わが師)原子令三さんが愛したもの
2004/06/16
明治大学の教授であった原子(はらこ)令三さんが、亡くなられたとき、
追悼文集に書いたものです。
ちょっと年上の先輩といった雰囲気の方でした。ずいぶん呑み方の指導を
していただいた「わが師」でした。
原子令三さんが愛したもの
私が進学したころの自然人類学(京大理)の研究室では、ゼミが終わると
「さあ、行こうぜ」という声がかかり、どやどやと近くの呑み屋に繰り込む
ことが多かった。助手の原子さんがアフリカのイツリの森から帰ってくると、
「呑み方の指導」の頻度がぐっと増えた。酒の席での原子さんは、フィール
ドでのさまざまなエピソードを語って聞かせてくれた。おかしな失敗談を語
る彼のまわりには、いつも暖かさと楽しさがあった。春は北野神社で花見、
初夏は山菜採り、フィールドにでかける人が増える季節をはさんで、冬には
川端の赤垣屋で琵琶湖の鮒ずしを試したり、外国のお客さんのために鯨を注
文したりした。ところがはじめのうち、日常的に呑みに行く分には、院生は
ほとんど金を払わないでよかったのである。これは、独身貴族の原子さんの
貢献も大きかったのだろうと想像しているのであるが、ある時、毎月の呑み
屋からの請求書の額にたまげた伊谷純一郎先生の鶴のひと声で、この習慣は
あえなく廃止になった。
自分のこと以外には何事にも寛容な原子さんに一度だけ叱られた記憶があ
る。ある時、私は研究室のコンパの会場選びをまかされた。それがどれほど
重要な任務であったかを認識していなかった私に、原子さんはうんざりした
顔でこう言った。「どこでもいいんでしょ、という投げやりな選び方だけは
やめてほしい。」原子さんは、そうした酒の席の雰囲気を何よりも大切にし
ていたのである。
私のはじめてのフィールドワークは、西表島の廃村調査だった。伊谷先生
と原子さんが同行して、山や海の歩き方、キャンプ生活の仕方を指導してく
ださった。原子さんは、薮の中がダニやツツガムシの巣窟であることを知っ
ていたのか「君は山幸、僕は海幸」といって、村の跡には興味を示さず、魚
たちの湧く海に潜ってゴシキエビを突いてくれた。沈没船の所で泳いでいて
急に姿が見えなくなった原子さんが、船の中に入って出られなくなったので
はないか、といって伊谷先生が青くなって探しておられたのも、なつかしい
ひとこまである。
アフリカに行く前には、スワヒリ語の手ほどきを受けた。原子さんが講師
で、教科書のスワヒリ語のようなややこしい変化がない、ザイールのスワヒ
リ語を使うことができる幸せについて、ゆるゆると教えてもらった。「土が
どろどろだ、というのを、タンザニアのスワヒリ語ではマトペ・ニ・ライニ
・サーナというんだけど、ザイールではポトポト・イコ・テケテケ・カビッ
サというんだなあ、感じ出てるでしょ。」2つのスワヒリ語のバイリンガル
を目指して、ケニヤのムアンギさんのスワヒリ語の中級(!)クラスにも通
っていた私は、宿題を持ち帰っては質問を連発し、原子さんを苦しめた。
「今度は、3か月だけだから」といって出かけて行ったザイールで、原子
さんは交通事故に遭う。荷台に綿とドラム缶と人を満載した大型トラックが
横転して、ドラム缶の下敷になった人々は死に、綿の下になった人々は九死
に一生を得た。原子さんは綿の下敷になり、あちこちの骨が折れた。京都に
帰ってきた原子さんは、再手術のために入院。不満は、病院の食べ物のこと
である。「6時間のうちに3回食べるんだぜ、夜もつと思う?」私は、畑中
幸子さんからの差し入れの寿司を届けたこともあったが、ことに喜ばれたの
は、妻が作った氷頭(ひず)なますだった。「僕の郷里では、単になますと
いえばこれのことだよ」といって、原子さんは顔をほころばせた。
研究室から山へ遠足に行った時、われわれ院生は甘いヤマホウシの実をほ
うばって、口の中がイガイガになったのだが、原子さんはそうした“レベル
の低い”食べ物には食指を動かさなかった。そういえば、最後にじっくりお
話した時のことが思い出される。放送大学の「アフリカ論」の収録の相談の
あと、酒を御馳走になった時、私はホタテの貝柱を注文して「美味しいよ」
と言ったのだが、原子さんは「あ、僕はいい、それを食べようとは思わない
」とだけ言った。津軽育ちの原子さんには、むつ湾から東京まで運ばれてき
た冷凍の養殖ホタテなどを食べる気にはとうていなれなかったのだろうな、
と今にして思いあたるのである。
原子さんは、自由と本物を愛した。原子さんは、頑固さをしなやかさに包
みこむすべを私に教えようとしてくれた。あのにこやかな温顔が今も思い出
されてならない。
(1997年2月4日稿)