やまぐち元気人)田布施の自然菓子工房・大下充億さん
2007/02/16
屋久島の雑誌『季刊・生命の島』に掲載されたものです。写真ももうすぐ掲載させて
いただきます。
島からのことづて30
半農半菓の楽しみ――山口県田布施町の自然菓子工房・大下充億さんの暮らし
安渓遊地・安渓貴子
◎田舎の菓子屋のびのびライフ
山口県の瀬戸内海側に田布施(たぶせ)という町があります。ここには、安心・安
全な材料だけをつかってつくる洋菓子のお店があって、値段もひとつ二百五十円から
三百円くらいと手頃で人気があります。オーナーの大下さんの名前をもじって欧舌(
おおした)といいます。
自然菓子工房・欧舌では、「半農半菓の暮らし」というのを目指していますが、麦
刈りのイベントなどには多くの仲間があつまり楽しくやっているようです。
私たちが指導した卒論生の中に、その麦刈りに参加して、菓子工房の跡継ぎの大下
充億(あつお)さんのこんな言葉を聞いて書き留めた女性がいました。二〇〇三年六
月八日のことです。
「今はとてもいい時ですよ。どんどんいい方向に変わっていっています。その中で
生きて、変わっていける。本当にいい時代になりました。楽しみですよ。」
不景気・テロ・戦争・BSE・アスベストなどなど、あらゆる不幸が団体で襲いか
かってくるような感じの報道が多い中で、この人は、不幸の元栓を止め、プラグをま
とめて抜く方法を見つけたのかもしれない、一度ぜひ訪ねてみよう、と思っていまし
た。
二〇〇五年三月、自然菓子工房を訪ね、家にも連れて行ってもらって、薪ストーブにあたりながらゆっくりお話を聞きました。さらに、二〇〇六年三月五日の「山口県環境保全型農業推進研究会(かんぽ研)」のフォーラムにお招きして、「田舎の菓子屋のびのびライフ」と題して話していただいた内容を加えました。お話をうかがって、私たちも、本来めざしていた「半農半教員」の暮らしに戻りたいと強く思いました。興味を持たれた方は、まずは欧舌のホームページ(http://www.oh-shita.com)で、お菓子の原料へのこだわりを確認して、詩のような彼のエッセーを楽しんでください。お店を訪ねようと思われた方は、何週間もの麦刈り休みや稲刈り休みがありますから、確認してからにされることをお勧めします。
◎はじまりはアフリカ
僕は、一九六八年生まれです。十代、二十代と何をしたいかわからないまま、あっ
ちこっち動いていました。NTTに就職して三年いましたが、それもやめて、十年ほ
ど親元から蒸発したような状況で、気がついたらアフリカにいました。
往復の切符と現金二万円だけをもって、ケニアに行きました。それまでアフリカに
古着を送る運動に協力してたんですが、それが現場ではどうなっているのか、という
のを確かめたくなって見に行ったんです。ケニア北東部の乾燥地のガリッサを中心に
活動している日本のNGO、ミコノ・インターナショナルの手伝いをして、食べるこ
とと寝るところだけは確保された形ですごしました。ソマリアに近い所ですから、難
民が多いんです。ほとんど砂漠のようなところに草で作った小屋がぽつんぽつんとあ
ります。そういう人たちに、国連からの食料を配るという仕事は、もう奪い合いです。
自分が想像で思い描いていた、もらって喜び、あげてうれしい、というような援助の
理想とはほど遠い姿がそこにはありました。
ケニアに入国してすぐのどさくさの中で、虎の子のお金もすっかりなくなりました。
完全に無給ですから、たまにアフリカ人の飲ませてくれる一本十シリング(二十円ぐ
らい)のジュースに、こんな美味しい物があるのか、と感激したりしながら、井戸掘
りや炭焼きの手伝いなど、いろいろな経験をしました。そこには、飢餓や戦争や環境
破壊など、世界のあらゆることの縮図がありました。乾燥地帯なのに思いもよらない
大雨が降って、日本の援助で造った五つのダムが満杯になったので急に放流した結果、
あたり一面の大洪水が起こりました。玄関で釣りができる状態。僕が一年かけてつくっ
たものは、きれいさっぱり流れてしまいました。
三十歳までこんなことをしていたんですから、ニート、引きこもりと言われる若者
たちが、うちに来てみてとても安心するんです。
◎身土不二の暮らしに出会う
もう少し南の方に行くと、緑も豊かで、おそらく数千年もこうしてすごしてきただ
ろうというような自給自足を中心とした身土不二の暮らしがありました。ここで、僕
は生涯忘れることのできない経験をしました。朝起きたら水を汲みに行きます。それ
から畑仕事をします。歌いながら、笑いながら、どうしてこんなに話すことがあるん
だろうと思うほどお互いに話をしながら、昼まで働きます。農繁期でも一日畑にいる
ということはありません。午後はめいめい思い思いに、好きなことをするんです。炭
を焼く人あり、ケーキをつくる人あり、人さまざまです。
家というものは、大きな借金をして買って、それを返すために何十年も働き続けな
くてはならないものだ、と思いこんでいました。でも、その村の十八歳の若者が、自
分で建てた新築の家を誇らしそうに見せてくれたとき、大きなショックを受けました。
土で作ったレンガと草葺きでは十年ほどしか持たないでしょうけれど、崩れたらまた
その土で建てれば良いんです。ベッドだけは金属製だったり、ラジオを持っていたり
しましたけれど。
食べ物は自分で作り、家のローンがない、自殺もいじめもないそんな暮らし。もち
ろん、遠くまで水くみに行くとか、体をめいっぱい使って大変なんです。でもとって
も幸せそうなんです。
僕は、十代、二十代と、「なんか違う、どこか違う」という思いでなにかを探し続
けてきたんですけれど、生まれて初めて自分の中でストンと腑に落ちました。「ああ、
こういう暮らしをしていけばいいんだ」と思えたんです。
◎世界のゆがみに気づく
混沌とした世界の中で、何から始めたらいいかわからない、と思っていたけれど、
まず日本に帰ったら、百姓になろう、自分で食べるコメを作ろうと思いたちました。
今から八年前のことです。
日本人のような、まだ食べられるもの、まだまだ使えるものをどんどん捨てるよう
なモノ豊かな暮らしをしているのは、世界のわずか二割です。でも、そのためにもっ
とも貧しい二割の人は、子どもまでが難民となって何百キロも歩いてこなければ、生
きていけないような暮らしに追い込まれています。
ケニアで向こうが見えないほどの広大なパイナップル畑を見ました。このプランテー
ションで丸一日働いて百シリング(二百円)。それなのに、パンが半斤で五十シリン
グもするんです。家族はすごく人数が多いのに、そんな収入ではとても養うことがで
きません。でーんと、どでかいDモンテ社の看板が出ていました。日本に帰ってきた
ら、その会社のパインが一個百円で売られているんです。わたしたちの暮らしと彼ら
の暮らしはそんな風に結びついていたんです。
世界のこんなアンバランスを治していくために、ヨーロッパでは、ファクター10と
いって、二〇五〇年には、先進国で一人あたりの使うエネルギーを十%に下げよう(
十%下げようではないんですよ)ということに取り組んでいる人たちがいます。
でも、使う資源を減らしたことで、とっても辛い暮らしになるようでは、受け入れ
られませんね。コンクリートばっかりの街中の――僕は「セントラル田布施」と呼ん
でいますが――そんなぼっちゃん育ちの僕でもすなおに喜べるような暮らしでないと
いけないんです。
そんな気持ちをもちながら、ケニアのそのNGOで働いていた、田舎の菓子屋にうっ
てつけの里香ちゃんという名前の彼女と一緒に日本に帰ってきました。
◎自然菓子工房をめざす
山口に帰って、十年ぶりに家にもどってみたら、おやじが「くしゃおじさん」みた
いになっていました。親不孝している間に、こんなに年をとったのかとショックでし
た。実際は、夜なので入れ歯をはずしていたのがそう見えただけだったですけれど(
笑い)。こりゃあ手伝わんといかんな、ということで、親父が「欧舌」と名付けた菓
子屋の仕事を手伝いはじめました。
ところで、アフリカから帰って、うまいうまいと日本のものをあれこれ食べていた
ら、どうも喉がぴりぴりするんです。自分の作っている菓子を食べても喉がぴりぴり
する。おかしいと思って調べてみたら、とんでもない添加物がいろいろと入っている
んですね。たとえば、バニラエッセンス。これは、体積の二十七%までがプロピレン
グリコールという化学物質なんです。スポンジケーキの気泡剤というのもあります。
泡がきめこまかくて、できるスポンジの量も三割から五割増しになる。これにも同じ
添加物が入っていました。
なんとか、そんな人工的なものを使わないで、菓子作りはできないのか。気泡剤を
やめたら、口あたりが悪くなり、利益も落ちるといって、初めのうち父は僕の考えに
大反対でした。でも、度量があったんですね。じゃあ、それでやってみようかと言っ
てくれて、添加物がなかったころ、親父が菓子職人になるため修行したころの配合表
をひっぱり出してきて協力してくれるようになりました。あんなに反対していた父が、
近頃はお客さんに「プロピレングリコールの毒性は」なんて説明しているんです。
百姓になりたいと思いながら田布施の道を運転していたら、道ばたにコンテナがお
いてあり、そこに「百姓・木村」とでかでかと書いてありました。それが、合鴨稲作
をやっている木村節郎さんでした。その出会いから、アイガモロールという作品が生
まれました。これは、おいしくて香りがいいというので、県外からも買いにこられる
ようになりました。「カルガモロール下さい」と言われる人もあります。改装して「
自然菓子工房」の看板を出し、家族だけでやっていたのを、今は、総勢スタッフ九名
になりました。
◎百姓になりたい
アフリカから帰った時、百姓になりたいと決意していましたから、いきなり役場に
行って、「田んぼは借りられないでしょうか?」と聞きました。そして、ど素人の僕
でもできる方法はないか、ということで、調べるうちに、耕さず、肥料もやらず、も
ちろん農薬も除草剤も一切使わない稲作を普及しておられる、奈良の川口由一(よし
かず)さんの方法にたどり着いて、さらにそれを手抜きでできないか、とあれこれ試
しました。
三反の田んぼを借りて、そこに籾をばらまいてみました。川口さんの農法では溝を
掘るんですが、掘った土を投げたままにしておきました。田んぼは平らでないといけ
ない、ということを知らなかったんです(笑い)。その結果高くなって水から出た所
には草がものすごく生えてしまったりしながら、それでも家族で一年食べるほどの五
俵(三百キロ)のお米をいただくことができました。
コメがとれたら次は麦だというので、収穫のあとに小麦をばらまいてみました(今
は、収穫前に播いておきます)。なんとか穂をつけるところまでは来たんですが、す
じ播きしてないので、刈り取りの時に泣きました。
◎仲間が集まる
その時にひらめきました。そうだ! 収穫祭といって、お客さんをまねいたらどう
か、と思ったんです。そうしたら、百人ぐらい来られるんですよ。去年は、百五十人
も来られて、川に降りてイモリをとる人やら、ずっとだべっている人などなど、実際
に麦刈りに精を出している人は二十人ぐらい(笑い)。僕もはじめのへんでピザを作っ
て、作り方を教えるだけ。それも来た人がやってくれますから、あとはずっとおしゃ
べりです。二反ぐらいの麦を刈るだけなら一時間で終わります。それから食べて遊ん
で、最後にハーベスターで脱穀して終わります。それを使って作ったのが、さっき食
べていただいた黒五ケーキや雑穀クッキーです。
みんなが帰ったあとの田んぼは、麦わらを長いまま一面に振りまいた状態になって
います。川口式の苗代に稲の籾を蒔いて、成苗になったら、麦藁の中に一本ずつ植え
込んでいきます。四十センチ×三十センチという超疎植でした(今は、四十×二十セ
ンチ)。見に来た人がやってみたいと言い出すんです。スニーカーをはいたままで植
えられますから。深水を維持して、表面に有機物がたくさんあれば、七月中旬になる
と、まったく草がなく稲だけがりっぱに育つようになります。一株が三十本から四十
本は分蘖(ぶんげつ)して穂をつけます。
始めのうちは、七、八月には、ものすごい草を刈るために、草刈りがトラウマのよ
うになっていたのに、全国の不耕起稲作の人を訪ねてまわって、試行錯誤するうちに
意外にうまくいったんです。そして、草がないと生き物が来ないので、途中で水を落
として少しは草が生えるようにしています。草が多いと生物がにぎやかになるんです。
このやり方で、だいたい一反三百坪から六俵いただけます。
耕さないから機械が要らないでしょう。なにも経費がかからない。
◎茅葺きの古い家の再生
子どもができました。コンクリートのかけらしか遊ぶものがないような、街中でな
いところに家を探しはじめたら、ありました。きれいな水が流れる、千五百坪の棚田
付きの古い家。三百万円でと言われましたが、百五十万しかないと正直に言ったらそ
の値段になりました。
かなりいたんでいましたが、自分でなおせばただです。最近百年の改装をみんなは
がして、化学物質を使わない改装をしました。しっくい塗りなんか、たくさんの子が
手伝ってくれて、同じ部屋でも分担した人によってできあがりがみんな違います。二
〇〇四年の台風でトタン屋根がガラガラと飛んで、空が見えました。職人さんがいた
ので、茅葺きに戻しました。山口には材料も技術もあって、その値段は全国の三分の
一以下なんです。トタンの下で五十年もかけて腐っていた藁を麦畑に入れたら、麦が
ものすごくできました。
そんなくらしを三年前から始めました。
食料の自給については、手間のかからない米と麦は僕、野菜はお袋が、おやじは草
刈りが好きという組み合わせでやっています。
◎エネルギー自給の夢を追って
今は、エネルギーの自給をめざしています。エネルギーをどこまで使わずに、しか
も気持ちよく暮らせるか、という挑戦です。
薪のボイラーと太陽熱温水器が残してありましたので、お風呂は自然エネルギーで
入れます。薪ストーブは、煙突と合わせて五十万円ぐらい。冬の寒さがストレスにな
らないように、一番金をかけています。隙間が多い家で茅葺きですから、夏はたいへ
ん涼しいです。
越してきた時、電気代は一月千五百円でした。それでも、冷蔵庫、洗濯機、パソコ
ン、いろんな電気製品はたいていあります。ここらが、ぼくにとっての不便じゃない
生活かなというあたり。テレビもパソコンで見られますし。冷蔵庫も昔と比べたら、
十分の一の消費電力になっています。
できればその電気も自給したい。この電線の向こうに、原発があったり、火力発電
所があったりして、その石油の確保のために、イラクで人が殺されていると思うとい
やです。
急斜面を流れる小川に眼をつけました。ちょろちょろ一秒二リットル程度の水です
が、四十メートルの落差を生かして、広島のグローイング・ピースという会社から買っ
た小さいペルトン水車を回します。七十万円の投資で、二〇〇五年十二月から、送電
線との接続をやめ、うちだけでの電気になった瞬間、いろんな問題から独立できたよ
うな不思議な感覚をおぼえました。雨が降った時しか暖房便座が使えないと妻はこぼ
していますが。
ガスはだいたい夏で二千五百円。水は井戸ですからただ。簡易水洗のくみ取りは、
僕が担いで田んぼに蒔いています。
棚田は、不耕起が難しいことに気づきました。作土が下へどおっと抜けるようにな
るんです。そこで、仕方なく耕耘機を中古で買うんですが、その燃料が地下資源とい
うのに抵抗があります。それで、使用済みのてんぷら油をペットボトルを使ってバイ
オディーゼル燃料BDFに再生したものを使っています。いろいろ、自分なりの実験
をしているわけです。
昔の人の知恵と工夫は完璧なエコサイクルでした。日本人はそんな知恵の豊かさを
どんどん忘れてしまったんじゃないか、と思います。
◎お金が余る暮らし
いまは、食糧自給、エネルギー自給だけでは暮らせませんから、最低限必要なお金
をお菓子づくりで得るようにしています。うちの店では、「半農半菓」をめざしてい
て、うちの店で働いている九人は、基本的にみんなが半日だけ働いて店が成り立つよ
うにローテーションを組んでいます。
それではとても暮らせないと思われるでしょうけれど、食べ物は基本的に自給です。
光熱費もほとんどかかりません。車もみんなが共同で使うと少ないお金しかいらずに
乗用車でも軽トラックでも全員が乗れる中型車でも使えます。だから、妻と二人、八
万円ずつの収入でも、毎年お金が余ります。そういう暮らしを実験しながら、子ども
ができたのを機会に、なるべく家にいるおやじをしています。
今、弟が菓子職人の修行から帰ってきて、家を僕と同じようにして自分で作ってい
るところです。
よろこびがないと、誰もやりたいと思いません。アフリカから帰ってから、店をや
り、百姓をやり、環境運動をやり、子どもも小さくて手がかかる。すると、もう自分
の中でどんどん時間がなくなっていきました。これはおかしい。時間からもお金から
も解放されていないし、自分自身の家庭環境問題がこわれかけていることに気づいた
(笑い)。
いっぺんすべてキャンセルしようと思って、三年前に百姓にもどり、家を建てるこ
とに専念しました。そうしたら、子どもたちがうちに遊びに来るようになりました。
いちおうゲームボーイやら「たまごっち」やらをもってくるんですけれど、山や沢で
夢中で遊んで、帰るときにはちゃんとおき忘れて行くんですよ。集まってくる子ども
たちとうちの三人の子ども達で、わが家はまるで保育園のような状態になっています。
気持ちよく、体も心も喜べる暮らしをしていると、そのサンプルにいろんな人たち
が集まってきます。これからも、アフリカでもらった身土不二の暮らしのビジョンを、
ここ山口で実行に移しながら、情報を発信していきたいと思っています。ありがとう
ございました。
◎中島紀一さん(茨城大学農学部教授)のコメント
今の大下さんのお話を聞いて、とても特別のとりくみと受け取られた方もあるかも
しれませんが、こういう暮らしぶりは、ほんの少し前には日本の各地で当たり前に行
われていたことでした。日本人の今の暮らしぶりはずい分ちがっておりますが、それ
は少しの脇道であって、三十年か五十年、ほんのすこし戻って考え直すだけで新しい
豊かな世界が広がっているのに気づくと思いました。
私どもも茨城県の阿見町というところで「うら谷津再生プロジェクト」といいまし
て、市民とともに四ヘクタールの放棄水田と十ヘクタールの里山を手入れして再生し
ようとしています。こんなに広い場所をどうやって管理しようかと思っている時、古
い家の屋根を葺き替える必要ができて、水田跡に生えているオギを集めました。それ
でも、屋根葺きには足りない。でも来年も生えるから、というので、それを待つこと
にしました。するとこんどは、あんなにもてあましていた草なのに「来年もちゃんと
生えるといいね(笑い)」となるんです。そういうふうに暮らしが変わっていく中で、
それまでじゃまものだったものが貴重な資源になるという経験をしたことがあります。
アフリカでの体験として、ああ、この生き方でいいんだ、とストンと腑に落ちたと
大下さんはおっしゃっていました。自分が歩むべき道が突然開けて見えてくるという
のは、一番痛快な経験でしょう。
高村光太郎は「道程」という詩の中で「私の後に道はできる」とうたいましたが、
大下さんのお話はまたちがった感覚で、ある時に自分の前に道が見えてくることがあ
る、道はそんな時に自ら開けていくのだと思います。
関連ホームページ
・自然菓子工房・欧舌(山口) http://www.oh-shita.com
・ミコノ・インターナショナル(ケニア)http://www.mikononep.org/
・川口由一さんの耕さない農法(奈良) http://www1.neweb.ne.jp/wa/kenji/sizennou-top.htm
・マイクロ発電のグローイング・ピース(広島)http://growing-peace.com/
・ペットボトルで作るバイオディーゼル燃料 http://journeytoforever.org/jp/biodiesel_processor7.html
・中島紀一さんのとりくみ(茨城)http://www.geocities.jp/urayatunokai/ http://3gatu.net/jp/2005/10/post_18.html
・プラグを抜く方法(世界) http://www.magazine9.jp/interv/tsuzi/index2.html
・安渓遊地と安渓貴子のページ(山口)http://ankei.jp/
(あんけいゆうじ、大学教員・あんけいたかこ、大学パート
教員)