宮本学と自分学)松陰先生は弟子達の議論が激すると「斬れ。」とどなるように言われた。すると白刃を柱に斬りつけて議論をやめた
2015/08/28
8/28修正 文中「斬れ。」が「伐れ。」に誤変換されていたのをなおしました。人を斬ると木を伐るのちがいです。
追加 先行研究として平成15年に発表された松田輝夫氏の論考を付け加えました。
直接話を聞くということの大切さということを考える材料として、萩市の名所になっている松下村塾の柱を手がかりにしてみたいと思います。
松下村塾の柱に刀傷らしいものが多数あることについては、現地ガイドさんの説明もあり、あれこれ考えておられるブログもあります。
例えば http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/tyou-syouka.htm
上にも引用されていますが、研究者の意見として、塾生の関与を否定するものもあります。
http://www.shohukai.or.jp/syoumon/32gou.htm
しかし、聞き書きという方法で、宮本常一氏が残した記録によると、柱に刀で斬りつけるという行為は、吉田松陰の指導そのものから出てきたのだということが分かります。いまの常識で「まさか」とおもうようなことが本当にあったのです。「常識」や「定説」の霧にまどわされないで、話されたことを素直に受け取ることが大切だとおもう次第です。
聞き取りをしていると800年前の話*や、500年以上前のこと**がまるで昨日のことにように語られる場面に出会います。そのとき、「まさか」という疑いの心で聞くと、語り手は心を閉ざしてしまうものです。まずは耳を傾けることが大切とおもいます。
*800年前の重源上人@山口市徳地 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004597515
**534年前の済州島漂流民@与那国 http://borderink.shop-pro.jp/?pid=30055809
宮本常一集23、『村里を行く』(昭和1943年初版、未来社版は、1987年)のはじめのあたりに
「御一新のあとさき」という記事があり、そこに松下村塾での松陰先生のようすをじかに見た人からの聞き書きが載っています。吉田松陰の再度の野山獄入りは、安政5年旧暦12月5日のことでしたから、そのころのことです。
(以下引用、……は引用者の省略を示します)
奇兵隊士の話
……昭和一〇年の正月、私は故郷周防大島の村々を防長征伐の様子を知っている人々をたずねてまわったことがある。……当時を知っている老人たちの息をはずませて語る軍物語である。
矢田部宗吉翁もこの戦に参加した一人である。翁は大島郡小松町の医家杉原家に生まれ、のち矢田部家を嗣いだ人である。杉原家は代々医を業としたので、翁もわずか一二歳にして修行のため萩に出た。……
……翁は松陰先生の門に入った。先生はまるで気狂いのような人であった。講義中弟子どもの議論の激することがあって納まりがつかなくなると
「斬れ。」
とどなるように言われた。すると白刃を柱に斬りつけて議論をやめた。そういう時、年少の翁は胸の動悸がとまらなかったという。しかるに入門してわずかに一週間、先生は野山の獄につながれ、やがて江戸に送られて斬られた。……(宮本常一集23,32-33頁)
(引用終わり)
これは、山口県では神格化されている松陰先生の最晩年を直かに見た人から常一先生が直かに聞いた話の記録です。これを読んで、はたと膝を打つところがありました。以下の文章で、なぜ弟子達が村塾の柱に斬りつけたのか、分からないでいたのでしたが、柱に斬りつけるのが、塾の日常の光景であったとすれば、弟子達が先生との別れをおしみ、先生と塾ですごした日々を偲んで一斉に刀を抜いた気持ちが理解できます。そのとき弟子達の耳には松陰先生の「斬れ。」の言葉が響いていたにちがいありません。
幕末維新の長州の聞き書きのひとつに平野岑一(号は秋来)の『長州之天下』があります。大正元(1912)年日東堂書店初版で、マツノ書店から2001年に復刻が出ています。東京できらびやかな活躍をした維新の元勲たちの郷里では係累のものたちがいかにわびしい暮らしを余儀なくされたかに焦点をあて、新聞記者が聞き取りによって取材したなかなか珍しい記録です。その「公爵山縣有朋」の中に、「師弟生き別れの涙松」という節があります。
(以下引用)
……(松下村塾の)茶の間と中の間とは門人の増加するに連れて、塾舎の狭隘を感じ、近所の百姓家を買受てこゝに建増したものだ。その建増の時は先生も門人もほとんど三階総出(安渓注、歌舞伎の用語、三階の大部屋役者も総出)となり、おのおの得意の労役に当つたので、先生が土を運べば、品川が鏝を振って左官となり、山縣が大工の真似をするといつた具合に、地均しから壁塗り、屋根葺きは勿論、一切の工作は一つも職人の手を煩らはさなかつた。甚だ貴重な歴史的の遺物である。さて中の間で何人の眼にも止まるのは、四方の柱に物凄い刀痕が完膚なきまでに印せられてあることである。これには一場の哀話が潜んで居るのだ。
……斯くて松陰を載せた網乗物は、付添の役人に厳重に護られて、一歩一歩死の道を辿つて行く。……これを見送った門人どもは、神もなきか、仏もなきかと、天に訴へ地に悶へて、忠魂義膽の権化ともいふべき恩師の、空しく幕府の虐手に屠らるゝを悲み、塾に馳せ帰るや否や、玉散る柱へ斬りつけた。四角の柱は忽ち六角や八角に斬り苛まれた。其の憤激の痕が今も尚ほ歴然として残つて居るのである。(長州之天下、66-67頁)
(引用終わり)
これは安政6(1858)年旧暦5月25日のできごとでした。