対談)伊谷純一郎先生の教育7・未来へ
2005/05/24
貴子 伊谷純一郎先生は、アフリカ調査隊を率いて、いつも肩で風を切って先頭を
歩きながら、サファリ(旅)にサファリをつづけ、研究拠点の建設に建設を続けてこ
られた。
遊地 彼は、サファリの途中で坂道を上がる時に煙草をどんどんふかすので、アフ
リカの人たちがガリラモシ(蒸気機関車)とあだ名したというけれど、その馬力はた
いしたものだった。
貴子 伊谷先生のアフリカの旅の記録としては最初期の本『ゴリラとピグミーの森』
(伊谷、一九六一)は、ずいぶん長く読み継がれてきた。
遊地 あれは僕の母の愛読書で、我が家では僕が小学生のころから、ドゥドゥオビ
ヨオビヨ(害虫、スワヒリ語)なんて言葉が飛び交っていた。生活は貧しくても、夢
がいっぱいあった時代。将来、僕がその言葉を話したり、教えたりするようになると
は母も思ってもみなかったらしいけれど。
貴子 その後に続く私たちの時代になると、現代科学文明の後始末を雑巾(!)を
もって走り回らなくちゃいけないというめぐりあわせ。それでも、あきらめずに研究
を続けてきたことによって、例えば環境アセスメント委員として社会に向かって働き
かけ、耳を傾けてもらえる声を発信できるというのは、これはひとつの幸せだと強く
思う。ことに、地道に研究を続けてきた友たちの、それぞれの地からのそれぞれの分
野からの発信と交流に支えられていると感じている今。
遊地 研究やフィールドワークという営みも、社会の動きと無関係ではありえない
し、たとえ無関係なふりをしようとしても、それは通らないんだ、ということは誰し
も感じているはずだ。そして、それを実際の論文や研究発表に結び付けていく勇気の
ある学者があちこちに生まれてきていることはうれしいことだ。なかなか道は遠いと
感じることも多いけれど。
◎越境する
貴子 今、アフリカ研究でも熱帯研究でも、実際に現地で直面している大きな問題
にどんどん挑戦して、その成果を発信することによって、あらたな学問の地平を拓こ
うとする研究者が出てきている。
遊地 この本に紹介しているような僕らの聞き書きの試みに対して「あれで学問な
のか」という声も聞いたことがある。しかし、僕らは、フィールドワークに行って、
人の話を聞いてそれを題材に論文を書くというこれまでの自分たちの学問の営みの根
本を反省してみよう、という意図で始めた。
貴子 人に話を聞いて作ってきたこれまでの野外科学が、本当に再現性があるもの
なのだろうか、という問いに対して、私たちは二通りのとりくみをしてきた。ひとつ
は人の話に対応する自然科学的な世界をきちんとつかみたいという志向。もうひとつ
は、しばらくして気づいたことだけれども、一人の人の中にぎっしりつまっている人
生の中のほんの一部を、私たちは自分の研究の都合で適当にちょんぎって、つまみ食
いしているだけではないのか、という自省にたつ研究。
遊地 一番目について補足しておくと、例えば植物の名前を方言で聞いたら、なる
べく実物を探して、それを前にしてうかがい、さらに標本を作って学名を調べ、いつ
でも科学的な位置付けや分析ができる所に自分を置いておく、という文化系と理科系
の両方のアプローチをきちんと踏まえた研究。
貴子 伊谷先生は、僕らは理学部だけれど、研究の必要にせまられて教えを乞いに
行くのは、農学部だったり、薬学部だったり、医学部や文学部だったり、理学部以外
の研究者に習うことがきわめて多い、といつもおっしゃっていたし、私たちをそうい
う研究者に結びつけて下さった。
遊地 僕も、動物学教室に所属しながら、西表島の廃村研究の時には、文学部の考
古学教室で実測の方法を習ったし、稲作の研究の時には、農学部にいって渡部忠世先
生にあれこれ教わったもの。学部間の敷居が低くて、どこに越境していっても一応ウェ
ルカム、というあの雰囲気こそが、京都大学が伝えてきた力の根源だった。
貴子 だから、今でも「御専門はなんですか?」と聞かれると、ひとことでは答え
にくくて困ることが多い。
遊地 あなたも、微生物学、植物生態学、人間の暮らしと自然という三足のわらじ
を中心に、里芋の来た道だの、それまでの専門のすべてを総合して、アフリカでカビ
でつくる酒を見つけたりと雑学専門だもの。
貴子 それもいうなら、境界領域とか、越境学とか。
遊地 僕は、雑学という方がワイルドな感じがあって好き。伊谷先生は、それまで
の研究者が気づいていなかった大きな隙間に気づいて、そこに橋をかけるのにたけて
おられる。例えば、僕が西表島の文献目録を作った時、千を越える文献があることが
わかった(安渓遊地、一九八六c、一九八七b)。そして、みんながオリンピックみ
たいに競争で研究しようとしている課題もあるけれど、行間を読めば、あんなことも
されていない、こんなことも手着かずだ、という捉え方も可能だと気づいた。それは、
伊谷先生に教えられたものの見方そのものではなかったかと思う。
貴子 こんなものが研究の題材になるのか、というものをちゃんとした研究に仕上
げていくためには、一見素朴な最初の発想が大事ということを教わった。
遊地 自然人類学研究室のゼミでは、伊谷先生がときおり実に素人っぽい質問をさ
れて、僕等もそれが恥ずかしいことでなく、大事なことなんだということを身につけ
た。
貴子 ほんとうに素朴な質問を天真爛漫に出せるような雰囲気をいかにつくるかと
いうのは、どんな集まりをもっても、それが創造的なものになるために大切なことだ
と思う。
遊地 そういう雰囲気からこそ、肩に力が入りすぎて忘れていたようなものの見方、
考え方が生まれてくる。
◎私たちの忘れ物
貴子 研究の話を少し離れるけれど、私たちは、戦後に生まれて高度経済成長を経
て、バブル経済が崩壊した今、何かとっても大事なことを忘れていたんじゃないかな、
という反省がある(例えば、宇根、一九九六)。
遊地 忘れていたこと。例えば質の問題。質が違うと置き換えや交換は本来できな
い。それを交換可能であるという幻想を共有することでわれわれの貨幣経済は成り立っ
ている。アフリカの村で、何かを欲しくても、お金ではほとんど何も手に入らなかっ
たという体験は、頭をなぐられたような衝撃だった。
貴子 みかんとりんごは違うものなのに、みかん三つとりんご二つが足せて、答え
が五つになるって、考えてみたら不思議。
遊地 小学校で習った鶴亀算なんかその典型だ。頭を数えた時に、もうそれぞれ鶴
が何羽と亀が何匹かわかるに決っているのに……。
貴子 もうひとつは、時間の問題。ミヒャエル・エンデさんが『モモ』(エンデ、
一九七六)の中で明らかにしたように、時の流れは一人一人違う。例えば、アフリカ
ではいついつ会おうと約束しても、めったに会えなかった。
遊地 カレンダーなんてもっている人がいない村で一月後の約束をして、迎えに来
ないのは約束違反だと怒ったりしていた(笑い)。
貴子 昼の星や冬のたんぽぽのように「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬもので
あるんだよ」というのは、金子みすゞさん(一九八四)の詩の一節だけれど、学校で
は「目に見えないものは、存在していません」といわんばかりの教育をずっと受けて
きたような気がする。
遊地 あさはかな科学技術真理教というべきか。
貴子 子どもの頃は、木も花も虫も鳥も人間と同じように生きているという感覚が
あったけれど、大人になるにつれて、それらにも生命はあるにしても人間とは別のも
の、という世界に入っていった。
遊地 思い上がりそのものの人間中心思想がはびこってしまっている。
貴子 私たちの親たちの世代でも、もうそれは色濃いものになってしまっていて、
木や花とお話ができる大人というのは、もはや例外。
遊地 というか変人。子どもだってそういうことを言うと馬鹿にした態度をとる子
がいる。でも、本当は忘れてはいけない世界だということを、南の島々を歩いてゆっ
くりお話を聞いているうちに気づかされてきた。
貴子 私は、屋久島の森の中を歩いていて、直かに木の声を聞いた気がした時、初
めて気づいて、それからどんどんそんな世界に入って行ったという方が実感に近い。
遊地 あなたのような人は特別かと思っていたら、けっこう今の若者たちにもそう
いう感性をもっている人がいる。
貴子 屋久島でのフィールドワーク講座がそのことを知る良い機会になった。
遊地 高齢者のお話を感動の涙を流して聞いたり、その教えに沿って森や川に挨拶
を送る若者たち。出合いの場をセットした僕らとしても、島からのことづてが僕らで
止まるのでなく、生きたものとして伝えられていく現場に立ち合えてとてもうれしかっ
た(安渓遊地、一九九九a)。
◎小さい花に生まれたい
遊地 里芋の研究(安渓貴子、一九九六)がきっかけで大石さんに出合って、ずい
ぶん長い時間お話をうかがったうちのほんの一部をここにまとめてみた。それでもこ
こには、自分たちが一番だと思い上がった日本人の姿と、すべての生物を滅ぼしかね
ない人間のありかたへの自覚がわかりやすい言葉で述べられている。
貴子 日本人は、自分たちがしてきたことを本当に知ろうとしていないことは常に
感じる。戦争の責任を本当にはとらないできた国の国民であることもそのひとつ。去
年は四か月ケニアで暮らしたのだけれど、アフリカに行くと毎日の食べ物にも事欠く
大変な暮らしをしている人たちがいる。それが日本を始めとする北の国に住む者たち
の贅沢な暮らしと裏腹なんだ、という事実に思いが及びにくい(安渓貴子、一九九九)
。このままでは、私たちも再びアジアの隣人たちを踏みつけにすることになるのでは
ないかという恐怖を感じることがある。
遊地 「過去に目を閉ざす者は未来にも盲目となる」とドイツの大統領のヴァイツ
ゼッカーさん(一九八六)は言ったけれど、若い人たちの中には、そういう点につい
てもよく考え、悩み、そして行動している人たちがいるのに出会う。こんな今だから
こそ、教育のもつ意味が大きいと思う。僕は、大学の授業では、環境問題と文化人類
学を主に担当しているけれど、大石さんと出合ってからは、それぞれ「イバルナ人間」
、「イバルナ日本人」という反省を中心に据えて講義を展開している。
貴子 どちらも、直接的には大石さんとの出合いからの贈り物ね。その他に、両方
に関連して「イバルナ学者」という自省もある。
遊地 それは、西表島の人々や冒頭に載せた「される側の声」のP子さんに叱られ
たことが大きい。ここでは詳しくは触れられなかったけれど、アフリカでの経験の影
響もずいぶんある(安渓遊地、一九九八b、一九九九b、安渓遊地・貴子、一九九八
c)。
貴子 さまざな経験を豊かに語ってくださる宝物のようなお年寄りが、どんどん年
をとっていかれたり、亡くなってしまわれたりする。聞く私たちの方も年をとってい
く。一〇年ほど前までは、教えていただくことが間に合わないのではないかという焦
りを感じることがあった。でもね、このごろでは私たちと同じ世代の人たちからも話
を聞くことができるようになってきた。そして、おお、すばらしい生き方をしている
仲間たちが、次々にきちんと生まれているなという感動。そういう機会がしだいに増
えてきた。これは限りなく嬉しいこと。ともに聞き手にまわった若者たちのなかにも、
素晴らしい感性をもっている人たちがいる。これはこんな危うい時代の中での大きな
希望だと思って、私はいまを生きている。
◎おはなしがごちそう
遊地 幸田文さん(一九九五)はこう言っておられる。「いい話しをきかせてもら
うことは、いつ迄も減らない福を贈られたと同じである」、と。この本は、私たちが
島めぐりの旅の中で贈られた、いつまでも減らない福をおすそわけしたい、という気
持ちでまとめてきた。
貴子 屋久島のおばあちゃんたちにかかると、これが「おはなしがごちそう」にな
る。こっちは食べさせてもらって満腹してもしばらくするとお腹がすいてきて、また
聞きたいという世界(笑い)。
遊地 「いつ迄も減らない福」じゃなくて、「すぐに減る腹(ふく)」か。こっち
の方が人間くさい感じがする。
貴子 その中でも、おばあちゃんたちが「とっておきの御馳走」として若い人たち
に、そして世の中の人たちに伝えたいと願っておられるのは、目には見えない世界の
広さと深さ、その恐ろしさとすばらしさ。
遊地 遠い八重山に伝わる自然や超自然世界とのつきあいの仕方をこちらが紹介す
ると、おばあちゃんたちには、その意味がすぐに理解できる。そして、屋久島独自の
表現で、その同じ世界を語ってくださる。また、最後に載せた屋久島のおばあちゃん
の日々の祈りは、僕らにも共感できるものだった。これをどう受け止めたらいいだろ
う。
貴子 ああ、八重山と屋久島は地理的には遠くても、実はとっても近い世界なんだ、
という印象。ということは、私たちが住んでいる西日本の人々の生活世界も案外、南
の島々とそう遠くないんじゃないかな、と思えてきた。私たちが気づかなかっただけ
で、こうした生き方をしてきた人たちは、日本のあちこちにいらっしゃるのではない
かな……ということ。
遊地 そういう意味で、欲ではありますが、この「島からのことづて」が、南の島々
からの贈り物として、北に住む人々に伝えられていくなら、こんなにうれしいことは
ないね。