西表島)島をまもって半世紀――神司・田盛雪さんのお話
2005/06/03
季刊生命の島 68号 2004.9.25発行 定価980円 http://www8.ocn.ne.jp/~seimei39/68.htm
に掲載されました。
島をまもって半世紀――西表島の神司・田盛雪さんのお話
(抜粋。全文は添付のpdfファイルをごらんください。)
安渓貴子・安渓遊地
神司という仕事
沖縄の伝統ある集落には必ず御嶽(ウタキ)という宮がいくつもあります。そこで
祭祀を司るのがノロといわれる女性であることはよく知られています。御嶽を西表島
の方言では、ウガンとかウガンジュ(強いて漢字をあてれば御願所か)と呼び、ノロ
は、チカと呼ばれます。チカは、チカサとも言いますが、神司と書くこともあります。
今回は、西表島のチカであられた田盛雪(たもり・ゆき)さんにうかがったお話で
す。田盛さんは、西表島西部の祖納(そない)村の数ある御嶽のひとつのクシムリウ
ガンというお宮の神司を五十三年間も勤められた方です。この仕事の収入は氏子一人
あたり一年に五勺(一合の半分)のお米と定められていて、いまの言葉でいえばボラ
ンティアとしか言いようのないものです。チカは女性に限られ、しかも特定の家系か
ら選ばれます。チカの兄弟から男性の補佐役が選ばれ、チヂビと呼ばれます。村の年
中行事をはじめ、神行事としての島の祭の中枢部分を担うのが、このチカとチヂビと
いう姉妹(方言でブナリ)と兄弟(ビヒリ)なのです。このように女性は、集落の守
護神の役割を果たすだけではなく、家庭でもブナリカン(姉妹神)として兄弟の守護
神としての霊的な役割をもつのです。
長年にわたって神司の大役をつとめられた田盛雪さんは、二〇〇二年の末に神司を
「卒業」して、普通の人に戻られました。そのあとの二〇〇四年の二月に約十時間に
わたって親しくお話をうかがう機会に恵まれました。田盛さんとは、これまでも島で
の行事の折々に声をかけていただくことはありましたが、神事にたずさわっておられ
る時には、自由に話すという機会は少なく、話題の選択にもおのずからなる慎みがと
もないました。今回は、神司に選ばれた女性の苦悩や喜びなどの心情を含めてお話を
していただくことができたのでした。この訪問を受け入れてくださった、田盛雪さん
と娘さんご夫妻、そして何より西表島のカン(神様たち)に心から感謝いたします。
二十歳のとき、御嶽に入って、祖納村のアマチカ(天候を祈願する神司)になりまし
た。
神司の引き継ぎの儀式をツギユリといいますが、私がアマチカをついだ当時は盛大
でしたよ。牛一頭と豚一頭つぶしてご馳走をつくるぐらいのたいへんな儀式だったん
です。
神司のやくわり
チカに就任したら、まず御嶽の拝殿の中に神司のピヌカン(火の神)をビヒリ(兄
弟)が作ってくれます。ピヌカンは、丸い石を三つ座らせて、そこでお湯をわかす炉
でもあります。海からもってきたやわらかい石を四角く削って中をくりぬいて香炉も
つくってもらいます。
ピヌカンは、冬至に天に昇って下界であったことを報告して、また戻ってくるとい
いますよ。御嶽のピヌカンはもちろんですけれど、普通の民家でも、かまどの前で口
論するなといいますよ。もしもピヌカンが天に昇って悪い報告をされると困るでしょ
う。
私はクシムリ御嶽のチカですが、もうひとり、ムトゥ(本)チカがおられて、こち
らは、祖納の宮良チエ子さんが、私といっしょに交代されるときまで五十年間勤めら
れました。アマチカの仕事の分担はアマニガイです。アマニガイというのは、天候に
ついての祈願の全部といっていいでしょう。
昔、祖納には神司が十人もいました。ウブ御嶽二人、パナリ御嶽一人、ケダシケ御
嶽一人、オオタケ御嶽二人、マエドマリ御嶽一人、ナリヤ御嶽一人、そしてクシムリ
御嶽二人です。交差点でおおぜいのチカが出会うことがありました。
祖納に住んでいれば、毎月旧暦の一日と十五日にお茶湯(ウチャドー)のために御
嶽に行きます。お茶湯というのは、お茶をあげて、線香を立てることです。神様といっ
しょにお茶を飲んで、タバコ吸う人は吸って、十二時前には帰ってきます。
その他にも、季節季節に、神行事があります。
神行事で、神司が着る白い着物をチョーキヌといいます。私のものは、ブー(苧麻)
を母が績(う)んでくれたものを、自分で織りました。ミンサーの帯も織ったことが
ありますよ。神司の衣装はナナカサビといって七枚重ねが決まりです。
いつも着物を合計で七枚もつけているんですから夏は暑いですよ、暑いけどどんな
に日が照っても、どんなに雨が降っても神司は照らされ通し、降られどおしで、傘を
さしてはいけないんです。だから着物は夏用も冬用もたくさん持っていました。行事
で石垣島から西表島に渡るたびに、それが大きな荷物になってねぇ。
チヂビは、紋付き袴で御嶽に詣でたものですが、今は背広で済ます、そういう時代
になりました。経済的に無理させないでおきたいとい気持ちもありますし……。
御嶽の奥のイビという所には、男は入ることが許されません。だから、チヂビは御
嶽の掃除をするんですけれど、イビとの境界のシクザの所までです。こんど新しく交
代したチヂビには、そこまでがあなたのシュクブン(職分)と教えてあります。御嶽
のシクザの奥の掃除は人にさせません。それは神司のシュクブンだから。
クシムリ御嶽のイビには、クバ(ビロウの木)が倒れてきていて、イビの香炉の前
に行くのに、かがんでクバをくぐらないと行けないのです。それがさらに落ちてきて
またいで乗り越えてきました。けれど、年をとって足が痛いのに乗り越えるのがたい
へんになったので、あれを切って鳥居にしてもらいたいと言ったことがあります。
昔のしきたり
昔はね、インドゥミ、ヤマドゥミ(海止め、山止め)というのがあったそうです。
旧暦の四月ごろでしょうか、海にも山にも行かないし、山の中の田小屋(シコヤ)に
も泊まらないのです。この禁をやぶって泊まった人が、ガヤ(チガヤ)でつくった壁
から槍が出るなどという恐ろしいことがあったそうです。海に行ってもだめです。ま
た、この季節は海の貝を食べません。スナヌヤナムヌ(海の変なもの)といいますが、
食べたら毒になるものが入っているからです。
神司の祈願の力
西表島の干立村出身の男の人が病弱で喘息が治らないで困ったことがありました。
病院に見せても治らない。あっちこっちのユタ(職業的霊能者)に聞いてもわからな
い。どうしても私が西表島の神様に祈らないと治らないと、奥さんが言いにこられた
んです。
しばらくして案内があったので西表に渡ってみたら、大きなお膳に重箱をいっぱい
並べたバキトゥリブンというものを準備していらっしゃったんです。その準備に手間
がかかったんですねぇ。頼んだ人たちは、これを頭に載せて、クシムリ御嶽まで石畳
の道を上がって行くんです。
実はね、この病気の人のお母さんが、昔はこのクシムリ御嶽のアマチカだったとい
うんですよ。どこにお参りに行っても治らないけれど、クシムリ御嶽のアマチカの戌
年の人に――名前は言わないのよ――拝ませたら治る、と言われたといって来ました。
私は戌年なので、これは、私がしないといけないというようになりました。私も驚い
てね。同じクシムリ御嶽の神司の宮良チエ子さんもいっしょに座ってくれましたが、
「雪ちゃんねえさん、あんたが元だよ。あんたが責任もってやらんといけないよ」と
言われます。先輩の神司のおばあさんにも注意されました。「人を助けるようなこう
いう祈願は、心をこめて一生懸命しないといけないよ。一番難しい祈願だから。」
私は、もうびっくりして、心配で頭の中はもうこんなに沸き立っています。頼みに
来た人たちは、きっと治してもらえると信じて来ているんですから。もう、震えなが
ら涙が出るほど一生懸命にお祈りしました。
翌日、石垣島に帰って、その病人のお見舞いに行きました。そうしたらね、門から
入ったら、今日明日の命と言われていたそのおじさんが一人で、起きて元気にしてい
るんですよ。「あんたなんかがニガイしてくれたちょうどその時間に、僕は咳が止まっ
てよ、助かってこんなに元気になってしまったさぁ。だから、ずっと看病していた嫁
さんには今日からもう仕事に行っていいよ、といって行かしました」とおっしゃるん
です。
――すごいですねえ!
すごいねえ、先生。私も驚いてるよ(笑い)。それ以来元気になられてね。そのあ
と運動会があって受付の所に着いたら、遠くのテントから「雪ちゃーん!雪ちゃーん!
」と大声で呼ぶ人がいるんです。行ってみたら、その時に頼みにきた夫婦でした。「
あれ以来うちのおじさんは元気よ!咳もしないし、あんなことがあるもんだねえ」と
言うんです。私もうれしくてねえ。「ありがとうね」といいました。それっきり元気
になられました。
こんな経験をしたことは初めてでした。
家を建てる時の祈願
家を新築したら、山の入り口にニガイをしに行きます。子どもの時に見たことです。
海からとったユリミナ(和名マガキガイ)の殻をきれいに並べ、釘も並べます。お
米を白紙に七粒入れて十個。これを山の入り口に持っていきます。
ユリミナは牛の代わりです。釘(鉄)は鏡の代わり。米粒は米俵の代わり。こうし
て準備してささげます。家を建てる材料をいただいた山にお礼をするわけです。昼の
うちに山の入り口に年かさの女の人が二、三人で行ってニガイして、夜は新築の家で
アーパーレーという祝いの歌をうたい、ヤータカビ(家崇び)の儀式もします。
ユリミナはだしが出ておいしい貝です。島に行くと殻が捨てられているので、ニガ
イに使うといいね、と思って洗ってとっておきました。でも私の時代にユリミナを使
うことはもうなかったのです。
ほかに神様に関係する貝というと、浦内村のトゥドゥマリの浜の貝(和名トドマリ
ハマグリ)があります。これに病院の膏薬や紅を入れたりしていたんです。この貝は
きれいな貝で大事にされたんですが、みんなが採りすぎたのか、やがてこの浜は神様
の浜だから採ってはいけない、といって採らさないようになりました。
最近、クシムリ御嶽の拝殿をりっぱに改築したんです。その時に、若い人たちが普
通の家や公民館みたいに、落成を祝うヤータカビをしたいといい出しました。
でも、ヤータカビのもともとの意味は、ソーチ(精進)して清めることなので、御
嶽ではたとえ改築してもそういうことはしないでいいし、したこともないのです。御
嶽はもともときれいなところで、清められているんですから。
――なるほど。与那国島では、新築の儀式をミーダイと言っていますが、家を建て
るために石や木や竹などの大自然の材料を使わせていただいたお礼を宇宙の神々にす
るという意味だそうで、その儀式のあとはじめて家は神々の世界から人間界に渡され
るという説明でした。それから考えると、御嶽の拝殿はずっと神様たちの世界そのも
のですから、ヤータカビも必要ないわけですね。
神司の交代の儀式
ツギユリという儀式をして神司の交代をします。ツギユリをするのは午(ウマ)か
酉(トリ)か寅(トラ)の神年を選びます。私が御嶽に入ったのは寅の年でした。今
回のツギユリは午の年でしたね。今しなかったら今度は酉の年まで待たんといかんで
しょう。それまで健康が保てるかどうかわからなかったので、思い切って午の年に卒
業しました。
昔は司会者がいて取りしきったものでしたが、今は式次第をわかる人がいないので
交代する私自身が進行役をつとめました。もう、神司の交代の儀式のことをわかる人
が私ぐらいしかいなくなってしまいました。二〇〇二年の冬至の儀式が終わってすぐ
引継ぎをしました。御嶽に行って、神様の許可をいただいて交代しました。
みんな何をしていいかわからなくてさわいでいました。だれか、始めから終わりま
でずっと参加して、この行事のやり方をいっしょにやって覚えてほしかったです。ちょ
うどその日は、村の家の地鎮祭なんかと重なってしまって、出入りが多かったんです。
その時の様子を先生方に見せたかったさぁ、私。後継ぎのビヒリ・ブナリ(兄弟姉
妹)を並んで座らせて、その後ろにチエ子さんと私がすわって、ビヒリ・ブナリの三
三九度の杯を交わします。まるで結婚式のようでもあります。こうして、ビヒリがチ
ヂビに、ブナリがチカに就任するわけです。実はわたしの後継ぎにあたる人はまだ名
乗り出ていません。とっても残念なことです。
島の人たちへのことば
安渓先生ご夫妻に託してあいさつを送ってくださった、西表島のみなさんに、お礼
の言葉を申し上げます。
島のみなさんには、失礼していますけれど、島にいる時のことを思い出して、それ
が楽しみです。いつまでも、私のことを覚えていてくださってありがとうございます。
私もね、みなさまがたのことは忘れませんから。また、島にいて御嶽にいたときの勤
めのことも、たいへんうれしく思っています。私は幸福ものだねえ、って感じていま
す。今は普通の人間になってしまったのだから、これからは自分の自由な時間をもら
いたいと思って、残り少ない人生を歩んでいこうと、この恩納村にきています。ここ
は、あなたがたが考えているような不便なヤンバルではないよ。海のはたでもない、
山の中でもない、とってもいいところ。周囲もみんな学校の先生あがりでね、面白く
話したりして暮らしていますから、どうぞ安心して、遊びに来て下さい。楽しいこと
もガバラッサル(くやしい)こともあるでしょうけれど、どうかみなさんがんばって
くださいねえ。
別れがたい思いで
これまで健康で生きてこられたのも、神様が守ってくださったんだと思います。い
まは八十年の人生のうちには、あんな楽しいこともあったねえ、つらいこともあった
ねえ、と思い出しながら、暮らしています。そして今日のように先生がたが訪ねてく
ださって、とてもうれしいわけ。先生がたには、屋久島の雑誌を贈ってもらって、「
私のこと忘れていらっしゃらないねえ」と思って、うれしくて電話したけれど、何度
かけてもいらっしゃらないでしょう。ですから、今度こちらにいらっしゃると聞いて
から、もう私はうれしくてうれしくて……。
私は、ずっと石垣島で過ごしていて、行事の時だけ西表島に帰るという生活をして
いたでしょう。行事の時には神司は忙しいし、また世間話なんかもできないです。だ
から、島の人たちともそんなに話したことがなかったんです。今日は、たくさんいろ
んなお話ができて、本当に楽しかったです。朝いらしたのに、いつの間にかもう夜に
なってしまった。もうお帰りになるんだねぇ。ああ、行かせたくない、行かせたくな
い!
おわりに
まさに後ろ髪を引かれる思いでお別れしてきましたが、他の方には聞くことができ
ないようなたくさんの教えをいただいたことをありがたく思っています。御嶽の行事
のことについては、あまりにも多くの人が興味をもって調べておられるため、私ども
は積極的に聞き取りをすることを避けてきました。親しくお話をうかがうことができ
て、本当によい勉強になりました。
西表島とはずいぶん離れていますけれど、山口県でも川の淀に沈んでいる柱材を削っ
て雨乞いに使うという行事が八百年以上昔に東大寺を再建のために活躍した重源上人
ゆかりの伝承として徳地町に残されています(赤木森「東大寺を建てた徳地の木」安
渓遊地編『やまぐちは日本一』弦書房)。
田盛雪さんのすばらしい畑に負けないように、わが家でもと思っています。いつま
でもお元気でお過ごし下さい。
(あんけい・たかこ、大学パート教員、
あんけい・ゆうじ、大学教員)
