わが師)ラテン語にあけくれた水野アリツネウス先生との日々
2008/07/30
今年の3月11日、世界のラテン語フリークの間の名物教授であった、水野アリツネウス(日本名 有庸)先生が亡くなられました。
「寝たきり学生」だった私を、週2日徹夜して勉強する熱中学生に変えた、先生のご恩をおもいながら、
1994年4月に、アイヌ民族とともに生きるシサムの会の『シサム通信』37号、に発表した文章を再録させていただきます。
連載「ことば大好き!」の3回目です。
笑われた中国語から寝た子も起きるラテン語へ
安渓 遊地(大学教員)
合州国と中国が日本の頭越しに国交を樹立するというニクソンショックのあとで大学に入った私は、「いま中国語をやっておけばきっと将来役にたつぞ」と思いました。そこで、新しい外国語としてフランス語と中国語を受講することにしました。このほかに英語もあるのですから、外国語は3つ!ずいぶん欲張った計画です。はりきって通い始めた4月。そして間もなく5月病という病気にかかりました。ちっともやる気がでないのです。5月に入っても出席していた授業は、体育と中国語とフランス語ぐらいのものでした。大学というのは、こんなつまらん所かと、いきなり入口で思ってしまったわけですね。今にして思えばもったいない、申しわけないことでした。
1回か2回休んだ中国語初級の授業に出たら、先生にあてられて、教科書を読むはめになりました。上がったり下がったりの四声はなんとかなるような気がしたのですが、そり舌音だのなんだのという音ががうまく出せなくて、舌がもつれてしまいます。そうしたら、先生は、無慈悲にもこうおっしゃいました。「きみ、こんな初歩のこともできてなくて、よく授業にでてくるね」みなさん、この時、うまくセロが弾けなくて楽長さんに叱られるゴーシュを、楽団のみんなは気の毒そうにして、わざと自分の譜をのぞきこんだりする、というふうに話が展開するとは思われませんか?ところが、さらにさらに無慈悲なことに、何人もの同級生がいっせいにワーッと笑ったのです。ことばの上達の一番のさまたげ、それは「恥かしいと思う心」です。私は、この日を境に、急性の5月病が慢性化し、再起の見込みのない「寝たきり学生」になってしまいました。
専門に進めば生物学をやりたい、などと思っていたはずが、毎日、日中は家でごろごろ寝ています。大学教員をやっている叔父が、なにげない顔をしてこんなことを言います。「生物の学名というのはラテン語だから、今のうちに基礎をやっておいたらどうや。新年度から友達のM先生の授業に入れてもらえるように頼んでおいてやるよ。」夕方4時ごろからの授業だというので、違う学部の授業で卒業の役にはたちませんが、ひやかし半分にのぞきに行くことにしました。
はじめての授業で「欧米では、大学まででラテン語を7年間は学びます。諸君はわずか1年ですが、この授業は欧米の大学の水準をめざします。したがって、最低7倍の努力が必要だということを覚悟してください」とM先生は言いはなちました。その言葉どおり、4時に始まった授業は、ぶっとうしで夜の7時半か8時まで続き、それが毎週2回あるのです。600ページもある文法書は練習問題も含めて2か月で終わりました。授業の前夜は完全に徹夜しないと、膨大な練習問題などできはしません。叔父の紹介で入れてもらった私は、逃げられません。もぐりで入った他学部の授業なのに、私ははまってしまい、「寝たきり」ではいられなくなっていきました。文法のあとは、シーザーのころの「現代文」速読、古文読解と暗誦、ラテン詩の解釈と観賞、ラテン作詩入門と続くのです!いつの間にかM先生のペースにはめられた私は、死にもの狂いでついて行きました。冬が来るころ、気がついてみたら受講生は10分の1になっていました。
現在、ラテン語を話して暮している人はいません。それを学んでもふつう何の役にもたちません。言語のおかれている状況としては、中国語と正反対といってもよいかもしれません。でも、私にとってのラテン語は、重い「寝たきり病」を治してくれたご恩のあることばです。まこと、ことばの勉強っていうのは、自分が逃げられない状況になると続くもののようです。
え?その後の私のラテン語ですか?えーっと、今でも「どんぐりころころ」が歌えるという程度です。それじゃ、ごいっしょに歌いましょう。
ヌックスメア ウォルウィトゥ レーンヌクラ、
どんぐり ころころ どんぶりこ
インスタグニンキディ タークキドゥフィート?
おいけにはまって どうしましょ
ゴービウサドゥナンス サルワシエース
どじょうが出てきて こんにちは
パルウラ メークム ノンルーデース
じょうちゃん いっしょに あそびましょ
(どんぐりは女性形なのです)
[ローマ建国紀元2747年2月4日稿]
追記。これは、水野先生に教わったたくさんの歌の中で、唯一歌えるものです。
長音を示した表記の図をそえておきます。
「『詩文中の -ens- -enf- の e の音は、もともと長い音 (long by nature)なのに
いまどきの若い者は、長い扱いになる音 (long by place)との区別が
つかない』、とキケローが言っております」、とおそわりました。