地
山口県立大学の同僚の政治学者・浅羽祐樹さんは、行動力もあるが、とても鼻がきく。ソウル大の人類学の教授のチョン・ギョンス先生と、私に共通の臭いをかぎとって、「かならず気が合うはずです」と言い切って、周到に出会いを準備してくれた。
「珍島の葬式祭りに学生たち参加して踊り狂ってみませんか」というのが、私をクラッとさせた浅羽さんのセリフだった。チョン・ギョンス先生からは、どうせ来るならソウル大での琉球・沖縄研究会で何か発表しないか、という誘いがメールでとどいた。ありがたくお受けすることにした。タイトルは、「済州島民がみた15世紀の沖縄――生活文化と民衆の記憶の持続性をめぐって」とした。2007年の済州島訪問のあとでわかってきた、与那国島と済州島民の500年前の幸せな交流についての沖縄側の民衆の記憶というテーマだ。
地域実習という授業が始まり、参加学生を募集してみたら、9人の希望があった。「人数が多くて引率が大変なら僕も行きますよ」という浅羽さんのありがたい誘いもあったが、お断りすることにした。私と妻は、これまで2度しか韓国へ行ったことがないし、韓国語もからきしできないのだが、経験豊かな人と一緒の旅では頼ってしまって自分たちが育たない。それに、1年間韓国へ留学していた4年生のAさんも参加してくれるので、いざという時は、彼女が後輩たちを助けてくれるだろう。
宿舎でお会いしたチョン・ギョンス先生は、恰幅のいい人で、一度に人を引きつけるような笑顔の持ち主だ。亡くなった兄とよく似ているので、始めてお会いするのに懐かしい気持ちがわき上がってくる。
琉球・沖縄研究会は、発表者と参加者が同じくらいというこじんまりした集まりだった。学会として発足するには、まだ準備が足りないという。それでも、韓国・日本・中国の研究者の多彩な発表があり、日本人の大学院生や、ちん・びるす先生(九州大客員教授)の上手な通訳で、順調に進んだ。
珍島行きのバスに乗り込んだのは山口県立大学、ソウル大学校、ソウル女子大学校の学生達と、韓日中、ペルー、キルギスタン、合衆国という多彩な国籍の顔ぶれだった。バスはソウル女子大のものだった。「どうやってバスを借りましたか?」と、いつも学生と地域に出かけるバスに苦労してきた私はチョン・ギョンス先生に尋ねた。
「私は、ソウル女子大の非常勤として文化人類学を教えていますが、その時に必ず実習が必要であって、そのために大学のバスを準備してもらうこと、を条件に引き受けているんですよ。」先生は流暢な日本語で答えた。なるほど、いろいろな予算を引っ張ってくるのにさまざまな工夫をこらしておられるのだな、と気づいた。
5時間半のバスの旅、モッポの町を経て珍島についた。二本の並行する橋のたもとには、秀吉の水軍を打ち破った民族の英雄・李舜臣(イ・スンシン)将軍の巨大な像が建っている。「潮の流れが非常に速くて、日本からきた水軍も太刀打ちができなかったのです。」とチョン・ギョンス先生。島の人たちが日本人の死体を集めて葬った山に、毎年広島の方から慰霊にくる、とも聞いた。村上水軍の末裔ということなのだろう。
珍島学会は、名前だけのものではなく、ソポリという村にお願いして、そこの新しい公民館を利用して本当の研究発表がおこなわれた。同時通訳のブースまでもちこんで、スペイン語、中国語、日本語、韓国語の同時通訳をやろうという本格的な設備だった。「こんな田舎で、ソウルでもなかなかできないレベルのことをめざすのです」というチョンギョンス先生の言葉に、1988年に西表島でシンポジウムを企画し、こんどまた2009年2月には、沖縄やんばるでのシンポジウムの企画に参加している私としては、非常に刺激をうける企画だった。韓国文化人類学会の会長を2006年から2008年にかけて引き受けているチョン・ギョンス先生に、やんばるまできてもらえたら、ということをふと思いついてしまったのだった。
前日の学会に出席して、逐次通訳の現場に立ち会った4年生のAさんは、こんどはいきなり同時通訳をさせられるはめになった。せっぱつまるのが語学上達の鍵とはいえ、これは重荷だったが、チョン・ギョンス先生は、「すばらしかった!」と口を極めて誉めて下さり、Aさんには、若干の謝礼までくださった。「誉めて伸ばす教育」の実践者なのだ。ペルーの葬礼・チベットのラマ僧の葬式・珍島の壮麗な葬礼と発表が続いた。私も西表島の、お祝いとしての葬式や、性的な冗談が多発する火葬場の場面などを紹介し、神司の葬式に使われる魔除けの植物ダンチクという写真を見せて、そこにはいくつもの珍島との共通点がみられるのでは、コメントをした。
そのあと行われたのは、「葬式ごっこ」であった。毎年続けてきて8回目の今年は、いよいよチョン・ギョンス先生自身が葬儀されるという大役をになうことになった。
「チョン・ギョンス先生は、顔も広いが腹も太い。体も大きくてよく食べる先生です」と、先生のお弟子さんの一人が評していた。公民館で村の女性達に交代で食事を作ってもらったのだが、チョン・ギョンス先生の健啖ぶりに、「よく召し上がりますね」と言ったところ、「今日、僕は死んで生き返るんだから、普通の二倍食べないと」とおっしゃった。
先生の弟子の大学院生が喪主となり、村の女性達とともに喪服をきて、跪いて地面を叩きながら「アイゴー!」「アイゴー!」と叫ぶ。入館の前に死体を縛るのだが、縛りやすいように先生が身をよじって協力すると、一同爆笑しながら「アイゴー!」がつづく。その後も時々顔を覆った帽子をとって何事かをいうたびに、会場は笑いにつつまれ、このようにして泣き笑いのうちに通夜の準備が整う。
ソジュ(焼酎)とつまみが登場したので、私も「アイゴー!」を連発しながら、かけよってお相伴にあずかる。
村の女性達が白装束であらわれ、カンガンスッレという踊りを見せてくれださる。実にしなやかな踊りで、一糸乱れず20分続いたが、4時間続けることもあるという。全員が一つの輪につながって、女性たちのもつ一体感と結束がやぶれれば、すぐ破綻してしまうような踊りである。
酒がまわったところで、音楽が入り、全員入り乱れての乱舞となる。死んだはずのチョン・ギョンス先生が率先して踊っているところがおかしい。
エスノドラマと名付けた葬式ごっこは、翌日も続くが、午前中は、カサ島という島までフィールドワークをして、草葬という、棺を藁で覆うという方式の葬り方を山の名へ見に行く。貴子は、植物をみてリストを作りながら、多様性が非常に高いと驚いている。
午後は、棺を運ぶための御輿のような、西表島ではガンとよぶ物の大がかりなものを組み立てて飾り立てる。幟も赤い布にいろいろな言語で書くのだが、小学校以来の筆をわたされて大いに困惑した。幸い、学生の中に書道で師範代という人がいたので、「いろはにほへとちりぬるを」と書いてもらう。
みなで担いで名残を惜しむように前後しながら歩く。歌の名人の歌や太鼓なども入る。鉦がリズムを刻んでいく。
私も担いでみたが、棺桶の中はわら人形であるのに、かなり重い。担ぐ所が藁でできた太い縄になっている。背の高さが少々違っても担げるという工夫だろうか。行列の後ろから、短い竹の杖をつきながら、生成の喪服をきた「親族」が「アイゴー!」を連呼しながら、うつむき加減に歩いていく。丸顔の女性が妻で、大学院生が息子達である。
公民館の庭にもどった葬列の前の遺影に額づく「遺族たち」とその横でほほえんでいるチョン・ギョンス先生。村おこしのリーダーであるキム・ビョンチョルさんが、先生にビールを差し出すと、先生はうまそうに飲み干し、それを合図にみんなでソジュ(焼酎)を飲む。つまみはチョッカル(塩辛)だ。
村人たちもあずま屋に集まって、楽しげに眺めている。86歳という男性の絶唱があり、94歳の男性の鉦と太鼓など、驚くべき達者さと確かさで芸能が披露されていく。80歳を超えた人間国宝の男性がにこやかに両腕を鳥の翼のように広げる舞いを教えて下さる。30年前は珍島のどの村でもこういう力をもった人たちがいたけれど、今ではこのソポリ村だけがその伝統を守っているそうだ。
昨晩の通夜もそうだったが、伝統芸能が一段落したころ、舞台では大音量のノリのいい音楽がなりだし、遺族と学生が入り乱れての踊りになる。
男性数名と女性達総出演のエアロビ体操が披露される。みなさん70代だというのだが、日本の農村で行われている骨折予防体操などの10倍も激しく、ノリの良いものだ。学生たちも教わり、舞台と下を交代したりしながら、踊りは7回ほど繰り返された。
そのあとの宴会は大交流会となり、地域の受け入れ責任者や、学生・教員の全員が歌や踊りを披露しながら、夜は更けていった。解散間近になり、遺影を抱いたチョンギョンス先生の前に、遺族役の学生と村おこしリーダーのキムさんがぬかずいて、ひとしきり「アイゴー!」「アイゴー!」を繰り返してお開きとなった。
学生たちは、そのあと、村おこしリーダーのキムさんを交えて、反省会を催した。
違う文化や言語や年齢や性の人たちが直接ふれあって混ざりあい、楽しめる経験を積むべきだという哲学を、チョン・ギョンス先生は、「ビビンバ」をつくる、と呼んでおられる。率先して踊るチョン・ギョンス先生の姿をみて、妻の貴子は、「なんだかあなたにそっくり」といった。「みんな違ってみんな変」というのが、私なりの文化人類学の根幹をなす考え方なのだが、わたしは、学生たちとともに、チョン・ギョンス先生の「人間ビビンバ」づくりに参加したいと、強く思ったのだった。
この実習の旅を準備して下さった、チョン・ギョンス先生を始めとするソウル大のスタッフのみなさん、受け入れやホームステイを引き受けてくださった、ソポリ村の人たちに心から感謝もうしあげるしだいである。