くさまくら)パリで暮らした日々(1987-88)
2007/12/14
国際文化会館の新渡戸フェローだったころの経験を書いた旅行記のようなもので、1993年に書いたものが出てきました。
私がいただいた新渡戸フェローシップの正式名称は、「社会科学国際フェローシップ・プログラム」。1976年に発足して以来、国際文化会館が継続実施している長期フェローシップ事業であり、 日本の若手社会科学研究者(原則として35才未満)に、海外の大学その他の学術研究機関で一定期間(原則として1年間、安渓がいただいたころは2年間でした)、学術研究・交流に従事する機会を提供することにより、1) 国際的識見、経験および国際コミュニケーションの手段を兼備し、2) 将来、日本の社会科学のさまざまな分野の指導者層となり、かつ 3) 国際交流の積極的なかけ橋となり得る人材を育成することを目的としていました。
https://ihj.global/programs/
この文章は、国際文化会館に提出した報告書に少し手を加えて、広島KJ法研究会の機関誌『地平線』に掲載していただいたものです。
途中下車のパリ――1年半のフランス経験から
◎「お友達を作っていらっしゃい」
第10回の青森移動大学でフィールド・ワークへのあこがれを植え付けられた私は、その後、伊谷純一郎先生の指導を受けるようになり、沖縄県・西表島(いりおもてじま)の廃村へ人類学のフィールド・ワークに行きました。1974年の夏のことでした。それから今日まで、思い返せば旅ばかりしてきました。南の島々で過ごした時間が3年ちょっと。アフリカの熱帯雨林の中の村でも合計2年ばかり暮しました。いつの間にか、フィールド・ノートを持ってあちこち動き回るのが習性のようになってしまいました。この原稿も大山を望む鳥取の海辺の仮住まいで書いています。 そんな旅ガラスでもひとところにわりあい長いあいだ腰を落ち着けることがあります。1987年の春から1988年の夏にかけて1年半ばかり、パリの国際大学都市という、公園のように美しい場所に、妻の貴子、当時4歳の息子とともに住みました。東京にある財団法人の国際文化会館が奨学金をくださり、勤務先(山口大学教養部)もその間の出張を認めてくれたのです。 新渡戸稲造博士を記念した、このフェローシップの主旨は国際学術交流です。つまりは、お友達を作っていらっしゃい、ということです。「研究は、するなと言ってもなさるでしょうが、図書館にこもってお勉強ばかりなどというのは好ましくありません。」というのがオリエンテーションでのアドバイスでした。それを忠実に守って、よくパーティーをしました。 地球各地からの留学生たちの宿舎がある国際大学都市の中央に巨大なお城のようにそびえる建物があります。プールや劇場やレストランなどをその中に擁する国際館の一郭の教員用のアパルトマンに住みました。 それでは、ごく私的な経験に徹して、心に残った出会いのいくつかを御紹介しましょう。プライバシーに関わる話もあると思いますので、登場人物は原則として仮の名前にしてあります。
◎「黄金の本」の言葉たち
自宅でのパーティーをとても大切にするフランス人たちは、来客のサイン帳をリーヴル・ドール、つまり「黄金の本」と呼びならわしています。私も1冊のノートを「黄金の本」のために準備しました。そして、来る人ごとに、なるべく違う言語でメッセージを添えてくれるように頼みました。 いま、改めてそのページを繰ってみると、パリのわが家に招いてともに食べかつ飲んだ人々が書き残してくれたメッセージが踊っています。それらは、アラビア語・イタリア語・ポルトガル語・スペイン語・ルーマニア語・スワヒリ語・ルワンダ語・ブルンディ語・フランスのフランス語などのように、ひとつ以上の国の国語になっているものもあります。また、ベルギーやカナダのフランス語・フランドル語・スイスのドイツ語のように、いくつかの公用語のひとつといったものもあります。それから、南太平洋のトンガ語やフランスの西北部で話されている古いケルト系の言語のブルトン語、さらにアフリカの諸語としてコンゴ語・バミレケ語・プラタ語・バンバラ語・ボーム語・タマシェク語・テテラ語・レガ語・ベンベ語などなど、ほとんど日本では耳にすることもないような言語たちも、話手の多い言語と対等の輝きをもつものとして仲良く並んでいます。 日本の友人たちも、日本語東京方言以外にリンガラ語・ンガンドゥ語・インドネシア語・ヒンディー語・カンナダ語・京ことば・博多弁などでメッセージを残してくれています。そうそう、日本語を書き付けてくれたフランス人たちがいたことも忘れてはなりません。 国境線と国益にしばられた「国際化」志向の結果、国際人=米語がしゃべれる人と誤解したり、やっぱり日本が一番いいという「国粋化」に堕ちてしまう例を見るにつけ、違う母語をもつ人々の個人的で自由な交流の記録として、この「黄金の本」は私にとってとても大切なものになっています。 このように、使われている言語ひとつとってもパリで出会える多様性は驚くべきものです。それが世界都市としてのパリの魅力のひとつなのでしょう。フランスに滞在しているアフリカ各地の留学生たちが、箸と格闘しながら、うちの居間で「アフリカにいたら、こうしてみんなが顔を会わせる機会はなかっただろうね。」と言いあっていたのが印象に残ります。
◎パリには研究者の収容場所が不足しているのです
私が招かれたアフリカ研究所はパリの南半分、セーヌ川左岸の繁華街の10階建ビルの中にあります。ここは20年前に社会科学系の大学院大学や研究所を含むこのビルが建てられるまでは、刑務所だったそうです。第2次世界大戦中にパリを占領したナチスは、向かいの高級ホテルに占領政府をおきました。天気の良い日には学生や研究者たちがエクスプレッソなどを手にして日なたぼっこしている研究所の中庭の高い石の塀には、数多くのレジスタンスの闘士を銃殺したという弾の痕が今も残っています。 アフリカ研究所は、このビルの中に他の研究所と雑居しています。アフリカ研究所の研究員になるのは、とても狭き門で、多くの職員は博士号をもちながらも、事務員として勤務しているのが実情です。そして研究員でも自分専用の部屋をもっているのは所長さんだけなのです。せいぜいが2人部屋で、それも週のうち合計2日ほどを半日刻みで使うという場合が多いのです。年度途中の3月にやってきた私が毎日使える2人部屋をもらったのは、秋からで、それまで研究所で私が使える部屋は、多くの学生と同じく、図書室だけでした。 ただし、郊外の広々した自分の家にこもって本でも書いている方がいいという研究者が多いのだし、そもそも研究者は毎日出勤する必要はない、という意見があったことも、公平のために書きとめておかなければなりません。
◎ごみ捨て場のかわいそうな博士論文たち
図書室の主任司書は、博士号をもつアフリカ研究者で話し好きのオデットです。ある日、オデットがいうには、「ユージ、建物の一階のごみ捨場を見てきてごらん。面白いものがあるのよ。あんた、欲しければもらったらいいわよ。」 半信半疑で下りていって見たものは、高さ1メートル余もある巨大なゴミ箱6つにぎっしり詰まった博士論文の山でした。全部で優に1トンはあるでしょう。一緒に降りた図書出納係のロベールといっしょに1冊1冊掘り起こしてみると、学生たちの汗と涙の結晶ともいうべきたくさんお博士論文のほかに、教授資格にも相当する国家博士論文(日本で言えば、ひと昔前の文学博士号のようなものでしょうか)までがいくつか捨てられているではありませんか。すでにアフリカ研究所がもっていないアフリカ関係の博士論文多数は、オデットと秘書の一人のデルフィーヌが拾いあげて研究所の図書室に運んだというのです。それでも、20冊近い見落としがありました。とりわけ、私が研究してきたソンゴーラ民族を含むマニエマ地方(ザイール共和国の州のひとつです)の経済史に関する2000ページの国家博士論文があったのは、思いもよらぬ拾い物でした。結局これは全ページコピーして日本に持って帰ったのですが、残念ながら、北アフリカ関係の博士論文およそ50編は、見捨てざるを得ませんでした。アジア関係の博士論文は、同じ建物に入っている別の研究所がもう拾っていったのでしょう、まったく見当たりません。 廃品を回収して、図書室に運びあげた私たちにオデットが笑いながら語りかけます。「ユージ、なんだかあんたゴミ箱臭いわね。それにこんなにかついできても、図書室の棚はもう満杯なのよ。」「オデット、いい考えがあるよ、あの大きなゴミ箱をもってきてその中に保管しとけば?いい記念にもなるし……」とこれは私。ついで、オデットを質問攻めにします。 ―いったいどうして誰が捨てたの?初めてのことなの?捨てるくらいなら売ればいいのに。 「もうスペースがないから中央図書室が捨てたんでしょう。学院長さんがかんかんに怒りながら拾っていたから、司書の一存でやったことでしょ。前にも時々こんなことはあったけど、今度のはずいぶん思い切って捨ててあったわね。博士論文を売ることは、法律で禁じられてるから捨てることになるのよ。フランスの研究所や大学の研究と事務がちぐはぐなのは、今に始まったことじゃないけど、ひとりの人間が5年も10年も骨身を削って書きあげた、しかも世界に10部もない論文を、各研究所に何の相談もせずに捨ててしまうなんてどうかしてるわ。」ポーランド出身の彼女は、ややなまりのあるR音をひびかせながらずけずけと批判します。 研究者に部屋がないことといい、満杯の図書室といい、パリ市内の研究機関の空間の絶対的不足はのっぴきならないもののようです。いざとなれば歩いてでも用が足せるこじんまりした首都の魅力を維持するのは大変なことだと思いました。
◎調査先でお金はらうの?「その質問はタブーだよ」
パリに着いて早々に、私をアフリカ研究所に受け入れてくれたエミール先生を、アパートに招待しようとしました。そうしたら、「まずはうちにおいでなさい」と言われて、パリ郊外の彼の家を訪ねました。ブリア=サバランが『美味礼賛(岩波文庫)』で述べている「お客があなたの家にいる間中の幸せに責任をもちなさい」というの言葉をそのまま実践するような心尽くしのもてなしを受けました。ノルウェー産の鮭で野菜を巻いた料理はとても繊細な味わいでした。 食前酒から始まって、白・赤葡萄酒と引き続き、少し酔いがまわったところで、研究所では聞きかねている疑問をぶつけてみました。 ―フランスの研究者は、ずいぶんアフリカに行かれますが、情報提供者への謝礼はどうしておられますか?お金を払う人はありますか。 「ユージ、その質問は誰もしないよ。ほとんどタブーといってもいいね。でも正直に言っておくと、現在のフランスで情報提供者に金を渡さないアフリカ研究者は皆無だろうと思う。」 アフリカに延べ2年いて、ついに一人の使用人をもつこともできなかった私には、エミール先生のこの告白はショックでした。人間相手の研究で、話を金で買うようなことをすれば、それでなくても多いガセネタが金ほしさから無限に増殖するおそれがあるじゃないですか。そのことは、フランス人だって同じことだと思うのですが……。 ことは単なるお金のやりとりの問題ではありません。「調査」する側とされる側の関係というフィールド・ワークの根本にかかわる課題です。どうもこの国でも「する側」は「される側」よりもエライらしい。 こんな例を見たことがあります。安渓貴子がアフリカの料理の技術についてセミナーで発表した時のこと。中央アフリカ共和国の料理の研究をしているフランス人の女性研究者が、2人のアフリカ人らしい青年を連れて聞きにきました。しかし、2時間におよぶセミナーの間に発言したのはフランス人の方であって、アフリカ人たちは彼女が小声で尋ねるのに答えてはいたのに、みずから発言することは一度もありませんでした。セミナーの前にはちゃんとフランス語で紹介しあい、話もしていたのですから、フランス語が不自由なせいではないことは明らかでした。 おしゃべりオデットの家に招かれた時、こんな話が出ました。 「このあいだ、24才くらいのフランス人の女子学生が、アフリカ人の男子学生2人を研究所に連れてきていたのよ。『その人達は?』とその女子学生に聞いたら『わたしのinformateur(情報提供者) たちよ』とすまして答えたわ。なんてあきれはてたことでしょう。植民地がみんな独立したあとに生まれたフランス人の中に植民地時代の根性が生き残ってるのよ。同じ学生なんだなんて夢にも思わないらしいわね。」 研究所に来るようになってすぐ、『フランス語で書かれたサハラ以南アフリカの文献目録』をひとりで作っているジタが皮肉を込めて次のように話してくれたことが思い出されました。彼女は、オデットと同じポーランド出身でオデットより少し年かさに見えます。 「フランスの研究者にはアフリカで調査して論文や本を書いて良い職につき、どんどん出世してりっぱな家にすみ、別荘までもってる人が多いわ。ところが調査されたアフリカ人たちは、あいかわらずひどく貧しい暮らしのままなのよねえ。これはどういうこと?ユージ、よくお聞き、フランス人はアフリカを植民地にしたでしょ。今研究所に3人いる私たち(フランス国籍の)ポーランド人は、アフリカを植民地化したりしなかった。そのかわり、アフリカ研究所を植民地化しようとしてるのよ。(笑)」
◎「最近の論文は悪性のインフレね。」
フランスの研究者が、30年も40年も同じフィールドに通って、深くほりさげた大部の民族誌を書き上げている例をいくつも知って、その中に百科全書葉の伝統が生きていることを実感できたのは幸いなことでした。 でも、最近では、業績を出世の手段とみなす傾向が浸透してきているようです。毎日膨大な論文や本に目を通し、さっと内容をつかんで文献目録用のカードをとるというジタの仕事からでてきたコメントが強烈です。 「最近のアフリカ関係の論文は悪性のインフレね。数が増えただけ中身が薄くなってるのよ。年に5つも6つも書いて繰り返しにならない訳はないのよ。研究仲間で引用しあってまたまた繰り返しを重ねるという手口もあるし……。それから、われもわれもと同じテーマに群がる傾向も困ったものね。フランスでは、今は民族料理の研究がはやり出してきたわね。数年前は土地の管理の問題がモードだった。ユージ、ひとのやらない面白い論文を書かなきゃだめよ。わかった?」 さて、新学年の9月から、アフリカ研究所の所長が私とアメリカから招かれた女性研究者のために所長室の隣のひと部屋を空けてくれました。この例外的な好意的措置のおかげで、研究所の職員たちと語りあう時間が増えていきました。アメリカ女性が帰国したあとに引っ越してきて同室になったシャルロットは、5、6年前に博士号を取り、いまはアフリカ研究センターで出している雑誌の編集事務をしています。彼女が問いかけてきます。 「ユージ、この研究所どう思う?セミナー面白い?」 ―みんな親切でありがたいけどね、本当をいうと自然史博物館の方が僕の趣味にあってるような気がするんだ。あっちの方がセミナーの話も具体的で実感できるし……。 「昔は、ここの研究者も皆な元気でどんどん現地調査したものよ。でも20年ほど前から、研究所全体が深い疲れに取り付かれているのよ。いいフィールド・ワークをするよりも、昔やった調査資料や人の仕事を元にして賢そうな理屈をこねたがる人ばかり。40人くらいいる研究員のなかで、きちんとした民族誌的な記述がある論文を出し続けているのは、ひとりだけなのよ。でも、賢そうな論文で出世をねらわない彼はいっこうにえらくなれない……。私のやってる雑誌にしても、投稿論文ごとにその内容を審査するために2人ずつのレフリーを頼むけれど、常連のレフリーのうちで真面目に読んで、積極的に改善すべき点を指摘してくれるのは、一人だけよ。あいにく、その人は今アフリカに行ってるから、あんたがこの間投稿した論文がちゃんと直されてくる可能性はゼロね。結局、他人のためにさく時間がみんななくなってきてるということね。」 そういいながらシャルロットは、2000ページほどの博士論文を読んでいました。見れば所長さんの国家博士論文で、この要約を作って出版可能な量にせよという注文であるとのこと。これで楽しいはずの夏休みはおじゃんになると頭をかかえているのです。どうも慢性忙し病に侵されているのは、日本人だけではないみたいです。
◎セミナー中に居眠りしていいのは長老だけなのです
パリに着いた当初は自分の研究室もないので、大学院向けの講義をあれこれ冷やかしてみました。普通の会話でさえ満足でない私に専門用語がぎっしりつまった講義がはかばかしくわかる道理はありません。自然に日本での習慣通り居眠りが出ます。何度か同じ講義に顔を出していると、挨拶しあう学生ができてきます。私が居眠りを始めると、彼らは実に親切に横からつついて起こしてくれるのです。夜更しは平気でするのに実に居眠りしない連中であるわいと感心して尋ねてみました。 ―あんたら授業中に居眠りしないね。ひょっとしてすごく失礼にあたるの?日本では、大学教授の定義は「眠っている人間に平気で話ができる人間」ということに相場が決まっているんだけど。 「先生でも学生の発表がよほどつまらん時はちょっとぐらい居眠りすることもあるけど、学生側が寝るのは大変失礼にあたるし、先生の心証を害する恐れがあるよ。」 しかし、セミナー中によく眠るのは私だけではありませんでした。10年以上前に定年になった栽培植物学と言語学の老大家のオーギュスト先生。あちこちのセミナーに実にこまめに顔を出されますが、彼にとって意外な話が展開するときの食いつき様ときたら人が変わったようです。ところが、ありきたりの話だとすぐ居眠りをし、やがてさっさと帰ってしまわれます。現役時代からよく眠られた方だそうですが、学生がいい加減な発表をすると、急に目を開けて「そんなバカなことがあるか」と叱るこわい先生だったそうです。私の居眠りなどとはレベルが違うようです。 私は、アフリカ研究所のセミナーでもよく眠りました。さすがに自分の発表の時は眠れませんでしたが。話し始める前に文献目録係のジタが注文をつけにきました。「ユージ、今日は都合で1時間しか出席できないの。ごめんね。でも短く話した方が印象はいいわよ。」 スライド上映を入れて55分で私の初めてのフランス語での発表は終わりました。そのあと、40分ばかり各人各様の質問に答えました。現在も生きて機能している物々交換の市場の制度という初めて見聞きする事実の面白さが興味を呼んだように思われました。次の時にジタにあった時、こう言われたのです。 「ユージ、よおくお聞き。率直に言って、あんたのこないだのセミナーは、この研究所始まって以来、一番できがいい発表だったわよ!中身も面白かったし、スライドもタカコのスケッチも素晴らしかったけど、あれだけコンパクトにまとめたのが特によかった。長い話をする人が多くて困るのよね。じつにくだらない中身の発表だって多いんだから。」 ―ジタ、ありがとう。でも僕がこれまでにここで聞いたセミナーはひとつの例外もなくみんな面白かったよ。 「まさか、そんなことはないはずよ。」 ―だってあんたも見てた通り、理解できない時、僕は必ず寝てたじゃないか! 私は笑いころげるジタの肩を抱きました。
◎「女の方が勇気があるのよ」
アフリカセンターの他に、私が民族言語学の講義を受けに行っていた「口頭伝承をもつ文明研究所」の所員は、男女が半々ぐらいです。そこで受講している学生は、女7対男3ぐらい。貴子が出ていた自然誌博物館の民族生物・地理学セミナーにいたっては、女9対男1ぐらいの割合でした。文化人類学志望者には男が多い日本とはなにかが根本的に違うようです。 まず、男の研究者に説明を求めました。「人類学なんかやったって食えないから女が吹きだまってくるのさ。」というような論評の仕方でした。 スイス出身で、もう30年間も西アフリカのコートジボワールのある民族の研究をしているアドリーヌに同じことを尋ねる機会がありました。彼女の返事は、私の意表を突くものでした。 「私たち女はね、人類学であろうとなんであろうと、『面白い!』と思ったら経済的なことなんかあまり考えずにそっちの方へどんどんつき進むのよ。それほどの勇気をもてる男たちは、今までのところ少ないわね。」 すでに国立科学研究所の古参研究員として確固とした地位を築いているアドリーヌだから言えることなのかもしれません。しかし、例えばアフリカ研究所の秘書の仕事は、全員が女で、研究員は男女ほぼ同数ではありますが、教授に相当する研究指導員クラスになると、女はわずか1割ほどになってしまいます。昇進時の女性差別が根強いことは事実のようです。とはいえ、フランスの女にとっての研究職への扉は、日本に比べてはるかに広く開かれているのです。既婚・未婚・離婚を問わず女性が子供をもって一人前に働き続けることができるように、公立幼稚園や学童保育など、さまざまの条件がととのえられていることも、私たちがうらやましいと思ったことのひとつです。 アドリーヌは続けます。 「あたしがスイスを離れてフランスに暮らすようになったのは、ここにはスイスにない『女の自由』があるからよ。そのあと結婚して今は一人で暮らしてるけど、私の場合は、結婚した相手がたまたまフランス人だったなんていうんじゃなくて、パリの自由という魅力が先にあったのよ。」 貴子がセミナーでの熱帯作物のキャッサバについての研究発表を5日後に控えて、フランス語を添削してくれる適当な人が見つからなくて困っていると漏らすと、アドリーヌは、すぐに「あさって日曜日なら空いてるから、見てくれる人がないようなら電話してから見せにいらっしゃい」と実に気軽に援助を申し出てくれました。 訪ねたアパートで、新大陸原産のキャッサバの毒抜き方法の地域差からアフリカでの民族移動を復元するという報告を手際よく添削してくれたあと、「この報告に載ってるアチェケというがキャッサバ料理が今冷凍庫に入ってるけど、食べていく?」とアドリーヌ。 これは、コートジボワールに住む息子がもってきたみやげだといいます。蒸したアワのようなアチェケに植物油とトウガラシをつけたものを手づかみで食べて、遅い昼食にしました。聞けば、コートジボワールの“息子”とは、アフリカ人の調査助手を養子にしているのだとのことでした。 「アフリカで長く小学校の教員をしていると精神的にも経済的にも消耗しちゃうから、時々は1年くらいフランスに呼んで勉強と充電をさせてやるのだけれど、ずいぶんお金がかかるわよ。」と“あしながおばさん”はそれでもくったくがありません。
「バツハは面倒くさい岐路(えだみち)を持たず、なんでも食って丈夫ででかく」
という高村光太郎の詩『ブランデンブルグ』の一節を思い浮かべながら、冷凍のまま飛行機がアフリカから運んできた一品料理という簡素で贅沢な食事と含蓄のある会話を私は楽しんでいました。 こうして、パリではたくさんの人と知り合い、杯を傾けながら語り合う機会にめぐまれたのですが、アフリカから来ている学生や研究者との出会い、フランスの田舎に行って家族ぐるみ農家に居候しながら体で学んだことなど、私のフランス滞在のお話はまだまだ続きがあるのですが、ちょうど紙数が尽きました。はるかな地平線をめざす、はらはらドキドキの旅の始めの方のちょっとした途中下車につきあって下さってありがとうございました。
引用終わり。
蛇足。 高村光太郎さんの「ブランデンブルグ」は『詩集・典型』にはいっています。パリでの暮らしから7年目に、雑木林に住み、薪を割りながらくらすようになったのでもう一度読んでみました。
http://www.kurikomanosato.jp/00x-52tk-touhoku-tenkei.htm から
「ブランデンブルグ」
岩手の山山に秋の日がくれかかる。
完全無欠な天上的な
うらうらとした一八○度の黄道に
底の知れない時間の累積。
純粋無雑な太陽が
バツハのやうに展開した。
今日十月三十一日をおれは見た。
「ブランデンブルグ」の底鳴りする
岩手の山におれは棲む。
山口山は雑木山。
雑木が一度にもみぢして
金茶白緑雌黄の黄、
夜明けの霜から夕もや青く澱むまで、
おれは三間四方の小屋にいて
伐木丁丁の音をきく。
山の水を非戸に汲み、
屋根に落ちる栗を焼いて
朝は一ぱいの茶をたてる。
三畝のはたけに草は生えても
大根はいびきをかいて育ち、
葱白菜に日はけむり、
権現南蛮の実が赤い。
啄木は柱をたたき
山兎はくりやをのぞく。
けつきよく黄大癡が南山の草廬、
王摩詰が詩中の天地だ。
秋の日ざしは隅まで明るく、
あのフウグのやうに時間は追ひかけ
時々うしろへ小もどりして
又無限のくりかへしを無邪気にやる。
バツハの無意味、
平均率の絶対形式。
高くちかく清く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。
おれは自己流謫のこの山に根を張つて
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都会と手を切つて
この辺陬を太極とする。
おれは近代精神の網の目から
あの天上の音に聴かう。
おれは白髪童子となつて
日本本州の東北隅
北緯三九度東経一四一度の地点から
電離層の高みづたひに
響き合ふものと響き合はう。
バツハは面倒くさい岐路を持たず、
なんでも食って丈夫ででかく、
今日の秋の日のやうなまんまんたる
天然力の理法に応へて
あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
バツハの蒼の立ちこめる
岩手の山山がとつぷりくれた。
おれはこれから稗飯だ。