わが師)森毅さんのあの日の授業・トポロジーの実演
2010/08/04
旧国鉄の旧小郡駅から旧山口駅を経て宮野駅へ向かう電車の中で改訂しました。
(クイズ、上の文章にはいくつか間違いがあります。さがしてみましょう。回答は末
尾)
◎正しさは伝染(うつ)らないけど、楽しさは伝染(うつ)る
◎元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる。・・・みんなが毎日ハイにな
る
ことないやんか。元気がない人もいてええんや。
◎今の教育で何より必要なのは、どんな不確定な変動にもツブシの利く人間を育てる
こ
とだろう。それを教師というツブシの利かぬ人間に委ねるところが困ったところ。もっ
と悪いのは、未来が不確定になればなるほど、当面の制度を安定化しようという図式
である。
というようなことばを残した数学者、森毅さんが、2010年7月24日に
亡くなられました。
自分で料理をつくっていて服に火が付いたのが原因だったとのことです。
私は大学で受けたはずの授業をあまり覚えていません。とくに京大理学部の1年生
だった時は、5月をすぎたらほとんど大学にいかず「ねたきり学生」と言われる
生活をおくっていたのでした。そんな中で強烈に覚えているのは、森毅さんのある日
の授業でした。
普通は、理科系の学部の学生は、名物教授だった森
毅さんの授業「数学5」を受ける権利がありませんでした。もっと専門の基礎ともな
るような「あたりまえ」の授業を受けろということだったでしょう。
どうみても数学は苦手という文科系の学部生か、理科系でも落第生でなければ森毅
さんの授業を受け
る権利がなかったのです。
話は変わって、一夜漬けという勉強法がありました。まったく授業に出ないでおい
て、試験の前の晩
に一晩だけ教科書を勉強するのです。
そのやり方が、文化人類学などには通用しても、数学・物理・化学などの科目には
まったく通用しないことを知ったあと、大学2
年生で、森毅さんの「数学5」を受ける権利を手にしたのでした。
文学部の授業をもぐりで受講してラテン語熱中症にかかっていたおかげで、1年生
のときよりは高頻度に出席するようになっていた授業の中
に森毅さんの「数学5」もありました。
ほかのことはすべて忘れたのに、ある日の授業だけは、
鮮烈な印象とともに心に刻まれました。
森毅さんは、レインコートを着たままで教壇に立ちました。そして縄を取り出し
「だれか、私の両手首をこれでしばってもらえませんか?」
といいました。大学教員への敬意というものが全世界的に低落していた学園紛争の直
後だったのでしょう、ひとりの学生が、遠慮会釈なく先生の両手首をきつくしばり
あげました。
森毅さんは、
「これから縄をほどかずに、このレインコートを裏返しに着てみせま
す」
といって、まず背中の部分を前に垂らし、
一方の袖口にもういっぽうの袖を通すという難事にとりかかりました。
レインコートの袖が細いのと、縄目がきついのに苦戦しながら、歯を使ったりもし
な
がら、とうとう
りっぱにレインコートを裏返しに着込むことができたのでした。15分ほどもかかっ
たでしょうか。
そのあと、みんなの方をむいて、
「はい、これはトポロジーの実演でした。今日の授業は、学園祭協賛でここまで」
と彼は言って、その日の授業は終わりになってしまいました。
1971年の秋のことでした。ちょうど、日本の3人のフィールズ賞受賞者のひとり、小
針あき宏(あきは日+見という字)京大助教授が、自宅の階段から転がり落ちて亡く
なった年
でもありました。
もう少し薄地の袖の短いものでなら簡単だったでしょうね。でも、それだときっと
印象は薄かったにちがいありません。うまくいくかどうかわからへんけど、ともかく
やってみて、それでだめならまあ、しゃぁないやないか、というような雰囲気に、森
毅さんのあの日の授業と、新聞で報道された死因とになんだか一脈通じるものを感じ
てしまうのです。
今でも教壇に立つとき、ときどきあなたのあの短い授業のことをおもいだします。
おおき
にありがとう。
(クイズの答え
旧山口 → 山口
電車 → 汽車)