ソテツ)奄美ではソテツ地獄どころか、ソテツガナシと尊称していたそうです。
2010/07/14
沖縄の出版社ボーダーインクの代表者さんのブログです。
出版も引き受け、あとからじっくり読んで下さるとはうれしい限りです。
http://d.hatena.ne.jp/sateusa/20090602/1243900634
2009-06-02
■[読書] 「ソテツガナシ」と「ソテツ地獄」 08:57
『聞き書き・島の生活誌(2) ソテツは恩人 奄美のくらし』(盛口満・安渓貴子)
を読む
今年2月に、『聞き書き・島の生活誌(1) 野山がコンビニ 沖縄島のくらし』
(当山昌直・安渓遊地=編)、『聞き書き・島の生活誌(2) ソテツは恩人 奄美
のくらし』(盛口満・安渓貴子)というブックレットが2点同時に、ボーダーインク
から発行された。シリーズ名から分かるように、2冊とも聞き書きによって成ってお
り、(1)が5編、(2)が8編収められている。2つとも100頁ちょっとの薄い
冊子だが、これがメチャ(笑い)おもしろい。個人的に、ぼくが子どものころ体験し
たことや記憶の底に眠っていたことなどが語られているからということもあるが、な
によりも、自然を相手に生き生活してきた人ならではの、深い叡智の言葉が、世間話
のようにさらりと述べられていて、読みながら幾度となく目を洗われる思いをした。
ここでは『ソテツは恩人 奄美のくらし』で語られている、ソテツのことに絞って
話を進める。この本には、8つの聞き書きが収められている。そのうち、5つの章は
何らかのかたちでソテツに触れられていて、ことに一章はまるまるソテツ澱粉の抽出
法やソテツ料理の作り方についての記述で占められている。この本を読むと、沖縄と
くらべて奄美(諸島)では格段に、ソテツと人々の暮らしが深く関わりあっていたこ
とが分かる。
「子どもの頃、米を食べるのは年に何回よ。普段はイモです。今でも自分はイモ食
よ。イモの無い人はソテツ。あれで育ったのよ。今の人に言ってもわからんが、ソテ
ツは自分らの恩人だからね」と述懐する大正11年生まれの男性がいるかと思えば、
「ソテツで生き延びました」と語る昭和13年生まれの瀬戸内町蘇刈の男性がいる。
ソテツは日常食とまではいえなくても、ほぼそれに近かったという印象である。
奄美の人々は、ソテツの性状や利用法などを細大漏らさず知り尽くしていたに相違
ない。この本でも、収穫に適した時期やナリ(実)や幹によって異なる澱粉の抽出法、
男ソテツと女ソテツのちがい、ソテツ料理の作り方などが詳細かつ具体的に述べられ
ている。驚いたことに、ソテツを食料としてだけでなく、葉を切り刻んで田の緑肥と
して利用したとか、外国に輸出されたという記述もある。
十年ほど前にぼくは、しまうた研究者の仲宗根幸市さんに、「沖縄ではソテツ地獄
という言葉があるようにソテツのことを否定的にとらえることが多いが、奄美ではソ
テツガナシというふうに尊称または愛称で呼ぶんですよ」と教えられたことがある。
本書を読んで、仲宗根さんの言葉の思いのほか深い含意に気づかされた。沖縄でも、
ソテツが緑肥として利用されたり外国に輸出されたかどうかは知らないが、ソテツに
ついての知識や習俗や利用法にそれほどの違いがあったとは思えない。それなのに「
ソテツ地獄」と「ソテツガナシ」というように、およそ正反対の言葉が生まれている。
『沖縄大百科事典』の「ソテツ地獄」の項目を読むと、「第一次大戦後の戦後恐慌
期から世界大恐慌期の慢性的不況下における沖縄経済および県民生活の極度の窮迫状
況を意味する用語」とある。あるものごとの抽象化や比喩的な表現は、おうおうにし
て(というよりも不可避的に)人々の生きられた時間の大切なものを切りすてること
によって成り立つ。つまり細部に宿る神々を切りすてることによって成り立つ。ここ
の例でいえば、切りすてられたのは「ソテツガナシ」と呼ぶ心性である。
封建社会という言葉が、江戸時代を単色で抑圧的なイメージで覆いつくすことがあ
るように、ソテツ地獄という言葉も、人々の生きている生活世界から乖離した記号と
して、ひとり歩きしているように思えてならない。戦前真っ暗史観とか沖縄の状況を
指して「根こそぎの鬱状態」と言ってのけた某大学教授の言葉も同断である。
「ソテツ地獄」という言葉は、ソテツにたいして恩知らずの命名だと思う。
コメント
瀬良垣シネマ 2009/07/09 08:31
先日、初めて奄美大島に行きました。
島内をめぐりながら、ふとsateusaさんの
「ソテツ」をめぐる比較が思い浮かびました。
奄美に比べて、沖縄の方がやはり生産力や食生活は豊かだったのでしょうか。そのあ
たりが「ソテツ」をめぐる思いにも反映されているような気がしました。