わが師)高岡バイオリンクラスの屋敷文夫先生をしのぶ
2005/05/28
私は、5歳の時に屋敷先生が指導される高岡バイオリン・クラスに入れていただきました。もう40年も昔のことですが、それから10年にわたって先生からいただいたものは、私にとってはかり知れない財産になっています。
レッスンの場として借りていた専福寺は、小さな私にとって世界に開かれた窓のひとつでした。そして、最大の楽しみは、レッスンのあと「丸見屋」でうどんか、時にはふんぱつして玉子丼を食べることでした。屋敷先生は、音楽家をめざしていた6つ上の兄には楽譜を叩いて弓を何本も折るほど厳しく指導されていましたが、私にはやさしくて、先生をこわいと思ったことはありませんでした。
現在、私は沖縄やアフリカの人々のあいだで暮らした経験を中心にした文化人類学を大学で教えています。その日常の中で、学校で学んだことはあまり役立っていませんが、屋敷先生のバイオリン・クラスにいたおかげだと思うことがたくさんあります。それを挙げてみましょう。
人の話を聞く。外国語で話す。
楽譜が読めなかった私のために、母は新しい曲を何度か弾いて聞かせてくれました。30分ほどの曲を弾きこなすまでになった私が、実は楽譜をまったく読めないという事実に母や屋敷先生が気付いたのは、何年もたってからのことでした。おかげで、耳から手へ、耳から口へという神経の回路がしっかりできていて、聞いた音を正確にオウム返しに繰り返すという力がつきました。言葉の違う人々の間ですごす時にどれだけその力が役立ったか、はかり知れないものがあります。
たくさんの人の前で話す。
他所ゆきの服を着て、ライトを浴びてみんなの前に立つ年に一度の発表会。ドキドキはするけれど、あの浮き立つような独特の感じが好きでした。どんなにたくさんの人を前にしても、たとえあがってもいいんだと思える度胸は、確かに発表会で鍛えられたものです。
寝た子を起こす。
大学教員とは「寝ている人に平気で話ができる人」を指すそうですが、私はオカリナをいつも持っていて、時々いきなり吹きます。するとたいていの学生が起きてきます。これは音楽のもつ偉大な力のひとつでしょう。
ワープロを打つ。
左手を主に使うバイオリンの訓練のおかげで、10本の指で文章を書くのが苦にな
りません。仕事がら、本当に助かっています。
危機管理の能力。
これは、たとえ失敗してもパニックに陥らないように、あらかじめ考えておく習慣によって培われます。よく似たフレーズの繰り返しから抜け出せなくなる「循環バス」症侯群に陥りがちだった私に、屋敷先生は、発表会の本番でそうなった時は、ここでバスから降りて、こう終わろうといつも考えてくださいました。
料理を作る。
母が屋敷先生のお手伝いをするようになって、よく家をあけたため、私は10歳から自分で料理をするようになりました。料理(と後片付け)こそは男の自立の基本であり、女と男の共同参画社会をつくる基礎であります。
平和を求める。
レッスンの合間に屋敷先生に聞いた、一兵卒として中国大陸で経験した戦争の苦しかった話が、今も耳に残っています。両腕を撃ち抜かれて、もうバイオリンは弾けないといわれた先生が、死んでもいいから、もう一度弾けるようにしてくれと頼んだという壮絶な話は、自然に「すべての武器を楽器にかえよう」という、沖縄のミュージシャン・喜名昌吉さんのメッセージにつながって感じられます。
今では、めったにバイオリンに触れることはありませんが、屋敷文夫先生の教えてくださったさまざまなことは、今も私の中に生き続けています。先生、ありがとうございます。
(1997年2月4日記)
屋敷先生の追悼文集に投稿したものです。