対談)伊谷純一郎先生の教育2・フィールドワークのスタイル
2005/05/24
遊地 伊谷純一郎先生の指導もあったし、エネルギーのかたまりのような西表島の
人や自然の魅力に触れ、そのパワーに圧倒されながら僕らは西表島に通い続けてきた。
もう二五年を越えてしまった。
貴子 伊谷先生の学問は、自然科学と人文社会科学の枠にこだわらないしなやかな
視線を最大の武器として、ノートと鉛筆だけをもって、アフリカの原野を肩で風を切っ
て歩くというフィールドワークのスタイルが根っこにある(伊谷、一九九一)。その
中からたくさんの門下生が育ってきた。私も、自然人類学研究室のゼミに出させてい
ただいて、あの発想のしなやかさにどれだけ学んだかしれない。
遊地 僕も、廃村調査のあとは、西表島で昔作られていた稲の品種と栽培の方法と
か、理学部の動物学教室とはとても思えない研究をいろいろした(安渓遊地、一九七
九、一九八九a、一九九二c、一九九六、一九九八a)。アフリカで大きな川の漁民
と近くの農耕民が魚とイモを物々交換しあっている市場に出合ったのが、博士論文に
なった(安渓遊地、一九八四)。
貴子 まるで経済学ね。理学博士号として通るまで指導された伊谷先生の御苦労が
しのばれる……。私は、あなたについて西表島に通っているうちに、微生物学から生
態学に専門を移した。そして、アフリカでは森の中の小さな村の台所で女の人たちに
習ったことをまとめたりもした。
遊地 人口一〇〇人ぐらいの村に二千種類以上の料理を作るわざがある(ANKEI Ta
kako, 1990)とか、米をカビで発酵させる独自の酒が東アジアだけでなく、中央アフ
リカにもあるというのは、新発見だった(安渓貴子、一九八七)。
貴子 行った先でわくわくする人たちや物や自然にであって、それにほれ込んで付
き合っていくうちになんだか研究になっていっちゃう。
遊地 僕らがやってきたのは、既製の学問でいうと何に入るのかよくわからないけ
れど、広い意味で地域研究というものだろうよ。専門は何ですか、とよく聞かれるけ
れど、なかなか苦しい質問だね。心からほれ込んでするフィールドワークが地域研究
の核心だと思う。地域を扱っていても、冷たい分析だけというのは僕らの性にあわな
いみたい。地域と接する時にその愛と学問のバランスがなかなか難しいことがあるん
だけれど。
貴子 のめりこみ過ぎて帰ってこなければ、フィールドワークじゃなくて移住。
遊地 本気で移住しようかと思っていた時期もたしかにある。
◎西表島の話し手たち
貴子 私たちの話の聞き方は、これこれのテーマを話してくださいということもあ
るし、それ以外に雑談めいた話をしている時間も長い。そんななかから、「ふんふん!
それは面白い」といって脱線していって予期しない大収穫ということも多い。
遊地 誘導尋問やアンケート調査は極力避けてきたね。
貴子 にもかかわらず……
遊地 「へえっ!こんなことがあったのお!」と驚くことが同じフィールドに一〇
年通っても一五年通ってもある。「どうして教えてくれなかったの、こんな大事なこ
と」と聞くと、「どうして尋ねなかったの」といわれてしまってがっくりくる、とい
うことは日本に限らず、アフリカでもしょっちゅうある。これは、人はすでにその問
題の存在を知っていることについてしか質問できないし(安渓遊地、一九九八a)、
一番いい質問項目は、フィールドを離れる日にできるという言い古された真理だ。
貴子 島の人たちに自由に語ってもらうと、自然の恐ろしさや不思議な話が出てく
るようになって、ここに収録した三つの聞き書きができた。
遊地 たまたまだけど、なんだか不思議なお話ばかり。
貴子 まず、新盛さんのおばあちゃん。やさしいおばあちゃんで、いつでも「あん
けいさん、たかこさん!」といって、懐かしそうに嬉しそうに迎えてくださって……
遊地 おじいちゃんが健在のころは、あの茅ぶきの家に座らせてもらっているだけ
で、なんだかほっとする感じがした。
貴子 よく畑のことを話して下さったし、ひょいと庭におりては昔から作っている
色々な作物を見せて下さった。かびたお餅を水に漬けておいて作るミリンチューとい
うものを見せてくださったのも、新盛のおばあちゃんだった。
遊地 味見もさせていただいた。今では味醂としか書かないけれど、事典を見ると
焼酎伝来以降の新しい酒で、もとは「味醂酎」と書いたとある。生活の中に、意外な
までに古風なものが生きている島だね。
貴子 「カシの木に救われる」は、何度もしてくださった話だけど、いつも「あん
けいさん、あんなにして死なんできたよう……」と言って泣き出してしまわれる。
遊地 なにげなく暮らしていたのに、ある人たちにとって特別の場所、特別の時が
できてきて、そこで毎年その日に心からの祈りを捧げに参る、というのはまさにひと
つの「まつり」の始まりだ。
貴子 西表島には木と語り、木に感謝する習慣がずっとあったから、一本のカシの
木が家族の命を救ってくださったという実感の上に、自然に始まったものだったんで
しょう。
遊地 それだけではなくて、島の人の経験知を越えるような、大規模な伐採の結果
起こった大洪水で、実は人災だったということは重い事実だと思う。
貴子 それと対極にあるのが、松山さんの「木にもいのちがある」に出てくる、大
木を倒したあとの儀式ね。
遊地 これは、万葉集にも載っている鳥総立(とぶさたて)の儀式そのもの。列島
の人々が古代から連綿と続けてきたいのちの不思議との接し方がよく表れている。
貴子 不思議な話というよりも、自然と接する場合の心掛けのようなもの。
遊地 たしかに「一切のものに神がやどる、というのは自然を大切にしなさいとい
う意味だ」と松山さんはコメントしている。
貴子 破壊する力を人間がもってしまった今こそ、その考え方が大切になるんだ、
ということね。
遊地 生き物をイキムシと呼ぶという話は、なかなか味があるけれど、まあこれは
生態人類学や民俗分類学のお得意のテーマでもある。すると、これまで琉球弧では、
植物世界についてはキとフサの二分類、あるいはカズラを加えて三分類、西表島だけ
はバラピ(シダ類)が加わって四分類と報告されてきたけれど、伝承をくりかえし咀
嚼して自分のものとしてこられた松山さんの話を聞くと、そんな単純なものじゃなく
て、いろいろ当てはまらないものがあるんだ、ということがわかってしまう。
貴子 実際、自然の中で暮らしてみるとあてはまらない物がある、ということが大
切なのね。都会の人たちが、生き物を捉えるのは、学校教育で身につけたものの見方
がほとんどでしょう。でも、そういう見方以外の生き方や考え方が確かにあるのだ、
と知ることはとても大事なことね。そして、地域ごとにその地域の自然に密着した、
そこから生まれた自然観や生命観があって当然なのね。
遊地 松山さんは、木への祈りの言葉を教えてくださった時、正確を記すためだろ
うけれど、いったん書き付けてからそれを読んで下さった。それまで口づたえだった
伝承が書きつけられる瞬間を見てしまったわけだ。
貴子 それは、次の川平永美じいちゃんもそういう所はあると思う。
遊地 初めてお会いしたのは、山田武男さんの民宿にいらっしゃった時。西表島の
崎山という廃村の歴史と民俗と歌の数々を一身に背負っているという感じの方だった。
貴子 昔のことを本当によく覚えておられると思う。川平永美さんにしても、従妹
の山田雪子さんにしても(山田、一九九二)。雪子さんの弟の山田武男さんは、むし
ろ、みんなに語らせたり、歌わせたりしてそれを記録していく才能があった。
遊地 武男さんは学者タイプ。僕たちが編集を手伝った二年ほどの間に、たちまち
みごとな民族誌家(エスノグラファー)に成長された。ご自分の本(山田、一九八六)
が出る直前に早死にされたのは、くれぐれも惜しいことだった。
貴子 永美じいちゃんは、今も御元気で、この間は九七歳のカジマヤー(風車)の
祝いで、オープンカーで石垣市内をパレードなさったことが新聞にまで載っていた。
遊地 山田武男さんの本を出版してから二年間フランスに勉強に行って帰った来た
ら、川平永美さんは、崎山村のことをずいぶんたくさん原稿にしておられて、それを
ドサッと託された。
貴子 何度も何度も書き換え書き換えして、おじいちゃんが漢字の練習をしたもの
までみんな見せてもらった。消えてしまった自分の村のことを記録に残すためにすご
い努力をされたんだなあ、と思った。
遊地 コピーなんかない時代の人だから、孫にも見せるといって、いくつも書き写
してあった。ところが、そのひとつひとつが微妙に違うから、編集する僕らは大変。
それが一冊にまとまったのが、『崎山節のふるさと』(川平、一九九〇)で、沖縄の
ひるぎ社が『おきなわ文庫』の一冊として出してくれた。
貴子 それ以来、毎年一回か二回、お会いするたびに「あんたに言われたのはみん
な書いてあるよ。どうですか、いいですか?こんどは何を書こうか。ぜひ印刷して」
と……
遊地 歴史の伝承のこと、行事とそれにともなう歌のこと、生活のことなんかをずっ
と書いてもらってきた。もう種切れになるか、と思ったらそれがそうじゃない。思い
もよらない新しい発見につながる伝承を思い出されたたりして驚かされる。
貴子 西表島にいたワニが、新盛波さんたちがカシの木に救われた場所のすぐ上流
のマリユドゥの滝壷から大雨で流れて海に出て、ついに鹿川村の人々にうちとられた
話(川平、一九九六a)とか。
遊地 ここに収録したのは、九〇歳になられた永美じいちゃんが、目には見えない
世界のことをとうとうと語られた記録だけれど、いつもはこんな不思議な話ばかりじゃ
ない。
貴子 戦争末期に、西表島で難破したアントン(安東)丸という船の乗組員が、日
本兵によって虐待されて、敗戦になったから誰もいない鹿川村の跡に捨てに行ったと
いうような、けっして忘れてはならない貴重な証言も入っている。
遊地 戦後すぐ崎山村に住めなくなって、全員が離村しなければならなかったのは、
牧場にいた大事な牛たちを、日本軍が機関銃で撃って全部取って兵隊の食糧にしてし
まったからだ、ともいわれている。波照間島では、国民学校の教員になりすました残
置諜報部員(陸軍中野学校のスパイ)が、西表島の南風見(はいみ)海岸への疎開と、
家畜や鶏をすべて屠殺することを強制した。アメリカ軍が上陸した時の食糧を絶ち、
住民がアメリカ側に協力しないようにというという大本営からの直接命令だったらし
いんだけど、そのために、約二千人の波照間島民は、ほぼ全員がマラリアにかかり、
約三分の一もの人が無残な死をとげてしまった(石原、一九八三)。
貴子 川平永美さんも、住民への軍の横暴なしうちについて書きとめておられる(
川平、一九九六b)。波照間島の人たちは、一八世紀、首里の王様の命令によって西
表島崎山村への強制移住をさせられた歴史がある。いろいろひどい目にあってこられ
たけれど、実際にお会いてみると、とてもやさしくて明るい人が多い。崎山村の人た
ちのお人柄もそうだったと聞いている。
遊地 戦争マラリアの犠牲者への国家賠償請求のことは、最近ニュースでも取り上
げられていた。南の島の不思議な話ということだけで読んでほしくはない所だね。辺
境に犠牲を押し付けているその痛みを感じとることができるかどうか……。