地域の宝物)いま注目の台湾の画家・陳澄波の油絵「東台湾臨海道路」が防府市で発見、しかしなぜか福岡市に「寄託」されるんだそうです
2015/12/22
訂正)陳立栢氏が防府市図書館に来られたのは、2015年8月11日でした。10日に台湾を発って防府までこられていたことを報道する台湾の新聞に引きずられました。訂正します。(12月24日)
修正1)内 郷 説 徳 など 台湾の繁体字がこのサイトでは文字化けになる場合は、日本漢字に直してあります。(12月24日)
修正2)明日12月25日をもって「寄託」の契約がなされるとのことですので、伏せ字を解除いたしました。(12月24日)
台湾の全国紙に載ったニュースです。日本のメディアは気付いていないようですね。台湾では、その日のうちにFacebookの いいね! が4000付きました。
写真は、祖父に出会ったようだとよろこぶ、陳澄波文化基金会理事長の陳立栢氏(防府市図書館において、安渓遊地撮影)
ただし、仄聞するところによりますと、12月25日付けで防府市と福岡市が契約を交わして、防府市図書館から福岡市立アジア美術館へ10年間の契約で「寄託」することになったとのこと。
防府市内や山口県内には、このような絵を預かれる施設がないので、福岡になったとのことですが、本当でしょうか。
地域の物語や記憶と結びついた文化遺産をよそに動かすことは、地域にとってどんな意味をもつのでしょうか。
詳しい経緯が、市民や県民に公開されることを期待しています。
陳澄波の絵画「東台灣臨海道路」が日本に現存
2015年8月29日 聯合報 記者魯永明/嘉義市報導
写真:日本の学者児玉識(左から4人目)は、今は亡き画家の陳澄波の絵「東台湾臨海道路」を山口県防府市図書館において発見した。陳の一番上の孫の陳立栢(右から3番目)は日本に飛んで鑑賞した。
写真/陳澄波文化教育基金会提供
日本の退職教授の児玉識は、日本の占領時期の台湾総督の上山満之進の伝記を書いていて、上山の故郷の図書館に所蔵された台湾の画家の陳澄波の作品「東台湾臨海道路」を発見した。陳澄波の一番上の孫、陳澄波文化基金会の理事長の陳立栢は昨日、家にこの絵の写真があり、実物の所在が不明だったが、日本で適切に保存されていることを知ってとてもうれしい、と語った。
上山は、1926年~28年に在任した台湾総督。在任中に台北帝国大学(現在の国立台湾大学の前身)を創設した。陳澄波は日本の帝展に首位で入選した台湾の画家で、上山は、陳に花蓮原住民区に赴いて太魯閣の山海の景観の油絵を創作するように依頼した。退任後日本に帰って、絵は故郷の山口県防府市図書館に寄贈され所蔵されている。
陳澄波文化基金会は昨年日本で陳澄波の絵画の巡回展を行って、人々の注目を集めた。児玉識は上山の伝記を書くにあたり、防府市図書館において史料を探し集める際、図書館に陳澄波の署名のある絵があること発見して、また日本占領時期の台湾の新聞によって上山が陳に絵を描くことを依頼したという報道の裏付けを得て、真筆の可能性がとても高いと認めて、陳の子孫と連絡をとった。
陳立栢は(8月)10日日本に飛んで真筆であることを確認した。児玉識は、24日に台湾に来て、嘉義に至り陳澄波の90歳の長男の陳重光に面会した。嘉義市の副市長の侯崇文、文化局代理局長の房渚・@は社区大学学長の頼万鎮も同席して、絵の結ぶ縁のすばらしさを確かめた。陳重光と児玉識は初対面だが意気投合しまるで旧知のように児玉識を案内して嘉義公園に陳澄波の画架を見学した。
「祖父の絵を見に行けて心からうれしくまた興奮しました。」と陳立栢は語る。家の中にはこの絵の古い写真があったものの、彼の祖父は228事件のため銃殺されて、家族はみなこの絵がすでに消えてなくなったと思っており、80数年を経て現れようとは思ってもいなかったのである。
陳立栢は、この油絵は山口県と嘉義市の情誼を促すものであるという意見を表明し、近いうちに陳重光が日本へ行って観賞できるように手配するといい、いつか台湾にもこの絵を招いて展示することができる日が来るのを望む、と述べた。
http://udn.com/news/story/7012/1153049-%E9%99%B3%E6%BE%84%E6%B3%A2%E7%95%AB%E4%BD%9C%E3%80%8C%E6%9D%B1%E5%8F%B0%E7%81%A3%E8%87%A8%E6%B5%B7%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%80%8D-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8F%BE%E8%B9%A4
陳澄波畫作「東台灣臨海道路」 日本現蹤2015-08-29 07:32:43 聯合報 記者魯永明/嘉義市報導
日本學者兒玉識(左四)發現日本山口縣防府市図書館典藏台灣已故畫家陳澄波的畫作「東台灣臨海道路」,陳的長孫陳立栢(右三)飛日欣賞。 圖/陳澄波文教基金會提供
分享日本退休教授兒玉識為已故日據時期台灣總督上山滿之進寫傳記,發現上山故郷的図書館典藏台灣已故畫家陳澄波作品「東台灣臨海道路」。陳澄波長孫、陳澄波文化基金會董事長陳立栢昨説,家中有這幅畫的照片,真跡流向不明,得知在日本妥善保存,很開心。
上山在一九二六年到二八年擔任台灣總督,任内創障Q台北帝國大學(國立台灣大學前身)。陳澄波是首位入選日本帝展的台灣畫家,上山邀請陳赴花蓮原住民區,創作太魯閣山海景觀油畫,卸任返日後,把畫捐給故郷山口縣防府市図書館典藏。
陳澄波文化基金會去年在日本障Q陳澄波畫作巡迴展,受人關注。兒玉識為寫上山傳記,到防府市図書館搜集史料時,發現図書館有幅畫署名陳澄波,又找到日據時期台灣報紙報導上山請陳作畫的報導佐證,認為真跡可能性很高,與陳的後代聯恕リ。
陳立栢十日飛往日本確認是真跡。兒玉識廿四日來台,到嘉義與陳澄波九十歳長子陳重光見面。嘉義市副市長侯崇文、文化局代理局長房渚・@和社區大學校長頼萬鎮出席,見證因畫結縁的美事。陳重光和兒玉識一見如故,還帶兒玉識到嘉義公園參觀陳澄波畫架。
「看到祖父畫作開心又激動。」陳立栢説,家中有這幅畫的老照片,但他祖父因二二八事件遭槍決,家人都以為畫已消失,沒想到八十多年後會出現。
陳立栢表示,這幅油畫促成山口縣嘉義市的情誼,近期除安排陳重光赴日觀賞,希望有朝一日也能?來台展出。
この記事が出るまでの経緯を書いておきます。
1)防府市立図書館から児玉識水産大学校名誉教授に、防府市出身の上山満之進の評伝の作成を依頼。
2)2015年、児玉識氏は、執筆を進めるために市立図書館の資料を検討。その中で図書館に属する油絵が、上山が台湾の画家・陳澄波に依頼したものであることを、新聞記事によって確認し、台湾に現地調査に行くことにする。
3)2015年8月、児玉氏から安渓遊地に、台湾における通訳の手配の依頼。安渓は、児玉氏の許可を得て、油絵の写真と上山満之進の評伝中の陳澄波との関係の部分の文章をメールで、元台湾大学図書館特蔵組司書であり、現在は国家図書館司書に転出されている洪氏に送り、通訳の推薦を依頼。
4)2014年の東京での陳澄波シンポジウムで通訳を務めた笹岡氏が最適任者として推薦された。
5)その通訳を探す過程で、メールの転送先のひとつであった嘉義市の陳澄波文化基金会の人々が、この絵の存在を知り、事務局長の陳立栢氏(陳澄波の孫)は、メールを受け取った翌日には防府に来ようとしたが、台風のため8月10日になった。
6)児玉氏の依頼によって、8月11日午前中、安渓は、英語と日本語の通訳として、防府市立図書館に立ち会うことになった。児玉氏、上山家の子孫の上山忠男氏、図書館長、教育長、防府市のT議員が出迎えられた。その後、昼食をご一緒して歓談する機会があった。
陳澄波基金会の孫陳立栢氏が2015年8月11日、防府市立図書館および食事の場で語られた言葉(英語からの通訳:安渓遊地)
本物である
陳澄波一九三〇の署名が左下にあり、白黒写真も陳家に残っている。まさしく本物ですが、どこにあるか行方知れずになっていたものでした。現在残されている陳の絵で、二番目に大きな作品です。額も特別あつらえのもので貴重です。
保存状態は良好だが修復は必要
保存状態は、陳の作品を持っているだけで死刑になりかねないというような政治状況の中で、ほとんどが隠し持たれていたものです。これはもっとも保存のよい部類に属します。それでもキャンバスの破れなどがあり、修復は必要と思われます。
-----修復にかかる時間と経費はどのくらいですか。
約1年です。これまで修復を担当していただいたのは、東京芸大の研究室です。経費はただちには分かりませんが、陳澄波基金会がすべての経費を負担させていただく用意はあります。
防府市にあるという価値
上山総督のご縁で、この絵が防府市で大切にされてきたということは大変ありがたいことでこうして対面できたことは、祖父その人に会えたような天にも昇る気持ちです。この再発見を期に、嘉義市と防府市あるいは山口県との交流が開始されることを強く望みます。
基金会の性格
基本的には陳の一族で運営しています。不思議によく寄付が集まります。私自身は、フィリピンで乳製品を販売する会社を経営しています。日本の製品を主に扱っています。父が会長で、90才ですが元気です。いろいろ出版していますが、作品全集全16巻を図書館にお贈りしましょう。
安渓研究室にも、画集や、修復の経過を示すパンフ、陳澄波をめぐる博士論文などが贈られてきました。来年3月には、学生実習で井竿富雄教授(政治学)とともに、台北と嘉義の実習を予定していますので、陳澄波文化基金会とはメールのやり取りをしていますが、最近のメールを紹介しましょう。一枚の絵でも、地域の物語のなかにしっかり位置づけられる場合には、豊かな人的交流を生む宝となりうることを感じさせてくれる事例だと思われます。また、新聞報道によれば、基金会は台南市を描いた貴重な絵20点を台南市に寄贈するといった活動も行っており、損得や私心をぬきに、実に地域文化の向上のために貢献しておられる団体であると感心させられました。
1. Chaiyi City announced the February 2 is Chen Cheng-po’s Day, musical
theatre, concert and exhibition took place during last four years (as
attachment DSC 4961, 4985). And there are more than 30 spots about Chen’s
painting inside the City, the 260,000 citizens really appreciate it.
嘉義市は、2月2日を陳澄波記念日としていて、ミュージカル、コンサート、展覧会がこの4年間毎年行われています。陳の絵を展示する場所が市内に30箇所以上あり、26万市民の自慢です。
2. Some schools, companies cooperated with our Foundation came to visit
Chaiyi and viewed the place about Chen Cheng-po, the propose is to
experience.
陳澄波基金会が学校や企業に協力して、嘉義市内の陳澄波関連の場所を訪問するという体験学習を行っています。
3. A few months ago, because of the news about one Chen’s painting stolen,
more than 700,000 people clicked within 24 hours on FB.
数ヶ月前のこと、陳澄波の絵が1枚盗難にあったというニュースが出たとき、facebook上でクリックした人の数は、24時間で70万人にのぼりました。
We hope these informations is useful to you, and the most important is that
we are really willing to be a link between Hofu City and Chiayi City.
これらの情報がお役にたつことを願っています。そして何より大切なのは、我々が仲立ちとなって防府市と嘉義市の交流が実現することを、我々が心から願っているということです。
参考 児玉識先生(水産大学校名誉教授)の原稿(2016年春防府市立図書館から出版予定)から 児玉先生の許可により引用します。
原住民族文化への愛着
すでに述べたように上山は台湾官民から贈られた餞別料一万三千円のうち、一万二千円を原住民族研究のために台北帝大に寄付し、残りの額で台湾出身の画家陳澄波に台湾東海岸の風景を画かせました。そして、原住民族使用の独木舟の材によって縁をとり、大額に仕上げ、自邸の応接室に掲げていましたが(『伝記』)、上山歿後に防府市管理下に移されました。本体縦69cm横128.5cmもある、大きくて立派なものです。
インターネット上の「陳澄波年表」( http://www.aerc.nhcue.edu.tw/8-0/taart-jp/html/ca-660a.htm 2015年5月21日閲覧)によりますと、一九三〇(昭和五)年八月二五日の項に「応上山満之進総督之嘱、北赴東海岸達奇里渓写生」とあり、この画は北東海岸タッキリ渓(歌蓮港の北)で写生したもので、上山辞任の二年後の作品であることが分かります。任地を離れてなお旧任地台湾の風景を台湾の画家に画かせているところにも、台湾を愛した上山らしさの一端が見られるような気がします。
追記 台湾画家・陳澄波について
なお、本論から若干それますが、この画を画いた陳澄波について少しばかり記しておきましょう。
陳澄波は明治二十八(一八九五)年に嘉義に生まれ、総督府国語学校に進みましたが、ここで美術教師だった石川謹一郎に才能を見いだされ、画家の道を志し、東京美術学校(現・東京芸術大学)に進学、田辺至、岡田三郎助らに師事し、昭和元(一九二六)年には帝国美術展の西洋画部門に台湾出身者として始めて入選しました。
美術学校卒業後、上海の美術学校の教師として赴任し、ここで中国画の技法も学び、画法をさらに洗練させていきました。その後、台湾に帰り、台湾人仲間と台陽美術協会を設立するなど旺盛な活動を続けました。そして、日本の敗戦によって台湾が中華民国に返還されると、上海で中国画の技法も摂取していた彼は活躍の場がますます広がるものと考え、新時代の到来を歓迎したのでした。
ところが、一九四七年の二二八事件(日本国籍を有していた本省人<台湾人>と外省人<在台中国人>との大規模抗争)で嘉義市代表の一人として国民党軍側との交渉に赴いた陳澄波は、逆に逮捕され、他の多くのメンバーとともに銃殺されて,非業な最期を遂げたのでした(「台南で陳澄波展を見た」
< http://formosanpromenade.blog.jp/archives/4258472.html 2015年5月27日閲覧>)。
以後、国民党政権による弾圧を恐れて、陳澄波の名前を口に出すことすら憚られる時代が長く続きました。しかし、一九八八年に李登輝が本省人として初の総統に就任して以降は、本格的に民主化時代がはじまり、陳澄波も再評価されるようになりました。そして、二〇一四年には「陳澄波生誕一二〇年記念・東アジア巡回展」が台南、北京、上海、東京で開催され、陳芸術の偉大さがいっそう広く認識されるに至っているようです(「陳澄波と沈黙の時代」
http://formosanpromenade.blog.jp/archives/2249833.html 2015年5月27日閲覧>。
私は以前から上山が餞別料の一部で台湾画家陳澄波に台湾の風景画を画かせたことは知ってはいたものの、陳澄波の境涯についてはまったく無知でした。それが、今回、本書執筆中にたまたまインターネットで右のことが分かり驚きました。そして、陳についてもっと詳しいことが知りたくなり、台湾行きを思い立ち、先般(平成二十七年八月)、知人を介して嘉義市の陳家と交渉に入りました。ところが、防府に陳の画があることを知られた陳の孫陳立栢氏は、よほど嬉しかったらしく、私の台湾行きの前に急遽、防府に見え、画を実見され、こちらが想像していた以上に喜ばれました。
その二週間後に私は嘉義市の陳澄波の長男陳重光氏の家を訪れました。重光氏は九十歳の高齢ながら大変元気で、流暢な日本語で、遺品を示しながら、淡々と多くのことを語ってくださいました。なかでももっとも印象に残ったのは、陳が二二八事件で処刑される前夜に家族宛に書いた遺書でした。
また、処刑後に遺体を家に運び込み、妻が撮ったという写真を見せられたときは絶句しました。そのあと、妻は陳の画が焼却されることを危惧して、すべてを隠し込み、以後、長い間、家族にもいっさい陳のことについては話さなかったそうです。同様に、ほかにも陳の画をひそかに隠して保持していた人が何人もいたようです。
近年、陳の画は国際的にも非常に高い評価を得て、注目を集めているようですが、そのうえ、このような過去があるだけに、嘉義市では陳の画に熱い思いを寄せる人が多く、嘉義公園をはじめ町中いたるところに陳作品の展示パネルが置かれ、それらが街の活性化の原動力の一つになっているようにさえ思えます。
その陳の画が防府市にあることは大変に嬉しいことで、本稿の論旨とは関係ないことながら、以上、追記しておきます。(引用終わり)
注記
この記事は、安渓遊地が個人の責任において書いたものであり、その内容については、山口県立大学その他の組織は一切関知しておりません。
また、このブログのあるサーバーも、大学その他の組織からは独立した場所においており、その維持の経費は個人の支出によっています。