産学公の光と闇)公開授業への辛口の批評と最初から「産学公」を表看板にした大学なら消えたほうがいいという意見 #sangakukou #yamaguchi
2011/07/15
山口県立大学で行われた公開講座を受けられた、本学卒業生の方からの辛口の批評
が届きました。ご本人の許可を得て、ここに掲載いたします。食料自給をめぐる問題
については、他の受講生もおられるところで、講師に意見を述べられ、それなりに紳
士的な姿勢でのやりとりであったとのことです。
重層してそれぞれ独自に機能すべき環境ガバナンスが、相互に連結されてしまうと、
原子力安全委員会の文書も原子力安全・保安院の文書も、相互にすりあわせながら実
際には東京電力が作成するなどという事態にみられるように、破局を防ぐことができ
ません。たとえていえば、同じ高さの同じ場所に13基のディーゼル発電機をおいて、
安心していたら、それが全部共倒れしてしまった、福島第一原発のような人災です。
あるいは、「チッソ運命共同体意識」のもと、相互にもたれあった結果、水俣病の悲
劇が起こったという反省もあります。(安渓遊地、2011「足もとからの解決――失敗
の歴史を環境ガバナンスで読み解く」湯本貴和編『日本列島の3万5000年――第
1巻 環境史とは何か』文一総合出版)を最近書いた私としては、たいへん説得力の
あるご意見と思います。またまた自戒をこめて。
以下メールからの引用です。
「産学公連携の未来」がすでに現実のものとなっています。それが、福島の原発
震災です。
原子力の本質やエネルギーとして導入する際の問題性を研究する「学」の力が貶
められたが故に、取り返しのつかない惨事を招いてしまいました。
中曽根康弘や正力松太郎の思いつきを制御する「学」の独立性がなかったばかり
か、むしろ「産学公」の一体化が悲劇を生んだと思います。
「産学公」が価値あるもののように考える者は「学」に携わる資格が元々備わっ
ていないと私は思っています。
「産」「学」「公」は、各々よって立つ原理が異なります。元来連携してはなら
ないのです。
いつからこんな逸脱が始まったのか、また、このことに何の疑いも抱かなくなっ
たのか、それが問題です。
仮に連携する場合があったとしても、限定された条件の下で限定された案件を扱
うのが鉄則ではありませんか。
国家における三権分立(司法・立法・行政)の理念と同様に臨むべきものではあ
りませんか。
教育・研究・社会貢献が大学の使命というのは理解できますが、「産学公」と同
列に扱うのは論理破綻です。このような発想の基に「山口県立大学山口サテラ
イトカレッジ」があり、「地域環境アドバイザー養成講座」があるのですね。
「産学公連携の未来」は、第二・第三の原発震災です。いえ原発震災でなくと
も、地域震災・地域公害となりかねません。
グローバル経済に覆いつくされた地域経済は抹殺されていいものではありませ
ん。地域社会はグローバル経済とは異なる原理で保たれてきました。金銭を媒
介しない多様な人間関係が育まれ、元々「地産地消」で生活していたのです。
歴史・宗教・文化が環境保全に 寄与したことも挙げられます。
グローバル社会の掟を地域社会に「学習」させるような学問は「文化侵略」なの
です。「文化侵略」と「経済侵略」、つまり近代化・工業社会化により中山間
地で人々が生活を営むことができなくなったことが、環境の破壊につながってい
ることと関係しています。災害の危険性、空気や水の市場化はすでに始まって
います。そのことを認識しているか否かは大きな違いです。
食の欧米化がカロリーベースでの食料自給率40パーセントを招いたことは真実
かもしれませんが、米の自給率ほぼ100パーセントをさえ守っていれば他の
農産物は輸入すればいいというのは暴論ではありませんか。また、優れた農産物
を輸出する業者が増えればいいという問題でもないと思います。産業界の影が
見え隠れしています。食と直結する農業と工業を同列に扱えるのでしょうか。さ
らに、食にアクセスできるヒトとできないヒトの格差は歴然とあります。私た
ちに必要なのは「産学公」の連携ではなく、現代社会と真直ぐに向き合い、
「学」の力で現代社会を耕すことなのです。そのために 大学が教育・研究・社
会貢献してくれるなら、存在価値がある大学と言えるでしょうが、最初から「産学公」
を表看板にした大学なら消えたほうがいいと思います。吸収合併もいい
と思います。一卒業生として、同窓会支部長として断言します。
以上引用終わります。