対談)伊谷純一郎先生の教育1
2005/05/24
この対談は、安渓遊地と安渓貴子が伊谷純一郎先生(当時京都大学)という希有の
師匠に導かれて、フィールドワーク(野外調査)と地域研究を進めていった道筋をざっ
くばらんに語ったものですう。私たちがいかにしてフィールドワークで出会った方々
のお話を、共感をもって聞くようになり、それによって深い影響を受けてきたかを汲
み取っていただければ幸いです。
もともと安渓遊地・安渓貴子編の『島からのことづて』(葦書房、2000年)の
聞き書きの間にはさんだものですが、ここでは対談だけを取り出して紹介していきま
す。引用文献は、最終回にまとめて紹介します。
毎回写真を添付します。必ずしも初めてフィールドワークに行ったころのものでは
ありませんが、雰囲気が伝わればと願っています。
対談1 はるかな島へ
安渓遊地 初めて西表島に向かった時、何を感じた?抜けるような青空の下で、小
さな連絡船のデッキに立つと、はるかな水平線に接する所だけに白い小さな雲がたく
さん並んでいるのが見えた。雪国生まれの僕は、南の海へのあこがれに胸がわくわく
するような気持ちがした。
安渓貴子 先に西表島に着いたあなたからもらった電話の声が、とても微かで、は
るかなトンネルの向うから響いてくるようだったから、とんでもなく遠い所のような
気がしていた。
遊地 港から四キロほどの村まで、トラックの荷台に載せてもらって、濃緑の風を
切って進んで行く時の、これから何が始まるんだろう、という高揚した感じもよく覚
えている。
貴子 それと、あの海の色!……夜、泊めてもらった家で、何かがキョキョキョキョ
ッって大きな声で鳴いて、びっくりしたけれど、あれはホオグロヤモリが鳴いていた
のね。朝起きた時に、真っ青な空に濃い緑の木々の梢がとても印象的だった。なんか
激しさを感じる緑色。そして自然の魅力にも増して、お会いした人たちが印象的だっ
た。
◎出合った人々
遊地 僕は、京都大学の大学院に入ったばかりで、ニホンザルやチンパンジーの研
究で有名だった伊谷純一郎先生についてアフリカに行って、人間の研究をするつもり
だった。ところが、先生は「君の行くところは、ひとつしかない」とおっしゃった。
「それは、西表島の鹿川(かのかわ)村。地図には載ってない廃村や」とのこと。で
も廃村なら、すぐ近くの京都の北山にいくつもあるじゃないですか、と先生に切り返
したら、「あのな、人類学のフィールド(調査地)は遠ければ遠いほどいいんや」と
いわれた。二、三日考えさせてもらったけれど、いい智恵が湧くわけもなく、結局先
生の言うとおり西表島に行くことになった。あとから考えてみると、異文化を鏡にし
て自分の姿がよく見えるようになるという、文化人類学の考え方がその根底にあった。
まずは、なるべく違いの大きそうな異文化という大きな鏡に自分を照してみろ、とい
う指導だったんだろう。
貴子 伊谷先生は、西表島に行ったら、まず石垣金星(きんせい)さんという人に
挨拶に行くように言われた。
遊地 ちょうど、食堂で食事中の金星さんを捜し当てて、挨拶をしてから、方言で
生き物の名前は何と言うんですかとかいろいろと尋ねていたら、五分もたたないうち
に、いきなり頭上で大声がした。「フリムン!」これはまあ、馬鹿者というような意
味だったんだけれど、見上げたら食堂のおばさんで「そんなに次々に訊いたら、この
人はご飯が食べられんでしょう!ちょっとは考えなさい」って。これが僕のフィール
ドでの叱られはじめ。
貴子 金星さんのおうちには、私たちと同じくらいの年かっこうの若い男の人たち
が昼間から何人もごろ寝していて……。昼はコーヒー、夜は泡盛、合間にインスタン
トラーメンという生活だった。
遊地 みんなUターン組で、まだ仕事もなくて、学校の先生をしていた先輩の金星
さんの家がたまり場になっていた。僕もさっそく仲間入りをさせてもらった。
貴子 そうしたら、若者組の仲間が訊いてくる。
遊地 そう、「おまえ、何しにきた?」って。こっちは、天真爛漫に「人類学の調
査だけど」と答えたわけ。そうしたら、にやりとして「何、調査だ?バカセなら毎年
何十人も来るぞ」と言われた。バカセという言葉は僕の辞書にはなかったけれど、研
究至上主義の威張り屋という意味はすぐにわかった。でも、これが駆け出しのフィー
ルドワーカーを育成してやろうという本当の優しさだったと気づくのに何年もかかっ
た。イリオモテヤマネコが“発見”されてからというもの、調査隊がいくつも押し寄
せて、地元としては迷惑している面が大きいということだった(安渓遊地、一九九二
a)。
貴子 あのころは、虫採りのタモ網をもっている人が多くて、研究者であろうと、
お金目当ての人であろうと、そういう他所者をにらみつけながら歩く若者たちに案内
してもらったから、ついこっちも虫採り網をもつ人を睨んだりして……
遊地 自分が睨まれる側だっていうことをいつの間にか忘れていた(笑い)。
貴子 そのあと、廃村からの帰り、迎えの舟が来なくて、川が満潮で渡れないので
仕方なく雨のマングローブの中でテントを張って寝ていたら、猛烈な羽虫が襲ってき
たり……。
遊地 朝になってみると、あなたの顔が西表のミリク(弥勒)の面みたいに腫れ上
がっていた。あのあと、例の食堂のおばさんに「ひるぎ林(マングローブ)は、ハブ
の巣窟なのに、そんなことも知らんであんな所に大事なかあちゃんを寝せてから……。
あんたなんかはハブに噛まれて死んでもいいんだよ!」とまたまた叱られた。
貴子 ダニやアハムシ(和名ツツガムシ)との付き合い方もだんだん覚えてきた。
遊地 あの猛烈な一九七七年七月三一日の五号台風の時には、ちょうど僕は干立村
にいて、村の半分以上の家が壊れる中を、村の人たちといっしょに公民館に避難する
という体験もした。
◎こっぴどく叱られる
貴子 だんだん分かった気になっていて、ある島でガツンと叱られたのは、それか
ら一〇年もたってからのこと。
遊地 西表島での二年間の廃村調査を修士論文にまとめ(安渓遊地、一九七七)、
アフリカにもあなたと一緒に一年あまり行かせてもらえて、大学の文化人類学の教員
として雇われてから数年したころ、P子さんとP夫さんの住む島を訪ねた。
貴子 それまでは、調査「される側」の迷惑は「する側」の私たちが気遣っていれ
ば、最小限にとどめられるものだ、となんとなく思ってきたのよね。
遊地 川喜田二郎先生が学園紛争の中で創設された移動大学に出会った僕らは、一
九七三年、第一一回目の新潟県巻町角田浜キャンパスのスタッフとして勉強するなか
で、「調査地被害」という言葉を知った。宮本常一さんは「調査というものは、地元
のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合
が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが案外なほど多い」と書い
ておられた((宮本、一九七二)。だから、翌年西表島に行く時には、そのことをそ
れなりに気にはかけていた。泉靖一さんが一九四九年(放送大学教授の祖父江孝男さ
んのご教示によれば、これは泉さんの思い違いで実際は一九五三年)に北海道で強烈
に叱られた言葉もそのころ読んだことがあったかもしれない。
貴子 「おめたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、どんな貧乏を
しているかしるめえ。それにのこのここんなところまで出掛けてきて、おれたちの恥
をさらすきか?それともおれたちをだしにして金をもうけるきか、博士さまになるき
か!!」(泉、一九六九)という言葉ね。
遊地 そのとき、泉さんは「雷光に打たれたよりも激しい衝撃をうけ、ただあやまっ
て調査をせずに帰ってきた」と書いている。
貴子 P子さんとP夫さんの声に素直に耳を傾ければ、調査の実体は今でも酷いも
のだということがわかる。本当にびっくりした。
遊地 そして、調査地被害は過去の問題ではないし、自分たちも例外じゃないとい
うことを、痛いくらい気づかせてもらった。ショックで、そのあとしばらくは調査も、
学会発表もほとんどできなかった。
貴子 例えば、話した人の了解をもらわないで公表してしまう、というのは論文書
きをしていると常にあることだったから。
遊地 その反省に立って、この本のもとになった聞き書きでは、すべて発表前に話
者ご本人か、ご遺族に目を通してもらい、訂正してもらった上で発表するように務め
た。写真を載せる場合も、御本人の了解をもらうことを原則とした。まあ、固い言葉
で言えば、プライバシーと肖像権を侵害しないようにという当たり前のことだし(安
渓遊地、一九九二b)、忙しさを口実にそうした人権への配慮を怠れば、筆の暴力に
なってしまうということだろう(安渓遊地、一九九三a、一九九三b、一九九四a)。