ケニア)聖なるカヤの森を訪ねて
2005/05/13
「聖なる森をケニアにたずねて」というタイトルで、
屋久島の雑誌『季刊・生命の島』69号(2005年1月)に載せていただきまし
た。
(この雑誌については、http://www8.ocn.ne.jp/~seimei39/ をごらんくださ
い。)
また、より詳しい情報を、英語で書きました。日本語タイトルは
「ケニア東海岸・聖なるカヤの森への旅――ディゴ民族のエコツーリズムに関す
るコンゴ・ケニア・日本協同調査レポート」というもので、共著者にともに旅を
したポレポレ基金(コンゴ民主共和国)のジョン・カヘークワさんもくわわって
います。そちらに、写真がカラーで20枚ほど掲載されていますので、ごらんく
ださい。また、みじかいスワヒリ語のまとめもつけてあります。
http://ankei.jp/yuji/?l=e&c=r&n=102
島からのことづて 番外編
聖なる森をケニアにたずねて 安渓遊地・安渓貴子
二〇〇一年の夏、アフリカで地元主導で森をまもってきた四人の友人を屋久島
に迎え、全国の若者や屋久島のエコツアー・ガイドの皆さんと交流した事があり
ます(本誌五十九号)。その旅の終わりに、「このコンゴとケニアと日本をつな
ぐ動きは、これでおわりなのか」と問われ、「これは始まりにすぎません」と答
えました。その言葉通り、翌二〇〇二年の九月、私たちは再会のためケニア共和
国を訪れました。
カカメガの森で再会
コンゴ民主共和国の東の端にある世界遺産指定のカフジ・ビエガ国立公園から
ジョン・カヘークワさんをケニアに招いて、一か月の旅をしました。カヘークワ
さんは国立公園と地元住民の共存をめざすポレポレ基金の設立者です。
旅はまず、西ケニアの森にカカメガ環境教育プログラムのオケカさんを訪ねま
した。一年ぶりに再会した二人は日本での経験を懐かしく語り合いました。
カヘークワ「屋久島はよかったねえ。僕らの所でも、子どもなんか白人を見た
ら目を丸くして大騒ぎだけれど、屋久島のあるお姉さんは、ほんとに僕らのこと
を珍しく思ったらしくてねえ、手を握って肌をこすって確かめていたもの。」
オケカ「何か塗ってるんじゃないかってね(笑い)。屋久島に行く前に大木
(蒲生の大クス)を見に行った時、ちょうど見に来ていた親子が本当に喜んで、
僕らが子どもを抱いて一緒に写真に写った時、お母さん達に『一生のうちにこん
な幸運は二度とないと思う』とまでいわれたっけ。」
カヘークワ「あんなふうに受け入れてもらって、人間はどこでも同じだと思っ
たね。」
カカメガではオケカさんとともに木を植え、森を守る運動をしている教会(本
誌四十八号)を日曜日に訪れ、教会の人々とも再会しました。カヘークワさんも
牧師の資格があり、オケカさんの教会で説教をされましたが、そのあと次のよう
に言われました。
カヘークワ「昨日、夢にこんな言葉を聞きました。安渓さんたちの言うことや
なさることに、人を動かす力があるとすれば、その力はアフリカとの関わりから
生まれている。起きてからも、早くそのことを本人に言ってあげなさい、と神様
から何度も背中を押されるので、朝一番に言いにきました。」
ケニアにもあった鎮守の森へ詣でる
地元主導で森を護ろうとしているアフリカの人々との交流の旅の中で、私たち
は、ケニアの首都のナイロビの国立博物館につとめる友人のパトリック・マウン
ドゥさんに再会しました。マウンドゥさんは、二〇〇〇年九月に私どもが計画し
た東アフリカの森を訪ねる旅の仲間です。彼から「聖なる森」がケニアにもあち
こちにあって、人々が残してきた森が今も大切にされていると聞かされました。
日本の鎮守の森と同じように地元の人々が大切に護ってきた森があるとは驚きで
した。そこでそれらの森のいくつかをたずねる旅を計画しました。
ケニアの東海岸からタンザニアにかけてはミジケンダ(九つの村)と総称され
る人々が住んでいます。五、六百年前に北のソマリアの方から南へと移住してき
たと言われています。ミジケンダの人々はカヤと呼ぶ聖なる森をもっています。
私たちはカヤの森のひとつを港町モンバサの近くに訪ねることにしました。
モンバサというケニア第二の都市がとりあえずの目的地です。アフリカ大陸の
真ん中に生まれ育ったカヘークワさんにとっては、子どもの時から聞かされてい
た有名な町モンバサと、大陸東端のインド洋は初めての訪問でした。でも、イス
ラム教徒がほとんどだというので、熱心なキリスト教徒のカヘークワさんはなん
だかちょっとこわいような気もする、と本音をはいていました。
ケニアの西にあるオケカさんのカカメガの森から、東の端のインド洋までは八
百キロほどあります。まずナイロビに戻り、レンタカーでの三人旅です。雨季の
始まりのナイロビの町はジャカランダの木の紫色の花が満開です。早朝にナイロ
ビの交通渋滞をなんとか突破して一路東へ向かいます。
ナイロビ空港への道と分かれたころ、曇り空からやがて雨がざーっと降り出し
ました。ほとんど前も見えないほどの大雨です。この道を車で走るのは、一九九
八年から四回目ですが、いつもは枯れたようなサバンナの中を走り抜ける旅だっ
たのです。この日は、サバンナを五百キロ走ったのですが、ずっと大雨が降り続
いてていました。乾燥気候の広大なサバンナも、いったん雨が降るとなれば幅数
百キロにもわたって降るのだ、という新たな体験でした。モンバサにたどり着く
ころ、ようやく雨も止み、インド洋を望むホテルに落ち着きました。珊瑚礁が遠
くに見え、遠浅の白い砂浜が広がっています。ココヤシを中心とした木立の中に
たくさんのホテルやロッジがならんでいます。ここも数十年前は森だったのだろ
うなとふと思いました。
森へ入る前に
モンバサを後に午後は海岸沿いに南へ向かい、いよいよ紹介されたディアニ地
域に入ります。ここはイスラム教の世界です。イスラム帽子をかぶり、白い長い
衣装を着た男の人、ブイブイと呼ぶ黒い布で体を覆った女性がゆっくりと道を歩
いています。多くの女性がカラフルな布を腰に巻いています。ココヤシや果樹が
植わり畑があって、明るい木立の中に家々が点在している、そんな風景が続きま
す。サバンナを旅してきた私たちの目には、同じケニアにあって、別の暮らしが
あるように見えます。道路沿いに目的地の看板が見えました。
事務所に着くと若者が数人たむろしていました。紹介してくれた友人の名を言
うと、連絡がついていて、若者たちが自己紹介をしてくれました。エリアス・キ
マルさんと、ヘメド・ムワフージョさんが私たちのお世話役です。また、そこに
は年配の男性が一人いました。その人にも挨拶し、私たちの自己紹介と、何をし
にきたのかを告げました。
キマルさんが、「長老が来るのを待とう」というのでしばらく雑談をしまし
た。カヘークワさんがコンゴ民主共和国の森が内戦で大変なこと、私たちにさそ
われて日本に行ったことを話し、私たちはコンゴに以前住んでいて、帰りたいこ
となどを話しました。
なかなか長老はやってきません。どうしたのだろうと思ううちキマルさんが
「カヤの森には規則があります。守れますか」と言います。見せられた規則は十
条余りありました。
私たちは一つ一つうなずきます。聖地に敬意を表すこと。入ってはいけない場
所、写真をとってはいけない場所があること。トイレはいけないといったこと。
これらはすでに例えば西表島でもやっていることです。それに神社やお寺で手を
合わせるときには帽子をぬぎますよ……。そんな話をしているうちに、「長老が
来ました」とキマルさんが言いました。なんと、さきほどから横で私たちの話を
にこにこときいていた年配の男性が「カヤの森の長老」だったのです。どうやら
私たちはそれとない試験を受けていたようでした。
カヤの森へ
試験に合格したらしい私たちは、翌朝カヤ・キノンドの森に案内されました。
町から森へ行くには海岸沿いの高級リゾートホテルが建ち並ぶ中を何キロも車で
走ります。一泊百五十ドル以上がほとんですが、これはケニアの平均的な庶民の
年収にも匹敵する大金です。外国人が泊まる別世界のようなホテルや地元民の畑
つくりのためにカヤの森がどんどん侵食されて減っていっている、というキマル
さんの説明が実感を伴います。
森の案内板が見えました。カヤ・キノンドの入り口には木の門があってその前
に長老たちが立っていました。
カヤの森のすごし方(長老の話)
カヤの森の責任者で、長老会を代表して私ムニェンゼ・アブダラがご挨拶しま
す。人数が少ないので小声で申し上げましょう。
この近辺には、キノンド以外に三つのカヤの森があります。しかし、こここそ
が祖先がやってきて初めて住んだもっとも由緒ある森なのです。子孫たちはしだ
いに森の外に住むようになりましたが、今でも例えば雨乞いや豊漁を祈る時に
は、森に入って祈ります。
カヤの森に入るには、いくつも規則があります。森に入る前にご説明しておき
ましょう。
祈りのために入るときには、シャツを脱ぎ、はだしで入ることになっていま
す。しかし、観光客のみなさんにそれを強制するのは無理がありますから、帽子
だけはとってもらいます。
森は伝統的な暦に従って四日に一度完全に閉鎖されます。中に入る時は、帽子
はだめです。黒い着物が望ましいです。たばこを吸ってはいけません。森の中の
草木を取ったりしてはいけません。何ひとつ持ち出してはいけません。森の中で
は用便をしてはいけません。道を外れてもいけません。写真を撮ってはいけない
場所があります。とくに大ソテツの所では、写真を撮る向きによっては祖先の墓
が写りますので十分注意してください。規則を守らない人は、森の精霊が引き留
めて森から出られなくなりますので十分に注意してください。
昨日の注意書から貴子は黒いTシャツと足首まである長いズボンにしていたの
ですが、長老が黒い布を準備していて、腰に黒い布を巻いてもらいました。
森に挨拶をして門をくぐります。暗い森の決められた道を歩くと長老やキマル
さん、ムワフージョさんが歴史のこと、植物や動物の名前や利用のこと、足下の
土壌のことなどを説明をしてくれます。やがてもうひとつ門が見えてきました。
墓所の入り口です。
道は四本あって、それぞれに名前がついています。クラン(親族集団)ごとに
使う道が違います。精神的な指導者がクランごとにいます。森には四つの入り口
がありますが、まわりに柵があるわけではないんです。
百八十三種の木がこれまでに同定されていて、ここでしか見つからない種類も
あります。長老たちの中には、伝統的な生薬にしい人もいて、今もそれを活用し
ています。ほ乳類は猿の仲間のコロブスとヒヒ、猪、かもしかの類のスニ、ディ
クディクなどです。蝶々は五十種類ほどです。
二つ目の門をくぐると、あたりは低木がやや少なく広場のようにみえます。少
し進むと大きなソテツ(日本のものとは別属です)とインド原産のマメ科の有用
木タマリンドの大木がありました。祖先が持ってきたものだといいます。写真を
撮っていると、「そこはいいけどあそこは墓所だから写真はだめだよ」と教えら
れました。六百年前にここに村を拓いてタマリンドを植えたのでしょう。太い木
性ツルが下がっててブランコのように遊べます。ふたたび墓所の門を後にして、
来た時とは別の道を歩き、小川の横を通ってもとの門に戻って来ました。
森のツアーの後で
門を出ると女性たちが色とりどりの布を腰に巻いて踊りながら出迎えてくれま
した。なんだかうれしくて私たちも踊りの輪に入りました。ココナツの果実の水
(ココナッツ・ジュース)をいただいて喉をうるおしました。
門の脇にある茅葺きの小屋では、「私たちが作った物です。買って下さい」と
いわれました。篭、容器、調理道具、食器、家具など。また住民の作ったもので
はないけれど腰布も売っています。売れれば地元の女性たちの収入になるわけで
す。貴子はココナツや酒を絞る容器と腰布を買いました。ここは完成すれば資料
館と売店になる予定だそうです。
そのあと、長老ムニェンゼ翁の家に招待されました。家の人々は着飾って歌や
踊りとともに迎えてくれ、食事をいただきました。生薬医である彼は、政府の証
明証を持っています。治療の範囲を書いたものが貼りだしてあります。見れば守
備範囲は広く、頭痛や下痢、歯痛といった単純なものだけでなく、心の薬から恋
の妙薬、商売繁盛の薬や呪いを解く薬までが書かれています。部屋にはさまざま
な生薬の原料が置いてあります。広い庭には大きなバオバブの木があり、生薬の
原料になる木の種がまかれ、苗が育てられていました。
カヤ・キノンドのツアー成立まで
その夜、キマルさんと食事をしながら話をしました。以下はキマルさんの話で
す。
僕はナイロビの大学で生態学を学び、地元に帰ってきて、ディアニにある国立
博物館の分館に勤めています。ここにはWWF(野生生物保護基金)の事務所も
あり、今はWWFの仕事もしています。
ここは森が発達し農業も漁業もできる豊かな地域なのですが、インド洋という
観光資源に目をつけた外からの資本が入り、どんどんリゾート化されています。
もともとここに住んでいた人々の森が侵食されているのです。これではいけな
い、森をまもるためにこれまでの観光とは違う新しい形の観光を作ってみたいと
思ったんです。
長老たちの働きかけによって一九九二年にキノンドの森は国の文化財としての
指定を受けました。でもそれだけでは不十分でした。指定されてもお金は何も入
ってきませんでした。住民は、食べるものもないのに自然保護なんてできませ
ん。まず木を切って炭を焼いて売ろうと思うのが当たり前です。畑を荒らす獣を
殺すなともいえません。こうして森は小さくなってきました。
また、伝統的な森への信仰に若者たちはあまり関心をもちません。若者たち
は、イスラムに入ったり、キリスト教になったり、ビーチで働いて、古いものな
んか見向きもしないかもしれない。あと二十年もして長老たちがこの世を去って
しまったら、いったいどうなることか、と僕は考えたんです。
森と共存できる持続性のあるプロジェクトを始めて、若者たちの働く場を確保
し、そこから上がる収入で、飲み水や学校や病院をと考えたんです。そうなれ
ば、森は大事なものだなあ、木を切ってはいけない、と住民が思うようになるは
ずです。エコツーリズムの根本は、人々を教えることです。生徒たちも親たちも
観光業者たちも森の大切さを理解するようにならなければいけません。他にも聖
なる森はいっぱいあります。ひと所だけにお客が殺到しては森が壊れます。だか
らまず、ここではパイロットプロジェクトとして試験的に始めました。
エコツーリズムプロジェクトは、二〇〇一年六月から始めたところです。はじ
めの一年は、「カヤ・キノンドの保全と発展グループ」というものをスタートさ
せました。今年は、森の入り口に小さな家を建てています。ここでは、マスツー
リズムのように大きな金をもうけるというのでなく、例えば女性の作る手工業品
を売ったり、養蜂を導入したり、いろいろなアイデアを組み合わせていきたいと
思います。そうやって地元の収入をあげていくという計画です。
ビーチと野獣だけの観光なんて寂しい
はじめは大変です。ここに来る観光客は外国人が多く、ビーチが目当てなんで
す。そこで体を焼いたりしてね。でも、ビーチと野生動物だけのケニア観光なん
て寂しいでしょう。土地ごとの習慣や歴史が学べることも魅力になるはずです。
女性が中心となって手工芸センターを立ち上げました。手工芸品も、近所の人
の鶏と物々交換している程度の品質じゃ観光客には喜ばれませんから、その技術
向上もはからないといけません。
ガイドの養成も大事です。植物のこと動物のことがよくわかり、しかも習慣や
歴史にも詳しくて、質問にきちんと答えられる、というような力をもったガイド
でないとつとまりません。しかも、お客は英語だけとは限らない。できたら、ド
イツ語とかフランス語も使えたらと、夢はいろいろあるんです。
あと一年で、外部からの援助なしに独立してやっていけるようになればいいと
思います。
カヤは長老たちのものではなく、住民みんなのものです。でも長老たちは、そ
の管理責任を負っているんです。われわれは、長老たちと全住民に呼びかけて、
みんなで話し合いを重ねました。
まず、森の中にベンチを作っていいかということから始めて、いろいろ討議し
ていきました。われわれは祖先の伝統から今日の社会への移行過程の中にある
し、伝統というのはダイナミックに変化してきたものだから、一本の木のように
動かないものだと思う必要はないんです。
長老たちは、エコツアーを受け入れるにあたって、多分いけにえをささげて精
霊たちの意思を問うたと思いますが、そのことは秘密らしくて教えてもらえませ
んでした。ただ、聖なる森に観光客を入れるということは、新しいことなのだか
ら、これについては、しかるべき祀りをしなければならないということになりま
した。そのために、黒い牛と黒いヤギと黒い鶏をいけにえにして、さまざまな儀
礼をとりおこなったんです。
ケニアからインターネットの便り
ケニアから帰って三ヶ月、日本にいるわたしたちにキマルさんからインターネ
ットで便りが届きました。題して「カヤの森の精霊の力」。
先日、ヨーロッパの昆虫学者がカヤ・キノンドの森を調べたいとやってきまし
た。夜、電灯をつけて光に集まる虫を採集したいと言います。長老たちに許可を
求めると「夜、発電機の大きな音をたてれば、眠っておられるご先祖の霊が目を
さますではないか。夜の森に入ってはならない」という返事です。しかし彼は
「私は政府の調査許可を持っている。かまわん、入る」といって、自分で警官を
連れてきて発電機を持って、夜のカヤ・キノンドに入りました。さあ森で発電機
を起こそうとするのですが、何度やっても起動しません。そうこうするうちに学
者は気分が悪くなって気を失ってしまいました。警官たちが、学者と発電機を森
の外に運び出すと……。発電機は起動し、学者は目を覚まして、荷物をたたむと
次の飛行機で逃げ帰り、その後何の便りも聞こえません。これは、昔々でなく、
つい先日あったことなのです。
私たちは伝統的な考え方や行ないを、古くさい迷信といって片付けがちです
が、たとえ自分が信じられなくても、その土地の人々の考え方や生活習慣を尊重
するということは、よその土地を訪れた時の、人としての基本ではないでしょう
か。
近代科学文明を越えるものとして
カヤ・キノンドのエコツアーは伝統的なもの、つまり先祖の眠る森を聖なるも
のとして前面にだし、伝統的な文化を尊ぶというツアーです。それは今世界に満
ちている科学文明の考え方を振り返り、それを越える可能性をもつものだと私た
ちは思います。近代科学の合理性をふりかざしどこまでもグローバル化を進めて
いく考え方が、自然を破壊し人々の生活や文化を破壊してきたと思うからです。
「言葉では『エコツアー』といっていても、お金儲け優先になれば、それは
『エゴツアー』。結局は自然と文化をこわすものだ。」これは、二〇〇四年の八
月に「屋久島フィールドワーク講座・人と自然班」で学生たちの出したひとつの
結論でした。たとえば、本誌の編集・発行人である日吉眞夫さんが二〇〇三年の
環境自治体会議で提案されたように、屋久島のエコツアーも「年に三日でいいの
で、山ン神祭りの日には、奥山に入らない、ということを徹底する。そのかわ
り、里には楽しい祭りがあって、みんなで里の文化を満喫する」そういうやり方
があってもいいのではないでしょうか。
「山ン神祭の日にはやはりお祭りをしないと何か不安な気がする。」屋久島で
生まれ育った方々にこの夏聞きました。「屋久島に来たら屋久島の伝統や文化を
尊重する。それが外からやってきた人々の人としての基本じゃないんですか?」
キマルさんたちが屋久島に来こられたらきっとそう言ってお祭りに参加されるこ
とでしょう。