環境問題)6/3安藤公門さんの幸せのトイレ作りの報告――タイのトイレから見える未来型社会 の資料 #toilet #thai #shiawase #ecology RT @tiniasobu
2011/06/03
2011年6月3日 山口県立大大学院安渓ゼミの卒業生の安藤公門さんを講師にお迎えし
て環境問題の講義が10時20分から F204(新キャンパスつきあたり左側2階)
であります。配布を希望される資料が印刷しきれない量なので、送られてきたものを
ここに貼り付けておきます。はじめの4頁分だけ印刷する予定です。
2011/0
6/03(金)
山口県立大学 地域公開授業 環境問題
幸せのトイレ作りの報告 タイのトイレから見える未来型社会
NPO法人シャンティ山口 理事
(有)あったか村取締役 水環境担当
安藤 公門 (あんどう きみと)
(2010年度 大学院国際文化学研究科修士修了)
今日、報告したいこと。
1,タイ北部農山村で行ったこと、学んだこと
機械を使わない。人力での作業にショックを受け、それを軸に論文にまとめた。
2,糞尿を資源にするシンプルな技術について
肥溜めから畑への循環とガスの燃料としての利用
用語:嫌気性処理と好気性処理
土に戻すことの大切さ
3,下水道と都市のあり方への疑問と未来型社会
東日本大震災と東京電力福島原発事故に立ち向かって
参考
1,山口朝日放送制作『幸せのトイレ』 (2011年4月19日放送)
2,修士論文 「タイ農山村地帯における衛生環境事業の実践から見える未来型社
~糞尿の資源活用と持続可能な社会のために~ 」 目次と第5章の全文
3, 玉置半兵衛:『あんなぁ よおぅききやあ』(京都新聞出版センター,2003)
より引用
4,小出裕章:『隠される原子力核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ』
(創史社,2010)
5,ブログ:村のトイレ屋の便所・糞尿資源考
『あんなぁ よおぅききや』 玉置半兵衛著
京都新聞出版センター 2003年
サブタイトル:京の言の葉 しにせの遺心伝心 1,238円(税別)という本から
の引用です。
====== 参考 p 188~より引用 ===============
う ん こ
あんなぁ よおぅききや。
人間が死んだらお葬式するやろ。きれいに花で飾ってもろて、みんなにお参り
してもろて、かわいそうに言うて泣いてもろて、お寺さんに拝んでもろて、人間
だけが、そんな大そうに葬式してもろてずるいとおもわへんか。動物も植物もみ
んな生き物には命があるのや。人間と同じ尊い命を持っているのや。便所は、人
間が生きるために殺して食べた動物らのお葬式の場所なんや。家のお仏壇をきれ
いにしておくのと同じで、人間が食べた生き物のお葬式の場であり、お墓と思う
て感謝の気持ちで、便所はいつもきれいにしておくもんや。
『便所を見たらそこの家がわかる』といわれるやろ。それは優しい心があると便
所をきちんときれいにする心が自然とでてくるからや。
『人間が万物の霊長』や『人間が動物の中で一番偉い』と言うのやったら、人間
にしかできんことを、他の動物にしてあげてこそ、万物の霊長と言えるのや。わ
かったか。もう今から、うんこが汚いなんて言うたらあかんぇ。明日からうんこ
に手を合わしてあげや。
資料
論文タイトル
タイ農山村地帯における衛生環境事業の実践から見える未来型社会
~糞尿の資源活用と持続可能な社会のために~
執筆者名 国際文化学研究科 修士2年 安藤 公門 (08010101)
担当教員 安渓遊地教授
提出年月日 2011年1月31日
論文の要旨
タイの農山村地帯における最適な便所のシステムは、なにか?私は、水処理の仕事
に従事するものとして、NPO法人シャンティ山口の衛生環境事業に、2002年の現地
調査に参加して以来、携わり、実践し、研究し、学んできた。本論文は、タイで学び
掴んだことがらを整理し対象化して、自分のなかで納得し、さらに他者へ説得できる
論理を獲得したいという動機で書かれた。したがって、本論文の核心点は、タイにお
ける衛生環境事業の実践をまとめた第4章にある。そこで掴んだものは、国際支援の
あり方として、支援は双方向であり互いに学ぶものであること、糞尿は処理対象でな
くて資源として活用するものであること、またモン族の人たちから学んだ持続可能な
循環型社会を構築するために必要な自然と社会の望ましいあり方についてであった。
それは、資源浪費型の下水道をはじめ先進国のライフスタイルへの反省をせまるもの
でもあった。
第1章では、学んだ視点から問題の所在を明らかにした。
第2章では、主として糞尿の資源としての認識、とくに農耕利用の歴史の先行研究
を整理した。自然観と循環の論理を日本の農耕を中心まとめた。安藤昌益の思想との
出会い、環境社会学の視点の応用、ヨーロッパの糞尿利用の研究に触れたことなどが
成果である。
第3章では、支援に関わる問題でNPO法人シャンティ山口の蓄積から学んだ。有
馬実成師の思想と行動を「地球市民論」「ネットワーク構築」「現場と実践を重視す
る」の三つにまとめた。生きた思想として継承したい。
目 次
第1章 研究の領域と課題の設定
第1節 タイに行くまで(TSS汚水処理システムと私)
第2節 対象領域の確定と課題の設定
第3節 本論文の構成
第2章 先行研究で得たもの――すばらしい沃野の広がり
第1節 「糞は資源だ!」の講演から
第2節 安藤昌益の思想から学ぶ
第3節 3類型の整理と比較――生活環境主義に基づいて
第4節 糞尿の農耕活用の歴史――日本の場合
第5節 世界の各地域の糞尿利用
第6節 糞尿に感謝し、手をあわせる
第3章 NPO法人シャンティ山口の理念と活動
第1節 タイ王国の概況
第2節 タイの山岳少数民族
第3節 モン族について
第4節 NPO法人シャンティ山口の17年の歩み
第5節 有馬実成師の思想と行動の残したもの
第4章 タイ北部農山村地帯における衛生環境事業の実践
第1節 想定と結果(本章の要約)
第2節 問題の浮上とトイレプロジェクトの開始
第3節 構想と計画
第4節 トイレ施工の実際
第5節 プロジェクトの特徴――私たちがタイで学んだこと
第5章 討論――下水道の問題点と未来型社会
第1節 タイで掴んだ私たちの原則
第2節 下水道批判の系譜
第3節 袋小路に迷い込んだ下水道の現状
第4節 土壌を基準にした文明への転換
第5節 共に生き、共に学ぶ
終章 残された課題
第1節 この論文の要約
第2節 残された課題
謝辞
引用文献
引用ウェブサイト 資料・図表一覧
第5章 討論――下水道の問題点と未来型社会
この章では、タイでの実践で得た視点から、下水道について考察する。また、下水
道と都市について考え、そのかかえる問題解決のための試論を提起する。
第1節 タイで掴んだ私たちの原則
私たちのつくりあげた便所のシステムは、自然循環式と呼べる「嫌気性発酵による
メタンガスの燃料利用と液肥の利用」である。
タイの北部の農山村(モン族の村や他の山岳少数民族を含めて)とさらに、ラオス、
カンボジアなどの気候、地形等のほぼ同じ条件のところでさらに実績を積みあげたい。
それぞれの現場ごとに多様な資材や工事の方法が編み出されてくるであろうが、第4
章で述べ実践した設計の考えは、不変である。さらにより普遍的な仕様にするために、
その特長をあげておく。
設置場所は、発生源であり、糞尿の運搬距離を事実上ゼロにできる。
嫌気性発酵なので空気を吹き込むなどの曝気のための電力を必要としない。
寄生虫卵と病原菌を死滅させることができるので衛生的に安全である。
資材は、身近なもので可能であり、基本的に自然素材を多用できる。
工事は自分でやるのが基本で維持管理も利用者が自分でできる程度の平易さである。
資源としてガスのかたちで使える。液肥として畑で使える。
合併浄化槽や下水道と比較をしてみると優れた特長が、さらに浮かび上がる。
管路が最短で済む。配管工事やポンプ場・ポンプが不要である。この特徴は、日本の
農業集落排水の配管工事とメンテンナンスを考えればどれほど優れているかがわかる。
都市型下水道もそうだが、メンテンナンスは、管路の更新作業に大半が費やされる。
合併浄化槽と下水道は、基本的に活性汚泥法と呼ばれる方法である。水中に空気(酸
素)を絶えず供給して好気性菌による分解を行う。空気をおくる機械と電力、それに
空気量の調整という専門的な能力が必要である。さらに好気性処理の宿命として、発
生する汚泥の処理が後工程に必ず必要になる。
合併浄化槽や下水道では、自然素材の活用は基本的に無理である。生物処理という処
理法を基本にしているにもかかわらず、資材はほぼ100%石油由来の工業製品である。
設備を使用しなくなった場合、分解しないのでそのまま地中に埋設できない。分解性
のプラスチックの製造も可能であるが、そのために資源とエネルギーを使いコストも
上がることになる。
合併浄化槽の埋設は、専門業者が工事を行う。日本では設備士の資格が必要になる。
集落排水や下水道では大規模であり専門性が高くなるので専門業者が不可欠になる。
分業の恩恵で楽ではあるが、そのぶん、自分の排泄物にたいする愛着も自然とのつな
がりも失うことになる。
自分の糞尿を畑に戻し、メタンガスとして使うことで得られる豊かさ(自然との循環)
が、生活の系外に捨てることで断ち切られてしまう。心情的な意味だけでなく資源の
廃棄と無駄遣いを行うことになる。
いくつかの批判と疑問について
次によく受ける質問や考慮すべきことを検討してみよう。
自分たちで工事をするグループの意欲とまとまりを必要とする。それがない場合、支
援するNGOの負担または工事業者への発注中心になる恐れがある。これをのり越える
には自分たちで成し遂げたいという内発的な動機が解決する。
一度、ノウハウを覚えマスターすれば、費用もかからず、利益を上げる資材もないの
で工事の業者が取り組まないおそれがある。商業ベースに乗らず、そのため普及しな
いかもしれないという「欠点」である。日本の合併浄化槽では、メンテナンス費用と
して消毒薬とシーズと呼ばれる微生物剤を業者の恒常的利益のために確保している。
下水道では、配管工事自体が地方公共団体発注の景気刺激策として、道路工事と並ん
で行われてきた。
大規模では、難しいことについて。規模は、農地還元する用地との関係で決まる。理
論的には、大都市でも可能であるがその場合、発生源に近いところで処理と活用を行
うという大きな特長を失うことになる。「規模が小さい場合にこそ本領を発揮する」
という特長は、単に技術的なことではなくて、実はどのような社会の糞尿を処理・活
用するのか、この糞尿活用システムのためにはどのような思想とそれに基づく社会が
必要なのかということに関わってくる。この問題は、下水道の問題のところで考える
として、規模は小さいほど望ましいことを確認しておきたい。
衛生の問題で寄生虫や病原菌の問題を危惧する人たちがいる。戦後の日本に駐留した
アメリカ軍が、日本の伝統的な肥溜めと畑への循環利用を「衛生的でない」と批判し
て中止させたときの理由であった。これは、嫌気性発酵をきちんと保証する嫌気槽の
容量と発酵の時間を確保すれば問題はない。嫌気性発酵は、大腸菌をはじめ腸内の病
原菌を滅菌する。また、寄生虫卵も死滅する(環境省,2008)(鈴木,1992)。戦後の
混乱期は、農業自体が労力を戦場にとられて十分でなかった上に、施肥のために十分
発酵させるという知恵も失われていた。むしろ、その後の衛生観念の過剰さこそ子ど
もたちに病気への抵抗力を失わせ、ひ弱にしてしまったという反省が指摘されている
(藤田,1994)。
人の糞尿由来の液肥は、過剰なチッソを与えすぎるのではないか、という指摘がある。
これは、施肥する作物や土壌の性格によってかわってくる。堆肥の一部として使うこ
とによっても異なってくる。一般に人糞の有機物としての特徴は、尿が即効性があり、
糞尿は遅効性であるとされている(橋元・松崎,1976)。使い方の工夫は、日本の江
戸時代や古来世界の各地で行われてきた方法を学びながら独自にそれぞれの場で蓄積
する必要がある。
この項の最後にぜひ確認したいことがある。いわゆる先進国からの支援とは、なに
か工業的なものであり、先進国の近代工業化に近づけるために行われる援助だという
誤解があることだ。私たちは、決してそうではないと考える。その地域の方法と資材
とで独自のものをつくりだすべきだ。そうしないと、先進工業国の過剰な消費社会・
浪費社会のなかで作られてきたものを押し付ける援助になってしまう。また、先進国
の過剰な生産力が生み出す余剰分をさばくための商品の販路・市場の拡大の水先案内
人になりかねない。私たちはそうなることを強く警戒した。むしろ、そのおかげです
でに述べた多くのことを学ぶことができた。とくに、都市型下水道への批判の視点を
徹底し確立できたことは、大きな収穫であった。
第2節 下水道批判の系譜
明治維新による日本の近代化によって、一方で太平洋戦争の惨禍と破局で、アジア
の人々に植民地支配の多大な犠牲を押し付け、他方で、日本固有の伝統文化を急速に
崩壊させたという反省が私たちにはある。「開発協力に関わるNGOとして、途上国に
は日本の真似だけはしてほしくない、という気持ちを強く持っています。」と有馬は
語っている(有馬,2003:135)。自然思想と環境論の分野でも「伝統を失った社会の
行方」を憂慮し、その回復を訴える主張は、1974年に出された本が、昨年再版された
ように息長く支持されている(富山,1974)。
そのなかで近代化の証とされてきた下水道を批判し克服を目指す系譜は、以下のよ
うである。
その系譜の第1は、糞尿活用の伝統的な考えを取り戻そうとするものである。宮崎
県綾町の郷田実・元町長らのグループの活動である。「夜逃げの町」と言われた山間
の町を「結の心」を柱に「自治公民館運動」で地域の活性化をすすめ、有機農業の町
として全国ブランドにし、生ごみ・屎尿の農地還元を推進した(郷田,2005)。それ
は、福岡県久山町、築上町(旧・椎田町)などに波及し継承されて、最近、大木町で
は「道の駅」に併設された循環型施設でメタンガスによる発電と液肥利用が始められ
ている(おおき循環センター,2007)。農業集落排水事業への実質的な批判でもある。
第2の系譜は、すでに述べた1970年代の石油ショックを受けたなかで嫌気性処理と
土壌浄化法の研究を進めた新見、佐藤らである。私は、ここからスタートした。(第
1章)
第3の系譜は、日本トイレ協会の「山のトイレ研究会」を中心に、自然公園内の地
域や施設でそれぞれの条件に対応しながら技術研究をすすめてきた流れである。オガ
クズを生かしたバイオトイレ、糞尿を燃焼させるものなど発生源で処理することに大
きな特徴がある。(上,2004)(船水,2002)。TSS汚水処理システムもここに重なる。
第4は、中西準子に先導される形ではじまった流域下水道への批判と合併浄化槽の
普及運動である(中西,1979,1983)。流域下水道とは、河川の横に下水道管路を埋
設し、複数の町村をまたいだ流域をひとつの利用圏にして、河口部に処理場を作る巨
大プロジェクトである。中西らは、この計画の効率面の無駄を指摘して批判した。大
規模土木工事としての下水道計画が、巨額の公共投資をもたらし地域経済のカンフル
剤として行われていること、それと別の設計と対案をもって批判を行い、さらに下水
道にかわる合併浄化槽(「個人下水道」と呼んだ)の改良と普及活動をもって対置し
た。この作業は、下水道と合併浄化槽の経済効率に注目した「損益分岐点の算出」と
しても行われた(加藤,2004)。中西の批判は、下水道そのものを存在から根本的に
否定するものではないが、下水道技術者と関係者が都市計画のなかで主体的役割を果
たさず、むしろ計画全体に従属させられていることを鋭く批判している点で下水道技
術者のあり方に一石を投じた。
第5の系譜は、前述の富山をはじめとする著述家のグループである。「どうして土
に還元しないのか」「資源として活用しないのか」という意見は、直接の専門家でな
いところから間欠的にあげられている(富山,1974)(岡,1985)。エントロピーの論
点からの批判もある(槌田,1982)また、糞尿と便所の研究を行ってきた著述家も、
資源としての糞尿に触れ、折にふれて下水道の問題を指摘している(李家,1987)(
中村,1983)。廃棄物の行方を探り、下水汚泥が燃やされて煙になることを追った優
れたルポルタージュに平田(2004)がある。
「水処理の適材適所」論を越えて
以上みてきたように下水道への疑問と批判は、宮崎県綾町と大木町を除いて、資源
としての糞尿活用という視点は弱く、処理のあり方だけを問うものである。そのよう
な意味で日本の歴史のなかに厳然としてある糞尿の耕地での活用という伝統は、細く
部分的なものに留まっていた。なぜそうなのか。多くの問題を指摘されながら、下水
道の根本的な問題を多くの関係者が放置してきたのか。明治以降の西欧からの下水道
導入の時期、大正から戦前戦後の糞尿が有価物から汲取費用を払うものへのはっきり
とした移行した時代、さらに肥料会社の台頭、化学肥料の農業への普及、農村からの
肥溜めの追放と消滅、それらへの行政の対応などの過程への実証的な研究が必要だと
思われる。そのなかで、下水道に批判的な立場の人の側の問題をひとつあげれば、「
水処理の適材適所論」なるものがある。
水処理では、都市型大型下水道、中規模の農村(漁村)集落排水事業、住宅団地な
どのコミュニティプラント、それに合併浄化などの領域があり、さらに小規模で発生
源で処理する方法などがある。行政所管も異なる。そこで、それぞれの長所短所を比
較して、領域を設定する。その場合、下水道への根本的で原理的な批判に向かわず、
あたかも下水道だけは永久に続いていいものであるかのように批判が放置される。「
大都市部での方式は、下水道」という聖域がつくられ、それ以上には踏み込まないで
終わるのである。
第3節 袋小路に迷い込んだ下水道の現状
下水道の最大の問題点は、第1に資源をエネルギーを使って廃棄していることであ
る。
とくに、チッソとリンは、回収策の研究が行われているにもかかわらず、廃棄され
て公共水域(海、河川)へ放流されている。食料自給率が40%とされる日本で、海外
から輸入した食料資源の栄養分を惜しげもなく周辺海域に放流・撒布しているのであ
る。(図-9,図-10)
このチッソとリンは、活性汚泥法では、通常の運転では分解・回収できない。従来
から湖沼・閉鎖性海域への放流で富栄養化の原因として指摘されていたものである。
とくに、琵琶湖では下水道と合併浄化槽が整備されて水質の改善が期待されたものの
「見た目のきれいさ」とはうらはらにチッソ、リンの濃度があがり、高度処理を絶え
ずもとめられつづけてきた。これは、汲取り屎尿として農地に還元されていたときに
は、琵琶湖への流入がなかったものが整備され処理され放流されたために起こった現
象である(読売新聞,2001)。 リンは、100%海外からの輸入に依存している。中国
が、レアアースともに輸出制限を行って、一挙に高騰した(朝日新聞,2010)。農林
水産省では、早くからリン回収と肥料化を検討しているが、(農林水産省,2008)実
際の計画が現場で構想されたのは、2010年になって岐阜県と東京都水道局とにおいて
であった(東京新聞,2011)。
資源の廃棄
図- 9 日本の食料に関する窒素収支と下水道(2002年度)
(佐藤・申 ,2010)による。
図- 10 日本の食料に関するリン収支と下水道(2002年度)
(佐藤・申 ,2010)による
上の図から下水処理場へ入って放流先へ出る数字を取り出してみて表にした。(表
-5)
チッソ、リンは、それぞれ46%、29%が海に放流されている。さらに下水道で派生
する汚泥のなかのチッソ、リンは焼却と埋設される。
表-5 チッソ、リンの海への下水処理場からの廃棄率
下水処理場への流入量 海への放流量 廃棄率
チッソ 41万9000 19万2000 46 %
リン 5万2200 1万5100 29%
下水汚泥
ここで、2番目の根本的な問題があらわれる。汚泥の発生という問題である。処理
残渣と微生物の死骸の蓄積が汚泥である。分解のしづらい物質の塊である。好気性処
理方式の避けて通れない派生物である。リンの回収は、処理工程では最後になる汚泥
から行われる。汚泥は、水分を取り出すために電力(熱と圧縮)を必要とする。さま
ざまな化学物質を使う。その使った化学物質の安全レベルまでの安定化のためにまた
別途の処理工程が必要になる。汚泥の圧縮削減と再利用、リンやその他の有用物質の
回収は多くの研究者が「都市鉱山」(日経新聞,2010)から資源を取り出そうと「ノー
ベル賞をかけて」取り組んでいると言われるほどだが、そこで払われる努力は、はた
して本当に必要なものなのか。
図-11は、下水道の普及率と汚泥発生量を示したものである。正比例していることが
わかる。
図- 11 下水道普及率と発生汚泥量 (社)下水道協会,2006年
図-12は、全産業廃棄物の中に占めている下水道汚泥の割合をしめしたものである。
図- 12 産業廃棄物の中の汚泥 (社)下水道協会,2006年
そもそも下水道で集積しなければ、すなわち糞尿の発生源で肥溜めという嫌気性処
理と堆肥に一部混ぜて使うだけで農耕には十分有効である。長大な管路と巨大な下水
処理場は、すべて不要になるのである。あえて下水道からの肥料としての回収を望む
なら下水道に関わる設備は可能なかぎり規模を小さくし、曝気も軽度のものにとどめ、
何よりも薬品・化学物質の投入はやめるべきであろう。重金属の肥料基準の項目は、
規模が小さいほど集積が少ないから達成できるのである。だがそこまで考えるなら、
最初からタイで今私たちが行おうとしているように、多くても10戸~20戸で分節化し
てつくることがもっとも賢明な方法になる。
長大な配管と更新
下水道の問題点のその3は、長大な配管とそのための工事である。大型掘削機・エ
ネルギー使用・危険な労働で地下を掘り返さない都市があるだろうか。ビクトル・ユ
ゴーが「巨獣のはらわた」と呼んだ下水道網は、農村からの多くの出稼ぎ労働者の事
故死や負傷の犠牲で作られ、できた当時は「文明の証」として、どの都市でも自慢さ
れた。日本の1960年代の高度成長の花形であった。
だが、40~50年たった今は、どうか。どの自治体もポンプとポンプ場、管路の劣化
に悩んでいる。なんといってもコンクリート施設が硫化水素などのため通常のコンク
リートより寿命が短い。管はメンテナンスを怠ると油脂の塊で管の幅が狭まる。絶え
ず高価な機器を使って高圧洗浄をかける必要がある。50~60年で設計上は更新するこ
とになっているが、どの自治体も財政難でそんなに費用をかけられない。だが、地下
にあって見えないからと言って放置しておけば、生の下水があふれだす。道路の陥没
とそれによる交通事故がおこっている。このように市民生活にすぐに結果がでる。
今、都市の下水道の最大の関心事は、管路の長寿命化・延命化である。そのための
講習会が開かれている。根本的なやりかえ(更新)でなくて、金額が少なくてすむ部
分的な手入れによって先延ばしを図ろうというものである。農業集落排水の場合は、
過疎化の進行で部分手入れさえ難しく、事業の工事にまだ着工していないところでは
計画の見直しが急ピッチで行われている。今後、この問題はさらに顕在化してくると
予測される。
水洗トイレの普及と水資源の大量消費
下水道の問題点の4点目は、水洗トイレをあまねく普及させたことである。現在の
節水型は、一番少ない量で6リットルを一回のフラッシュで流すとされる。通常は、8
~10リットルだろう。人の1日の排泄量は、糞で平均100グラム、尿で平均1.1リット
ルと言われる(橋元・松崎,1976 )。それを運搬するために1日に水洗トイレで50リッ
トルを一人が使うとされる(日本建築センター,1996)。
タイでは、まだ従来からの左手で尻を洗う方式が健在だ。尻のための健康によいし、
慣れれば快適だ。気になれば手の消毒をすればすむ。トイレシステムをつくる基礎資
料として、使用する水を計測したが、タイ式では1日に6リットルを要しない。水資源
にとってどれだけ日本の水洗トイレが水を過剰に使っているかがわかる。しかも、い
つのまにか「清潔さと快適さを好む国民性」というものまで作為され、衛生陶器、ト
イレットペーパー、水栓金具などの一大産業をつくってしまった。前田はその研究を
「20世紀日本の見えざるイノベーション」として、水洗トイレの産業史を戦前の森村
組から今日のTOTO、INAXに分かれる発展史を追って300ページを越す労作にまとめあ
げているが、「環境に与える影響については、検討の対象外」として暗に影響の大き
さを示唆している(前田,2008)。「水洗トイレはきれいけどいっぱい資源をムダ使
い」(浮田,2010)は、真実をついているのである。処理水を2次利用として公園の花
壇の散水に散水車を使って行ったり、オーストラリアを往復する鉄鉱石運搬船のバラ
ストに使って砂漠灌漑に役立てると言っているが、エネルギー収支を無視した「環境
パフォーマンス」である。最初から大量の水を使わなければよいのである。
循環の切断
下水道の問題点の5点目は、人間を糞尿から遠ざけ、人間と自然の循環の関係を切
断してしまったことである。その結果、人は自分の排泄した糞尿の行方を考えなくなっ
た。農耕に使うどころではない。さらに進んで、人間自身の変質をもたらしはじめた。
人間はまずは自然の一部である。そして他の動物や植物と並ぶ生物である。「食うて
産んで死ぬ」(丘,1981)と生物学者によって端的に規定される存在である。排泄行
為は他の生物と変わらぬ根幹的な行為であり、それ無くして生きてはいけない。そし
て、人の排泄物は、大地に還元されることで他の動植物の栄養となって循環のコース
に乗る。ところが下水道の発展で糞尿を畑に返すことをやめた。さらに、糞尿を分業
のなかにおくことで自分には目に見えない処理工程に運び、身体的な直接性を間接的
なものへと変容させた。さらに進んで排泄行為と糞尿に「負性としての身体」」をみ
て、排泄も人工の身体に委ねる思考までも生み出していく(金塚,1986)。科学や工
業技術に身を任せた人間の脆弱化としてみておきたい。
第4節 土壌を基準にした文明への転換
生活環境主義について第2章でふれた。環境にかかわる諸問題を解決するにあたっ
て三つのアプローチがあるとするものであった。自然環境主義と近代科学技術万能主
義のいずれも否定して生活に根ざした生活環境主義を方法の基準にすえるものであっ
た。今一度、この方法自体を検討してみたい。下水道を検討するとき、近代都市文明
に浸かり、下水道を生活の前提としている人たちの日常の生活感覚からは、それだけ
では下水道を批判できないばかりか現状肯定で終わってしまうであろう。生活環境主
義の方法のなかには、生活感覚の判断そのものが幅が広く、恣意的な基準に陥る恐れ
がある。
それを防ぐために、私は以下のように富山和子のいう「土の基準」を導入したい。
大きな意味では、「文明とは土壌の生産力」であり、人類の生存は、土壌の力に条
件づけられ、地球に生きる人間は、他の動植物と同じように土を作ることが必須の義
務であるとする理論である(富山,1974,2010)。
文明と暮らしのなかに次のような富山和子のいう基準をたてる。文明と暮らしを同
一に論じるのは論理の次元を無視した暴論との誹りを受けかねないが敢えてそうした
い。
1,土に戻せるかどうか、次の循環に渡して土壌が豊かになるかどうかを考える。
2,土に戻せないものは、作らない。
土に戻せるものを作ることが人の働きであり、安藤昌益のいう「直耕」である。
3,土から離れた暮らしや文明は、改めるようにする。
この観点から、下水道を考えてみたい。そうすると資源として無駄にしているとい
うことが、浮かび上がるばかりでなく、土壌を無視して滅びた過去の文明と同じ都市
高文明と同じ姿が見えてくる。下水道という資源浪費だけでなく、食においても日本
は、第3世界から金にあかせて取り寄せ、吸い寄せ、自国の農的な基盤を空洞化させ
ている。直耕する人は、社会の片隅に追いやられ、その農業自体が工業や商業の論理
と方法で牛耳られている。農村では工業製肥料や土壌改良材の衣をまとった工業廃棄
物が土地を劣化させ、糞尿は下水道と同じ工業手法で廃棄されている。土に戻す、畑
にを糞尿で豊かにするという思考は古いものとして追放されている。人が人として自
然のなかで生きているもっとも明らかな証である農耕労働が「金にならない」という
経済の論理で意義の低いものに貶められている。
都市は本当に必要なのか
「都市は、食料を生産しないのにもかかわらず飢餓に陥らず、飢餓は食糧を生産す
る農村で起こる。それはなぜか?」と疑問をもち都市のあり方を考察した社会学者が
いる(藤田,1991)。ガンディーは「都市は、農村の血を吸う悪である」と言った。
バンコクとタイ北部の農山村の関係を彷彿させる。「都市は滅びるであろう、さもな
くば人類が滅びる」という主張もある(中島,1992)。
下水道は、その利便性とは裏腹に社会の持続的発展にとって多くの問題を抱えてい
ることをあきらかにした。下水道に貫かれている思想は、自然との共生ではなくて、
糞尿を廃棄物として生活の系外に追放する思想と技術である。それは都市の文明のあ
り方の反映であり、都市自体に問題があるのではないか。敢えて言えば、都市が都市
であるかぎり解決することは不可能なのではないかと考える。都市自体を無くしてし
まわねばならないのではないか。そんな風にも論理は進む。これは、糞尿を社会がど
う取り扱うか、という点だけに絞った論理の展開である。だが、排泄という人間の根
幹に問題を据えているという点では、論理に飛躍はない。むしろ反対に、このような
基礎的な問題をないがしろにして、大量生産・大量消費・大量廃棄に走る都市型文明
の、地に足のつかないあり方こそ批判的にとらえ返す必要がある。
下水道にも流す元になる上水用の水道、生命を日々養う食糧の供給、熱源・動力源
としての電力について、都市の存立を根幹で支えているものを検討しても、同じよう
な結論が得られよう。自然に破滅的に振る舞いながら、自然条件の少しのゆらぎに一
喜一憂せざるを得ないのが都市の実態である。
高次な社会のために
逆に、土に糞尿を返すことを大切にする文明とはどんな文明か。商業や工業に重き
をおかず、あくまでも農を中心に社会を維持し、回転させ、循環させる社会であろう。
人々がある規模以上に集中しないように(糞尿を土壌に戻せなくなるから)地域は分
散している。工業は最小限で商業的な営みも抑える。他の暮らしの要素・衣食住は、
土に戻せる自然素材に限定する。そこでは、資源は、再生可能な自然素材を中心とし
たものとなり、石油や石炭などの有限な地下資源への依存から離脱が可能なあいだに
新しいあり方をつくりだして、軟着陸する。これまでの人類の培ってきた科学や技術
の蓄積は、そのための叡智として活用する。また、人が人の犠牲のうえに成り立つ社
会の仕組みも改めなければならない。安藤昌益のいう直耕が中心になる社会は、単純
素朴な仕組みであろう。
土に戻せないものの一番の負の遺産は、原子力発電所と核の利用による放射性廃棄
物である。原子力発電所は、映画『東京原発』(2004)が鋭く描いたように、都会に
つくると危険であるが、都市では電力が必要なので財政難にあえぐ過疎の農村にさま
ざまな交付金の名目で札束攻勢をかけて、自然破壊と危険を押し付けてきたものであ
る。都市―農村関係の極限的な姿を示している。これによって滅びるのは、都市であ
る。放射性廃棄物は土に戻せない、だからこれ以上原子力発電所はつくるべきではな
い。土に戻せるかどうかの基準の正しさ、有効性を示しているともいえる。
原子力の専門家としてその危険性を訴えている小出は、「少欲知足」という見出し
の文章で、次のように書いている。
種としての人類が生き延びることに価値があるのかどうか、私にはわかりません。
しかし、もし地球の生命環境を私たちの子どもや孫たちに引き渡したいのであれば、
その道はただ一つ「知足」しかありません。
日本を含め「先進国」と自称している国々に求められていることは、何よりもエネ
ルギー浪費社会を改めることです。あらゆる意味で原子力は最悪の選択ですし、代替
エネルギーを探すなどと言う生ぬるいことを考える前に、まずはエネルギー消費の抑
制こそに目を向けなければいけません(小出,2010)。
欲望を抑え、足るを知る生活では、価値観が旧来と入れ替わる。今まではより進ん
だものとされていたことが、遅れたものとなり、遅れて「未開発」「低開発」とされ
てきたものが、人類の先端をきることになる。いやそもそも、時間とともに進歩する
という直線的な思考にかわって、循環的で螺旋的な思考が求められるに違いない。過
去のなかにすばらしい未来が存在する。私たちは、これからさき、どんな社会をつく
ることができるだろうか。その全面的なプログラムを、私は、今すぐには提示できな
いが、「懐かしい未来」(ホッジ,2003)という高次な社会をつくることは、可能で
ある。なぜなら、山岳少数民族モンの人たちとの、素朴な便所をつくるという共同の
作業によって、下水道にかわる仕組みをつくることが可能なことを知ったからであり、
人の糞尿を社会はどのように扱うべきかを知ったからである。またそのような社会の
仕組みはどうあるべきを学び始めたからである。
自然そのままな太古の生活に復古するわけでも、いたずらに高度な人間の手に負え
ない科学技術に依拠して自然と社会の持続性を破壊するのでもない、土を基準にした
生活環境主義のあり方をさらに追求して行きたい。
ここから導かれる私自身の実践的な方向は、次の三つである。
1,今進めているタイにおける農業と結びついた衛生環境事業をすすめる。タイやラ
オスのモン族、また山岳諸民族から学ぶことはまだまだ多い。
2,ひるがえって、日本で自らの農的な暮らしを糞尿資源化の実践としてつくり、進
めてゆくことである。この面では、2003年以来、山口県阿武町福賀で仲間と進めてい
る、あったか村の村作りが大きな役割をはたす。
3,それらを足場に、下水道に依拠しないで、糞尿を土に戻す社会をつくること、土
を大切にする文明のために思想理論の整備をふくめ諸活動を行うことである。
第5節 共に生き、共に学ぶ
NPO法人シャンティ山口は、2010年度の取り組みとして、モン族の住むホイプム
村での事業に取り組んでいる。それは、ふたつの構成である。
ひとつは、荒廃した山地を回復させ村が自立できる複合農業のための研究と調査で
ある。ここ数年、タイの農山村はバイオ燃料の普及の名のもとに、遺伝子組み換えの
トウモロコシ栽培に席巻された。植生の回復を待たない焼畑による山地の荒廃が生ま
れた。危機感をもったホイプム村では、村人が協議して、土地の回復と自立可能な農
業のための共同研究をシャンティ山口と行うことになった。作業小屋と実験農場を確
保して着手した。
もうひとつは、農地の回復と連動させて村全体の各戸の便所の整備とシステムつく
りである。ホイプム村は、モン族の山岳居住の典型である。山の谷の傾斜地に中央の
道路を挟んで家が立っている。48戸のうちトイレのない家が15戸ある。相談と希望に
よって、まずはその15戸からとりかかることにして工事にかかった。条件によっては、
ガスを取り出せない家もあるが、衛生的な環境整備と液肥の畑での利用は可能である。
工事は、現地のスタッフの指導で家々の自家労力と近所と親戚の手伝いで行った。日
本でいう「手間替え」で相互に労力を出し合う。
今後、地形と家々の組み合わせによって、順次進めて行く計画である。
技術的には、液肥の利用を荒廃した山地の回復のためにどのように活かすかを工夫
する研究をすすめ、運搬の問題、液肥を施す果樹などの種類や時期などの工夫を行う
必要がある。
すでに述べたが、タイの農山村地帯と山岳少数民族モン族の村は、たとえ「未開発」
「低開発」と烙印をおされようと、本来あるべき人と糞尿の関係、循環型システムに
とってもっとも条件のよいところである。過剰なまでの人間が生活しているために日々
の生活排水と糞尿の処理に追われ、すでに存在している設備を前提に技術的な小手先
の対応しかできない都市と異なって、持続可能なシステムを創り上げることが可能だ
からである。
タイ北部もまた都市化とグローバリズムの波が押し寄せてきているという意味では、
時間は残されていないのかもしれない。遺伝子組み換えのトウモロコシの農業の採用
によって、モンサント社の赤い看板が畑に立てられている。幸い、村の人たちが協議
して、今までのシャンティ山口の実績に対する信頼があり、加えてトイレで作られた
縁がある。これを大切にしてホイプム村の事業を村落規模のモデルとして実現したい。
この中から、まずは現地に最も適正なものをつくりだし、東南アジアの村々のシステ
ムの基本になるものとしてつくりたい。この共同の事業から共に生き、共に学びなが
ら未来型の社会をつくっていきたい。
