有機リン系殺虫剤)子どもへの影響
2020/03/01
子どものころ、ホリドール(パラチオン)の散布される田んぼの中を通って通学した私は、有機リン系の物質に強いアレルギーがあります。以下は引用です。
★【環境と健康の深い関係】農薬の子供への影響調査 EUは重視、日本は無視=遠山千春・東京大学名誉教授(環境保健医学)
(毎日新聞2020年2月24日)
殺虫剤の一種に「有機リン系殺虫剤」があります。これは化学兵器(ホスゲン、サリンなど)と類似の化学物質で、農薬として使うために毒性を大幅に弱くしたものです。従って、両者は、ほぼ同じメカニズムで病害虫やヒトを含む哺乳類に作用します。神経が正常に働くために極めて重要な役割を持つ酵素「アセチルコリンエステラーゼ」の働きを妨げるのです。その結果、昆虫は神経障害や呼吸困難などで死亡します。
有機リン系殺虫剤の使用量は、前の記事で紹介したネオニコチノイド系殺虫剤の開発で大幅に減りました。それでも今も世界中で、かんきつ類やナッツ類、ブドウ、リンゴ、玉ネギなどの栽培で使われ、食品を介して、日常的に体内に取り込まれています。
有機リン系殺虫剤の中で使用量が多いのが「クロルピリホス」です。これは建材のシロアリ対策にも使われましたが、シックハウス症候群の原因とわかり、日本では2003年に建材への使用が禁止となりました。一方、米国では、クロルピリホスはじめ有機リン系殺虫剤が散布されている地域の子どもたちに、脳の構造異常や精神発達障害が生じていることが報告されています。
さて最近、クロルピリホスの1日摂取許容量(ADI)を決める検討結果が、米国、日本、欧州連合(EU)の順に相次いで公開されました。ADIは「一生涯にわたり毎日摂取し続けても健康に悪影響がないとみなせる量」です。これらの検討は共通の科学的知見に基づくものでした。ところが結論は、米国、日本、欧州、三者三様で互いに大きく異なっています。今回はその状況を紹介し、日本の農薬の安全性評価のあり方を考えます。
■時の政治に翻弄される米国の農薬の安全性評価
米国環境保護局(EPA)はオバマ政権時代の15年、「クロルピリホスの使用は安全とは言えない」との同局研究者らの検討結果に基づいて、クロルピリホス使用禁止の提案をFederal
Register
(80FR69079;日本の官報に相当)で告知しました。禁止案の根拠は動物実験のほか、クロルピリホスを妊娠中に体内に取り込んだ母親と、その母親から生まれた子どもを長年追跡した疫学調査の結果です。調査は米国の3大学の研究者がそれぞれ独自に行い、結果は03年以降、次々と発表されてきました。
コロンビア大学のグループは、建材に使われたクロルピリホスを、胎児の時に体内に取り込んだ子たちを調べ、取り込んだ量が多いと、3歳の時点で精神発達に悪影響が出ることを示しました。この子たちは6~11歳で脳のさまざまな部位の厚さが変化し、知能指数に影響が出ていました。
カリフォルニア大学バークリー校の研究者は、農地周辺の母子を調べ、胎児期にクロルピリホスなどの有機リン系殺虫剤を体内に取り込んだ子たちは、2、3、5、7歳の時点で記憶力や知能指数が低下し、注意欠如の発生リスクが高まると結論づけました。
マウントサイナイ医科大学の研究グループの調査では、胎児期に有機リン系殺虫剤を体内に取り込むことで、学童期(6~9歳)に精神発達の遅延が生じることが示唆されました。
一方、EPAに科学的助言を行う「科学諮問委員会」は、疫学調査などから「クロルピリホスが子どもの脳発達に悪影響を及ぼしている」ことは認めつつも、「クロルピリホスと健康影響との間の定量的な関係は不確かである」と結論し、新たな解析を要求しました。他方、全米の有力な環境NPO(非営利組織)は、一刻も早く使用禁止措置をとることを求める請願書をEPAに提出しました。
しかし17年にトランプ政権が誕生し新たなEPA長官が任命されると、事態は大きく変わりました。19年7月、EPAは環境NPOの請願を却下しました。理由は「子どもの脳機能に異常が生じるという知見は不確かで十分な証拠がない」「クロルピリホスを頼りにしている多くの農場を法的に守る必要がある」ということでした。
米国では、農薬使用が認められる「農薬登録」の有効期間は15年間です。クロルピリホスの有効期限は22年で、その後の使用には「再登録」の手続きが必要です。これが認められるかどうかは、今秋の米大統領選の結果次第かもしれません。
■人間のデータを検討しない日本の規制当局
日本の内閣府食品安全委員会は、クロルピリホスのADIを17年から検討し、18年7月に「体重1kgあたり0.001mgに設定する」と結論づけた評価書を公表しました。18年のクロルピリホスの評価は前回11年の評価に続いて4回目(※注)です。
委員会は、実験動物(ラット、マウス、イヌ)を用いた複数の試験結果から、クロルピリホスの「動物に異常が生じない量」(無毒性量)を算出し、この値を100分の1にしてADIを決めました。この場合の「異常」とは「赤血球のコリンエステラーゼ活性の低下」でした。
EPAにおける検討では、クロルピリホスの量がこの「無毒性量」より少なくても、子どもの脳の発達に悪影響が出る可能性が、米国3大学の疫学調査結果をもとに議論されていました。しかし委員会はこれらの疫学調査の学術論文を検討しませんでした。過去に評価がなされている農薬の場合、委員会が検討する対象は、農薬メーカーが提出した実験結果の概要(農薬抄録など)や海外の評価書が中心で、公表文献は「農林水産省が提出し農薬専門調査会(食品安全委の下部組織)が使用可能と判断したもの」のみを用いる方針だからです。このことは、前回の殺虫剤「ネオニコ」についての記事でも記した通りです。
そして厚生労働省の「薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会」は19年3月、このADIに基づき、クロルピリホスの食品中の残留基準値案を了承しました。日本では、クロルピリホスは、これまでとほぼ同じように使われると思われます。
■欧州はクロルピリホスの使用禁止を決定
EUでは、クロルピリホスの登録の有効期限は20年1月でした。期限切れに先立ってEUは「再登録」つまり継続使用を認めるかどうかを検討し、19年7月に「認めない」と結論を出しました。「欧州食品安全機関(EFSA)」の検討に基づく結論です。クロルピリホスは所定の猶予期間を経た後は使えなくなります。
EFSAは従来、日本の食品安全委員会と同様に、赤血球のコリンエステラーゼの働きを指標にクロルピリホスのADIを定めていました。しかし19年の検討では「農薬メーカーが提出した資料は信頼性に乏しくADIを設定できない(つまり『これ以下の量なら安全だ』とは言えない)」と判断したのです。
EFSAが公表した評価書によると、この判断に最も大きく影響したのは、スウェーデンのアクセル・ミエ氏らが出した学術論文でした。
通常、農薬メーカーが行政に提出した書類は公開されません。しかしミエ氏らは情報公開法に基づいてこの書類を入手し、データを自分たちで検討し直しました。その結果、メーカー側とは相反する結論に達しました。
まず、妊娠ラットにクロルピリホスを与え、生まれた子ラットの小脳の厚さを測る実験について、メーカー側は「与える量が最も少ない場合(1日に体重1kgあたり0.3
mg)には厚さは正常だった」と報告していました。ところがミエ氏らが分析し直すと、実際は厚さが顕著に薄くなっていました。メーカー側の分析方法は「異常あり」との結論が出にくい不適切なものだった、とミエ氏らは指摘しました。
またメーカー側は、生まれた子ラットの脳機能と行動を実験で調べ、クロルピリホスは子ラットの脳の発達に悪影響を与えないとの結論を出していました。これに対しミエ氏らは、この実験の方法が不適切だったために、本来は出るはずの悪影響が出なかった可能性を指摘しました。
これは今から20年以上前の実験でした。当時のEPAのガイドラインに従った実験方法でしたが、妊娠ラットへのクロルピリホスの与え方は、今から見れば、異常が出にくい不十分な方法でした。しかもこの実験をした機関は、鉛化合物を使って同様の実験を行っており、その結果も「悪影響なし」だったのです。鉛化合物は異常をもたらすことが判明済みのため、それでも「悪影響なし」となると、実験法の適切さに疑問が生じます。
結局、ミエ氏らは「動物で無毒性量を設定できず、ADIは導けない」と判断しました。人のADIは通常、動物での無毒性量の100分の1として設定されるからです。
そしてEFSAはミエ氏らの論文や米国の疫学研究から、クロルピリホスがヒトに危害をもたらすことを認め「ADIは決められない」と結論づけたのです。
■農薬の安全性評価のプロセスの透明化の必要性
毒性を調べる実験が経済協力開発機構(OECD)のガイドラインにのっとって適切に行われるなら、メーカー側提出の資料かどうかには関係なく、信頼できる結果が得られるはずです。しかし今回、元データの扱いに問題があることが、原資料を研究者が確認して明らかになりました。想定外の事態です。
日本の食品安全委員会もEFSAと同じ資料を使って検討しています。このため筆者も元データを確認したいと考え、閲覧を同委員会事務局に依頼しましたが、農薬メーカーの知的財産権に関わるとのことで許可されませんでした。
前回書いた殺虫剤「ネオニコ」の記事でも指摘しましたが、殺虫剤成分の毒性情報など、安全性評価に重要なデータは公開すべきです。公開は安全性評価の信頼性を高めるからです。
また安全性評価は、最新の科学的知見に基づいて行うこととされています。しかしOECDガイドラインが推奨している方法は、最新の科学技術から遅れていることがあります。今回のように実験が20年以上前で、信頼性に乏しいことも起こり得ます。さらに、人の健康を守ることを掲げながら、肝心の「人を対象とした疫学調査データ」を検討しないのはなぜなのでしょう。
農薬については、最新の科学的知見をもとに、農薬メーカー、農業者、消費者それぞれが納得できる安全性評価が必須です。そのために、人、実験動物、細胞を対象としたそれぞれの研究知見を、公開性、透明性を高めて、総合的に検討できる環境作りが求められています。