知識人の責任)原発を「許容していた」私――東京大教授・加藤陽子(歴史学)のエッセー #mindcontrol #sekinin #gakusha #genpatsu
2011/03/27
マインドコントロールされていたことに気付いた、ある知識人の告白。
毎日新聞「時代の風」から
http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/
◇原発を「許容していた」私--東京大教授・加藤陽子
3月11日午後2時46分。日本人あるいは日本に住む人々にとって、この時刻に
何をしていたかについては、これから何度も問い返され、何度も記憶に再生されるこ
ととなろう。
東京都文京区に住まいのある私は、その時、マンション中庭の草花に水をやってい
た。しおれ気味の花々に、数日間水やりを怠ったことをわびつつ水をやっていると、
自分の視界が、突然、横に引っ張られる感じがした。これから会議が一つあるのに目
まいとは困ったことだと思った数秒後、地震だと気づいた。水道栓を閉め、ころがる
ように部屋に戻るまで、この間5分。
それ以来、何をしていれば心が休まるかといえば、中庭で水をやることなのだ。あ
の時、水やりをしていた自分。依然として生きている自分。その単純な関連を、身体
が勝手に何度も確認したがっていたようだ。震度5強とはいえ、ほぼ被害のなかった
地域において、こうだ。被災された人々の心と身体を思えば暗たんたる気持ちになる。
地震と津波の直後には、東京電力福島第1原発の複数の炉が制御不能となった。テ
レビは、首相官邸、原子力安全・保安院、東電等による記者会見の模様や現場の状況
を臨戦態勢で報じていた。映像を見ながら私の頭に浮かんだのは、奇妙にも次に引く
大岡昇平の言葉だった。
「(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめ
させることにそれをかけられなかったかという反省が頭をかすめた、(中略)この軍
隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない」
「俘虜記」「レイテ戦記」あるいは「花影」で知られた大岡が、自らの戦争体験を
語った「戦争」(岩波現代文庫)の一節である。1944年7月、大岡は第14軍の
補充要員(暗号手)として門司港からフィリピンへ向けて出発する。
輸送船に乗せられた時、自分は死ぬという明白な自覚が大岡を貫いた。これまで自
分は、軍部のやり方を冷眼視しつつ、戦争に関する知識を蓄積することで自ら慰めて
きたが、それらは、死を前にした時、何の役にもたたないとわかった。自ら戦争を防
ぐという行動に出なければならなかったのにもかかわらず、自分はそれをしなかった、
こう大岡は静かに考える。
よって、戦争や軍隊について自分が書く時には、自分がそれらを「許容してい」た
という、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡は理解する。その成果が
「レイテ戦記」にほかならない。この大岡の自戒は、同時代の歴史を「引き受ける」
感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察だろう。
以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていた
だければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。
原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得的に響いた。また、鉄道等と共
に原発は、パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策定にかかる新
成長戦略の一環でもあった。生活面でも「オール電化」は、火事とは無縁の安全なも
のとして語られていた。これらの事実を忘れてはならない。私は「許容していた」。
以上、引用終わり。(あとは、この記録の文書の保存を訴える内容ですが割愛します)
くわしくは毎日新聞をごらんください。
これを教えてくれた、天木直人さんのメルマガ(月500円払っています)に感謝。
ほぼ同様の内容は、反骨の外交官「天木直人のブログ」も、載っています。
http://www.amakiblog.com/archives/2011/03/27/#001868
以上 引用者 安渓遊地