地域学から自分学へ)幕末長州真宗僧の足跡をたどる越の国巡礼(イントロのみ)
2011/11/25
季刊東北学 の30号に
連載の 島からのことづて6回目を書くというので、3日ほど睡眠時間をけずって呻
吟していました。冒頭のイントロのところだけ載せておきます。できあがりをおたの
しみに。
越の国巡礼――幕末維新長州僧の足跡をたどる旅
安渓遊地・安渓貴子
はじめに
この三五年、私たちは黒潮あらう島々の旅を続けてきました。それは、南の辺境か
らの視点で日本を、そしてアジアを見なおしたいという願いからでした。最近五年間
は、京都の地球研での日本列島の人と自然の歴史の研究プロジェクトで、幕末に薩摩
藩が倒幕をなしえた軍事力の経済的基盤が、奄美沖縄の人々の大きな犠牲の上に築か
れたことを知りました(とくに、統計書とソテツ食の研究を通して)。
薩摩藩とともに明治維新をなしとげた長州藩は、西南戦争で薩摩が脱落したあとは
近代日本をかたちづくる中心勢力となりました。そこに私たちは三〇年来、居を定め
ています。辺境から地方を見て、さらに地方から中央を見る視点がほしいと思います。
維新への貢献度では吉田松陰(一八三〇~一八五九)の知名度が高く、萩には松蔭
先生の弟子達の「松門神社」さえ建立されています。しかし、五〇年にわたって近代
真宗史の研究を進めてこられた、児玉識(しき)水産大学校名誉教授は、山口を震源
とする近代政治史の中で真宗僧の果たしたきわめて大きな役割が忘れ去られている、
と警鐘を鳴らしています(児玉、二〇一〇、二四九~二五一頁)。
吉田松陰との関係だけを見ても、外国からの侵略を防ぐことの必要性を民衆に圧倒
的な説得力で訴えて松陰を感服させた僧・月性(げっしょう)(一八一七~一八五八)
がいます(発音が同じためによく混同される月照(一八一三~一八五八)は、米国と
の条約締結をむりやり進めて、反対する勢力を粛正した安政の大獄で京都を追われ、
西郷隆盛(一八二八~一八七七)と錦江湾で入水して死んだ別人です)。もう一人は、
聾唖の真宗僧・宇都宮黙霖(もくりん)(一八二四~一八九七)です。彼は安芸の人
で松陰と手紙を交わし、幕府を諫めようという立場であった松陰を論破して倒幕論者
に変えています。
山口県の人たちが好きなもうひとつの名前は「奇兵隊」です。時代劇などでイメー
ジだけが一人歩きしているきらいもありますが、高杉晋作(一八三九~一八六七)が、
武士だけでなくあらゆる階層の人たちを迎え入れ、幕府の軍勢を打ち破ったパワーに
こと寄せた「~奇兵隊」という団体が、山口ではいくつも活動しています。
私たちはまず、激動の幕末長州で僧侶の活躍がどの程度あったかを検討するために、
現在残されている『奇兵隊日記』を読み直すことから始めました。幕末から明治にか
けての政治情勢はめまぐるしく変わりますが、元治元(一八六四)年から慶応二(一
八六六)年の二次にわたる長州との戦争に幕府側が破れたことで幕府の凋落は決定的
になりました(野口、二〇〇六)。そして、この長州戦争の中で相互にスパイを送り
込む命をかけた情報戦を生き抜いたひとりの真宗僧・香川葆晃(ほうこう)に注目し
ました。
香川葆晃は、月性の遺志をついだ三人の長州真宗僧と出会い、その盟友関係は生涯
続きます。その三人とは、島地黙雷(しまじ もくらい)、大洲鉄然(おおず てつ
ねん)、赤松連城(れんじょう)です。時代が明治に入ると「長州四傑僧」とも言わ
れた彼らは、当時日本最大の宗教勢力であった西本願寺本山で、四〇〇人もの武士団
を解体し、すべての寺を本山直属として末寺にも平等の権利を与える大変革を成功さ
せます。彼らは、全国を吹き荒れた嵐のような廃仏毀釈を明治政府に働きかけて止め
ました。ヨーロッパでの見聞に基づいて政教分離と信教の自由を国家の建前とさせて
日本の仏教界全体を救ったことから、彼らは「仏教界を守った維新四僧」とも呼ばれ
ました。これは、長州戦争の中で彼らがともに武器をとって戦った仲間たち(木戸孝
允・伊藤博文・山縣有朋など)が明治政府の要人となっていく過程とも重なっていま
す。彼らは新たに生じた宗主対末寺という関係を、議会と規則という形で整合させま
すが、この先駆的実験は、天皇と民権という問題を帝国議会と帝国憲法という形で整
理した近代日本のグランドデザインに生かされているとも言えます。政教分離の建前
をつくった人たちの密接な「政教協力」の過程に光をあてる必要があるでしょう。
文化人類学をはじめとするフィールドワークでは、以前は調査者が透明人間のよう
に、観察したことを客観的な記録に残すというタイプの研究が標準とされましたが、
最近では、地域研究のあらゆる記録は、調査する人とされる地域の相互作用の結果だ
と理解されるようになりました。地域研究は、それが「他人事」である段階から「自
分事」となったとき、本当の輝きを発揮するとも言えるでしょう(本誌二四号「父た
ちの待つ村への旅――私のアフリカ経験」参照)。実は、私たちがまず香川葆晃に注
目したのは、彼が安渓遊地の曾祖父(母の母の父)であるという理由もありました。
子孫として入手した戸籍等の情報も集めて、本山で活躍する香川葆晃を支えた側室ヨ
ネ(母の母の母)の存在を突き止めました。ヨネは、長州藩家老職の宍戸家に生まれ
毛利家の武道を身につけました。兄弟には日露戦争時の大蔵大臣で、伊藤博文につぐ
第二代の韓国総監になった曾禰(そね)荒助がいました。
失われた記憶をたどる山口県でのフィールドワークのあと、私たちは、済州島から
与那国島への旅(本誌二五号)で、兄弟のちぎりを結んだ、ソウル大学校人類学科の
全京秀(チョン・ギョンス)教授とともに、二〇一一年夏、石川から新潟にかけての
越の国への旅に出ました。それは、幕末から明治にかけて、あれだけ大きな変動を乗
り越えた日本仏教の今の姿を確認する巡礼の旅となりました。
一向一揆で織田信長をも恐れさせた「真宗王国」には、いまも長州四傑僧の足跡が
あちこちに記されていました。そして、現在の寺と檀信徒が実にさまざまな取り組み
をしているということが強く印象に残りました。仏教のプロテスタントとよばれた真
宗の教えを、富山県の寺でラディカルなまでにわかりやすく説いた、真宗僧・安渓雅
亮(遊地の父の父)の教えに触れつつ、未来をひらく自分学の第一章としたいと思い
ます。