現場の声)「私が原発業界を抜けたわけ」という話をアフリカで聞いた
2010/08/10
世界を旅していると、いろいろな人に出会います。ほかでは聞くことのできない目
が点になるような話に出会うこともありますが、現場の声はいつも説得力があるもの
です。
「旅する耳」安渓遊地が、アフリカの旅で日本人Aさんから聞いた言葉から。
――アフリカで仕事をされる以前は何をしておられたんですか?
実は、私は、原子力産業で働いていました。炉心部分の基本設計をしていた
んです。
でも、私が設計にたずさわった1970年代には、耐震設計は、水平方向のX軸とY
軸だけを考慮していて、上下方向のZ軸については、そもそも考慮していませんでし
た。
――ということは、もしも直下型の地震があって上下方向に動くことがあったら?
やばいですね。
――ええ!?やばいんですか? それが今も稼働している!?
はい。それから、立場上いろんなファイルを見ることがありましたが、その中
にF島第二原子力発電所に納める圧力容器、原子炉を格納する一番大切な鋼鉄の巨大
な容器、これを船から海に落としてしまった、ということが書かれていました。何百
トンもあるものを引き上げてみたら、まん丸でなくて歪んでしまっていたんです。で
も、作り直していたのでは納期に間に合わないし、会社に莫大な損失が出ます。それ
で仕方なく、中に大型ジャッキを入れて歪みをなおしたという内容でした。
――そ、それって、やばくないですか? 設計の強度がたもてますか
うーん、やばいですね。
――それを政府は見過ごしてしまったんですか?
そのあとしばらく、この圧力容器を納入した業者には、通産省は原発関係の入
札をさせませんでした。
――それだけですか?
それだけです。
――なんか納得がいきませんね。
はい。いろいろ納得の行かないことがあるなかで、ある日のこと、私はまだ
稼働してい
ない原子炉の中に入って、暗い迷路のような原子炉の中で迷って出られなくなってし
まったんです。手探りで出口を探しながら、
「出口がない、出 口 が な い、出 口 が な い !!」
私は原子炉の中でパニックを起こしてしまいました。それがきっかけであの仕事を
やめたんで
す。
――あなたが設計された原子炉たちは、大丈夫なんでしょうか。
さっきも申し上げたように、やばいんです。出口がないんです。だからぼくは
出口を求めてアフリカにきているんじゃないですか。
……(絶句)
こんな話を聞いていたものですから、以下のサイトの現場の話もうなずかざるを得
ないのです。
http://hksh.blog28.fc2.com/blog-entry-70.html
原発がどんなものか知って欲しい④引用開始
「いいかげんな原発の耐震設計」
阪神大震災後に、慌しく日本中の原発の耐震設計を見直して、その結果を九月に発表
しましたが「どの原発も、どんな地震が起きても大丈夫」というあきれたものでした。
私が関わった限り、初めのころの原発では、地震のことなど真面目に考えていな
かっ
たのです。それを新しいのも古いのも一緒くたにして、大丈夫だなんて、とんでもな
いことです。1993年に、女川原発の一号機が震度4くらいの地震で出力が急上昇
して、
自動停止したことがありましたが、この事故は大変な事故でした。なぜ大変だったか
というと、この原発では、1984年に震度5で止まるような工事をしているのです
が、それが震度5ではないのに止まったんです。わかりやすく言うと、高速道路を運
転中、ブレーキを踏まないのに、突然急ブレーキがかかって止まったと同じことなん
です。これは東北電力が言うように、止まったっからよかった、というような簡単な
ことではありません。5で止まるように設計されているものが4で止まったと言う事
は、5では止まらない可能性もあるということなんです。つまり、いろんなことが設
計通りにいかないということの現れなんです。
こういう地震で異常な止まり方をした原発は、1987年に福島原発でも起きてい
ますが、同じ型の原発が全国で10もあります。これは地震と原発のことを考えると
き、非常に恐ろしいことではないでしょうか。
筆者「平井憲夫さん」について 1997年1月逝去。原発事故調査国民会議顧問、原発
被爆労働者救済センター代表、ほか諸原発差し止め訴訟原告特別補佐人等