國分直一先生の新しい本「日本民俗文化誌」の序文を書かかせていただきました #KokubuNaoichi #taiwan RT @tiniasobu
2011/07/17
「日本民俗文化誌」と題する國分先生の論文集の大冊の編集と中国語訳と日文中文2
冊の同時刊行という壮図が台湾大学図書館を舞台に進行中です。
先生に友人と呼んでいたご縁などから、安渓遊地が指名されて序文を書かせていた
だくことになりました。以下のような文を書いておくりました。
以下引用
國分直一先生 人と学問
知の巨人
國分直一先生(一九〇八~二〇〇五)は、フィールドワークの方法によって東アジ
アの総合的先史学を切り開いた「知の巨人」である。その広大無辺な学問世界の一端
を、ここに一冊にまとめた論文集の形で読者のみなさんにお届けできることは、この
上ない喜びである。
國分先生の学問世界については、まずは目次にそってその広がりを把握していただ
きたい。より深く学びたいという方は、このほどすべての蔵書や原稿類・フィールド
ノート・講義録・写真などを網羅した國分コレクションが散逸を免れて、台湾大学図
書館に納められ、鋭意整理が進められているので、学習や研究を深めていただける手
がかりとしていただきたい。また、考古学資料と民具については、台湾大学人類学教
室に収蔵されている。
私は、妻の安渓貴子とともに沖縄の西表島の人と自然の関係の研究をしていたこと
から、南島における農耕の起源をめぐって國分先生の著作に啓発されるところが多かっ
た。一九八二年に山口市内に職を得て住んだ宿舎が國分先生のお宅の近くであったこ
とから、時折お宅を訪問する機会をいただいた。何を報告しても、目をまるくして「
そうですか!」「いやー、愉快だな!」と若々しい少年のように言ってくださるのが
うれしかった。
そのころ先生は、毎年二冊ぐらいのペースで浩瀚な研究書や大部の翻訳書を出版し
ておられた。その秘密を、國分先生はこう語った。
「論文を書いていると、どうにも疲れて先に進まなくなることがあります。その時
は、翻訳をするのです。しばらく翻訳をすると頭の疲れがとれてきますから、また論
文にかかって、だいたい毎朝午前三時ころまでこれを繰り返します。」
一九九〇年に日本民族学会(現在の日本文化人類学会)のプロジェクトで、國分先
生のお話を映像として残すことになった。その準備のひとつとして、私は、戦後の台
湾での四年間の間に金関丈夫先生や國分先生が創られた『回覧雑誌』をお借りして読
んだ。そこには、若き日の國分先生の青春記が「絹ごし豆腐のような」と評された細
やかな筆致で愛情深く綴られていた(二〇〇六年に福岡市の海鳥社から出版の『遠い
空―國分直一、人と学問』に収録)。
台湾と國分先生
國分先生は、東京に生まれた年に、父君の後を追って打狗(高雄)に移り住んだ。
ちょうど台北からの鉄道が全線開通した翌日であった。そこで過ごした幼い日々の思
い出の中から、國分先生の人柄を形作ったと思われる言葉をひろってみよう。
「台湾で育って、異文化を尊敬することを早い時期に身につけました。」
「子どものころ虚弱だったことが、弱い者、小さい者への共感につながったのかも
知れません。」
國分先生は、異なる人たちに対していささかも差別の心をもたず、差別される人々
への共感と、権威や権力をふりかざすものに対する強い怒りを秘めておられた。それ
は、台湾での生活で身についたものだったのである。
京都帝国大学文学部史学科に入学した國分先生は、左翼の運動の文書を密かに預かっ
たり、卒業後も文部省による学問への介入に抗議して法学部教官が辞任するという滝
川事件のデモに参加したりする中で、特高につけねらわれるようになる。「あのまま
では國分君は憲兵に殺されてしまう」と心配した台湾の恩師の配慮で、台南女学校の
教諭となった。
國分先生は、学問の道をあきらめきれず、どうしたら精神の空白を埋めることがで
きるだろうかと模索するうちに、先史学と出会うのである。人生の師となった金関丈
夫教授の指導で、考古学調査に没頭する國分先生の胸中にあった思いは、単に学問的
なものだけではなかった。
「山の中に閉じこめられている人達(原住民族)こそ台湾の主人公である事を、僕
は証明してやろうと思いましてね。」
戦後の台湾での留用の四年間を國分先生は、台湾省立編訳館と台湾大学民族学研究
室で過ごされた。その時代にいつも先生の胸にあったのは、先に帰国させた奥様の一
子さんと、娘さんの紀子さんのことだった。金関丈夫先生は、そんな家族を気遣って、
自作の絵手紙を送っている。題して「國分先生行状絵巻」。暖かなその筆致は、師弟
愛の深さを感じさせるものである。「留用」は台湾でやり残した仕事を仕上げるよう
にという配慮だったが、留用された日本人の間で一部かぎりの雑誌を作り回覧すると
いう習慣が芽生えた。それは一五号まで続いて編集され、貴重な記録となっている。
國分先生の留用中の仕事は、爆撃で破壊された収蔵物の実測図の作成であった。あ
らたな遺跡を発見し調査することも続けていたが、あらたな遺跡がみつかるほど帰国
もまた遅れることになるのが悩みだった。
その後の國分先生の活躍
一九四八年に帰国して、長野県の高校教員などを経て、一九五四年、下関市の水産
講習所(現在の水産大学校)の助教授になった。若い人たちと接する喜びを國分先生
は次のように語っている。
「学生との接触。いつまでも忘れないで憶えていてもらえるという楽しみがありま
すね。それから、どんどん知的にも成長してきますから、それを眺める楽しみがあり
ます。」
教育のかたわら自由な研究に没頭することが許されるという、夢のような時代がと
うとうやってきたのであった。
「思想犯として獄中で死んでいった大学時代の友人達のことが、いつもいつもコン
プレックスでした」という國分先生が、ようやくそうした思いから自由になって研究
に打ち込めるようになってきたのであった。
やがて、台湾ともまた自由に行き来できる時代を迎えて、國分先生は、国内外の様々
な会議や調査に赴くようになる。晩年までそのバイタリティは衰えることなく、一九
八八年に私どもが西表島の方々とともに主催したシンポジウムにも来てくださって、
台北師範学校時代の学生であった考古学者の劉茂源教授とともに、廃村までも足を伸
ばしてくださったことや、酷暑の中で石垣島の遺跡巡りをしても、若いわれわれより
もお元気であったことなどが懐かしく思い出される。
熊本大学・東京教育大学・梅光女学院大学(現、梅光学院大学)に職を得て教育に
研究にと奔走する中で、特筆すべきは、一九七七年から一九八七年にかけての雑誌『
えとのす』の運動だった。これは、恩師金関丈夫博士の『民俗台湾』の運動を範とし
て、それを学問的にも地域としても大きく越境することをめざした大型の総合グラビ
ア誌で、季刊で三二号まで刊行された。
この雑誌の編集を引き受けたことから、國分直一先生の学問世界や人脈がそれまで
にも増して著しく広がったことは間違いない。この論文集にも、先生が『えとのす』
に寄稿された文章が数多く収録されている。
しかし『えとのす』の考古学を中心に編集した号は順調な売り上げをみたが、フィ
リピンの先住民族アエタをとりあげた号のように、民族学中心の号の売り上げは著し
く不振であった。『えとのす』を存続させるために考古学の雑誌にしてもらえないな
いか、という出版社の依頼を國分先生は断腸の思いで断るのである。
雑誌『えとのす』に託した夢を若い人たちに語る中で、國分先生は次のように助言
している。
「小さなセクションに固まらないということが、僕は大切だと思います。」
このたび国立台湾大学図書館と人類学教室の所蔵となった、國分直一先生の全資料
は、今後、國分先生がめざされた「小さなセクションに固まらない」研究や教育のた
めの重要な基礎資料として国際的に活用されるであろう。
國分先生の三つの夢
最晩年の國分先生がいつも言っておられた三つの夢がある。
まず、何としても国立考古学博物館を設けたい。
二つめは、考古学と民族学の手法を統合した、東シナ海を巡る総合的先史学を構築
して世に問いたい。
第三に、考古学や民族学をめざす若い目指す人たちに、夢のある学問の世界の魅力
をいきいきと伝えることができるような本を作りたい。
少年のような情熱で熱く語り続けられた國分先生のお姿がありありと思い起こされ
る。
國分直一先生の人と学問に魅了され続けてきたファンの一人として、先生の夢の半
ばが叶えられることになる、このような立派な本が、国立台湾大学のスタッフのご努
力によって日本語と中国語で同時刊行されることを、心から喜ばしく思っている。
國分直一先生の学問的なコレクションが散逸することのないように先生の没後も書
庫を守ってこられた、ご遺族の伊藤圭一さんと鯉川禎子さんのご努力に感謝するとと
もに、台湾大学との協力の実現に向けてのお力添えを惜しまれなかった金関恕先生(
大阪府立弥生博物館館長)、中生勝美教授(桜美林大学)、台湾大学図書館の陳雪華
館長、山口市までご足労いただいた図書館スタッフの洪淑芬さんと阮紹薇さん、編集
にあたって引用文献の確認作業を手伝ってくれた中島美帆さん(山口県立大学大学院
修了生)、日本語から中国語への翻訳の労をとられた李作亭さんに心から感謝申し上
げるしだいである。
(安渓遊地、山口県立大学国際文化学部教授)