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わが友)平井隆さんの最終講義「英文学と私」
2010/01/25
古いハードディスクを整理していたら、古文書が発見されました。
平井隆先生最終講義 山口県立大学国際文化学部主催
2002年2月13日12時50分~14時20分 D14教室
タイトル「英文学と私」
誰のおかげで飯を食っているのか?――日本の英文学研究への根本的な疑問
ほんとうは、この最終講義は、やりたくなかったんです(笑い)。会議中に紙切れが回ってきまして、最終講義のタイトルを知らせよ、というので、深い考えもなく、ついやることになってしまいました。苦しまぎれにつけたタイトルは、「英文学と私」です。この「と」に意味をもたせたいと思います。「英文学」は本当に「私」と結びついているのか?という疑問です。それを問いかける立場で文句をいってきたものですから。
実は、19世紀になってようやく英文学が世界的になります。シェイクスピアなんて、当時は、イギリス人しかしらないものでした。
英文学に対して根本的な疑問はいろいろあります。
なぜ、日本人である私が、英文学をやるのか?
さらに、文学研究が研究としてなりたつのか?
英国でもビクトリア朝になってようやく文学研究というものができます。貴族にかわって勃興してきたジェントルマンの階層に教養を持たせる。これを「古典化」といいますが、この場合は、ギリシャ語古典を学ぶという意味です。マシュー・アーノルドが初代のオックスフォードの英文学の教授になるのですが、そういうように新しいものなんです。
それでは、なぜ「私が」やるのか?ひとことでいえば、学ぶ喜びだろうとおもうんです。これは漱石も悩んだところです。なぜ、自分が英国に派遣されるのか?よせばいいのに、わざわざ文部省まで聞きました。「英語を学ぶのか、英文学を学ぶのか」と。そしえて、英文学を研究し、日本人として最初の英文学研究者になりました。
柄谷行人(からたに・ぎょうじん)という人の話をします。ミッシェル・フーコーとならんで、私の授業にいつもでてくる人。英文学会で漱石のシンポジウムがありました。小森陽次という国文学者が司会。そこで柄谷さんは、アジるんです。
「あんたら誰のおかげで飯を食っているのか?学生たちは、世界言語としての英語を学びにきたんだよ。くやしかったら、英語で論文を書いて、世界の中で競争しなさいよ。」といいました。
さきほど相原学部長から丁寧に紹介していただいた私の本も、日本語で書いてあります。
外山滋比古(とやま・しげひこ)という人、よくセンター試験に出題されるんですが、これが、息子さんには解けたが本人にもわからなかったことがあるそうです。彼がいうには、われわれは英語を意識して読まなければならない、ネイティブの人たちは、無意識にわかるので、靴の上から足をかくようなところがあります。まあ、開きなおりですけれど。ほんとの楽屋裏の話をすれば、37年間もそんなことを続けてきたんです。
でも、ネイティブの人たちにはわからない細かいニュアンスまでも意識的にわかることができる、という点が魅力の第二と思っています。
「裏切り」の研究――ラテン語の英語訳をめぐって
最近20年ぐらいは、ラテン語の翻訳をめぐってやってきました。古典化は、ヘレニズム、古代ギリシャが原点です。ラテン語は、古代ギリシャを翻訳したものです。それがさらに翻訳されて英語やイタリア語、フランス語になります。やや我田引水ですが。
ラテン語にはふたつの種類があって、私が授業でやったりするのは、読むためのラテン語。古典ラテン語。ふつうの人がはなしていたのは、ウルガータ。これは、英語では、vulgar、俗なということばにあたりますが。旧約聖書はヘブライ語からウルガータに翻訳されました。新約は、パウロがギリシャ語のネイティブだったので、パレスチナの一寒村のナザレに生まれたイエスの言葉とはたらきが、はじめからギリシャ語でかかれました。
ラテン語を使っていたのは、ゲルマン世界。当時の現地の支配者は、自分では十分つかえませんから、ラテン語が書ける人をやとっていました。話ことばとしては、7世紀頃で終わり、その後は文章語として19世紀まで学ばれ続けます。近代において教養があるとは、ラテン語を知っているということだったんです。
ラテン語文学がどっと英語に翻訳された時代があります。それを調べてグラフにしたこともありましが、わりと退屈な仕事でね。生来怠け者なので、続けませんでした、
フィッツジェラルドのものを村上春樹が訳すと、やっぱりこれは村上春樹のものになっています。そのように、訳す段階で、いろいろな細工がほどこされ、もともとのものとは言えないようになっていることが多いんです。イタリア語では、翻訳の元の言葉は「うらぎる」という意味なんだそうです。これは、レヴィストロースがいっていることなんですけれどね。
その裏切り方に近代のある特徴があらわれているのではありませんか。
ドライデンという翻訳学者がいうことですが、ウェルギリウスをバージルと書く、名前まで違うんですから、19世紀にその人が生まれたら、英語を使ったこのようにも書いただろうということを書いてもいいんでないか、それが翻訳だということをいいましたね。
直訳から自由訳まで翻訳にもいろいろな幅がありますしね。
国民国家の形成と「国語」の誕生
ベネディクト・アンダーソンという人がネーションステートということをいいましましたが、あなたがたがたとえば福島県の若い人と出会って、話ができるというように共通の幻想をもっています。それは、新聞やテレビを通してできた共同幻想なんですね。歴史的には、これをささえてきたのが、グーテンベルクの印刷術。それまでは、羊皮紙に書いてきました。そえまでは、方言がつよくて通じあわないのです。
ダンテの神曲、トスカナ方言。
ルターの新約聖書がどって出回った。
明治政府ができてまず取り組んだことは、耳で聞いてわかりあえる共通の国語をつくり、それでひとつの国家を作ろう、というとりくみがされました。文部大臣は長州藩出身者。ですから、標準語は、長州方言に近いのだともいいますね。
ロンドンの下町の人たちの言葉は、hの音がなかったり、とても変わっています。階級が違えば、ことばが違っていても気にしないのです。
近代は、ひとつの言語をつくっていきます。その中で、ラテン語も英語化していきます。お金は、ポンドからドルの方へシフトしながら統一されていくんですけれど。これでそろそろ終わりに……あ、まだ時間があるんですか(笑い)。
詩のよろこび
えーと、それでは、詩のよろこびの話をします。エリザベス時代から叙情詩を集めたのを英米文学史で読んできたんですが、最後の授業をきいていた人がほとんどいないので(笑い)、ここで紹介します。
W. B. Yeats (1879-1939)というアイルランドの詩人にLong-legged fly アメンボウの歌というのがあります。30行の詩。それが、3つのスタンザ、連からなっています。
Caesarシーザーがテントの中で次の戦闘の作戦を練っているので、静かにしなさいよ。
She (トロイヤ大戦争のもとになったHelena)がダンスをならうのに懸命になっているのでお静かに。
Michaelangeroミケランジェロは、システィナの大聖堂の天井画を大変な苦労をして一人で描いている、だから静かにしておくれ。
その各連の終わりに、次のような言葉がきます。
Like a long-legged fly upon the streamHis (Her) mind moves upon silence.
これからは、私の遊びというか、この詩を楽しむ方法の紹介です。足というのは、大地の象徴、羽は天でしょう。その間に静寂があります。それを通して天にいけるというかんがえがあったのではと思うんですね。
旧約聖書のGenesis創世記の始めの And the Spirit of God moved upon the face
of the waters. というものをもじっていることはまちがいないと思うんですね。不滅の名声を得たことをそう言っているのだと思われます。
古い時代の文学も私たち読者のもの
私が学生になったころ、アメリカからはやってきたニュークリティシズムがでてきて、やがてバルトという偉いフランスの学者が、「作者という制度は死んだ」といいました。作品は読者のものであります。同じシェイクスピアのテキストでも、それは、かかれた当時の時代や文脈を越えて今日の読者のものであるということですね。
そういうことで、今日はお許しをいただきたいと思います。(拍手)
質問とコメント
原文を読んでいないのですが、最後の詩のthe Streamというのは、なぜa でなくtheになっているのでしょう?
――それほど深く考えずに!(書取者のコメント、浮沈きわまりなきつれづれなる世の波=ザ・ストリーム=に流されることなく、もの静かにあるのが真善美の力の頂点をきわめたほどの人物なのさ、かな?)
川口 さきほど指摘された点ですが、私のやっている中国文学でも、現代中国の研究者が古典に注釈をつけると、私なんかがほしいところには注釈がないのに、わかっているところにばかり注がついています。
平井 これは、国文の先生に答えていただいた方がいいでしょう。
熊本 文学表現には、意味機能と情緒機能のふたつがあるということですね。
川口 意味機能の面でもほしいところに注釈がないということを申し上げているんです。
安渓 英語や英米文学を勉強したいという若い人たちへのはなむけのことばは?
――ありません!やめた方がいいです(笑い)。英語の教師も今は余っているからねえ。文学固有の分析の道具というのはないんです。ネオ・コロニアリズム批判とかフェミニズムとかの最先端の理論をその理論が流行る前にさきどりして論じる才覚のある人以外はやめた方がいいです。(一同ボウゼン)
司会 ありがとうございました。
(勝手にかきとめた人、あんけい・ゆうじ)


