講演会)中村哲さん「医者が井戸を掘る理由」を聞きました
2007/11/20
ペシャワール会の中村哲さんのお話し 2007年11月20日@県立大学
講堂
「医者が井戸を掘る理由」
を聞きました。650人はいる講堂が満席以上でしたので、地域の方々もたくさん来
てくださったのでしょう。
その場で、わたしが勝手にメモしたもので、正式なものではありませんが、たいへ
ん感動しましたので、ここに載せておきます。
◎はじまり
・司会:前田教授
・三島副学長のあいさつ
・赤羽地域共生センター長による講師紹介 2003年にマグサイサイ賞受賞
今朝8時に福岡空港に着かれました。1週間の日本滞在のトップに山口県立大学へ
来ていただいた。
◎まず、ビデオ上映。そのあらまし
1.アフガニスタン、命の水を求めて
1回目、アフガニスタンという国で。ふたたび戦闘が激化。降水量が減り、農業が
できない。600人の作業員をひきいて、大規模な用水路を建設中。
アフガニスタン戦争1979~1989年。600万人の難民。アフガニスタンに
入り、診療所をつくる。戦乱のなかでの診療。
22年前、海外医療協力ということで、ここに来た。はじめはハンセン病の治療。そ
れに取り組んでいく上で、医療以前の問題が大きいことに気づいた。2000年の干
ばつでどんどん子どもたちが死んでいく。きれいな水と食糧が確保されれば、病気の
9割は防げる。100の診療所を建てるよりは、水路を築いた方がいい。何を必要と
するかは、現地の人自身によく聞いた方がいい。
わずかな水の取り合いもおこる。中村さんの病院でも、水不足と食糧不足から病気
が急増。赤ん坊の体を洗う水もない。赤痢もまん延。
病気をくいとめ、人々が安心して暮らせるようにするには、井戸を掘るしかない。
2000年7月。600人の住人があつまり、現地で調達できるもので手作業。伝統
的な方法で掘れば補修もできるだろう。しかし、巨大な石に阻まれて仕事がなかなか
進まない。1か月半掘って、水がわきました。
清潔な水を得られたことで病気が減り、人々が村を離れずにすみました。
このあと、一年に600本の井戸を掘り、20万人の水を確保しました。
すべての命が貴い。目の前に人が倒れていたら、どうしたんですかと助け起こすじゃ
ないですか。
2001年10月7日、アフガニスタンへのアメリカの空爆開始。ペシャワールに
撤退いて固唾をのんで見守る。
100万人以上が飢餓にあえいでいる。中村さんは緊急の食糧援助を送ることを計
画。空爆を避けて、深夜食糧を満載したトラックが向かう。志願したアフガニスタン
人スタッフ20人に託した。カブールと東部の農村に、一家族あたり200キロ、3
か月分の小麦と油が手渡された。
11月、カルザイ政権成立とともに、難民の帰還がはじまった。しかし、帰ってみた
ら、干ばつのため、田畑の荒廃はさらに進んでいた。
2002年1月4か月ぶりにアフガニスタンを訪問。難民たちが戻ってみても、仕事も
水もなく、町へ出て行くしかない現実。いい政権が始まって、国連の難民帰還プログ
ラムで200万人の100万人が戻ったといわれる。干ばつのため、難民となる人々
は、国連の発表で200万人。NGOの調査で300万人。
クナール川の水を干上がった大地に引ければ、3000ヘクタールの農地ができる。
建設費は10億円。2003年3月。600人を越える現地の人たちが作業開始に参
加。
頭上をテロ制圧のためのヘリが飛ぶ中で、10キロを超えて用水路ができ、田畑の
耕作が始まった。
平和とはなにか、人が平和に暮らしていくというのは、どういうことか、それがこ
の国では浮き彫りにしてよくわかる。戦争や病気で死ぬ人々も多いけれど、いのちの
輝きもまたくっきりと浮き彫りになってくる。
フジテレビ・この人この世界(23分の番組)
◎アフガニスタンの現状
いま、アフガニスタンとパキスタンで何がおきているか、ほとんど日本では知られ
ていないけれど、私の経験した中では最悪の状況。
日本では、テロ特別措置法などの議論がおこなわれていますが、私は、そうした政
治の話しは大嫌い。現場の状況をあまりにも知らない。
議論やお説教ではなく、これまでの具体的な取り組みをご紹介します。
今年は、8月下旬に真冬の水位になるぐらい、水がない。干ばつはどんどんひどく
なっている。
水路事業、雇用200人、助っ人20人、作業員700人。ペシャワール会がこれ
を支えている。
アフガニスタンという国は、今の日本人にとってわかりにくい。
1.山の国。世界の屋根の西側を作っている。国土は日本の1.6倍だが、ほとん
どが、標高6000,7000mというヒンズークシュ山脈。谷が深いため、各地域
の自治制・割拠性が高い。20を越えるような民族が支配した歴史があり、多様性が
高い。
2000万人から2500万人の9割以上が、農業・牧畜で暮らしてきた。
それは、長い時をかけて作られたこの白い山の雪という貯水槽のおかげで、人々が
暮らしてきた。金がなくても食っていけるけれど、雪がなければ暮らしていけない。
日本とは逆の暮らしです。自分たちが自分で食っていくという、徹底した独立不羈の
精神が強い。
2.100%イスラーム。もっとも保守的なイスラーム。ばらばらな地域社会を束ね
るて、アフガニスタンというひとつの天下にまとめているのが、イスラームんなんで
す。
3.貧富の差がはなはだしい。医療援助をしていると、「むなしい」のひと言。数十
円数百円のお金がなくて死んでいく人たちが多いのに、東京やロンドンまで行って治
療を受ける一握りの人々もいる。
◎外国人が犯しやすい間違い
2400名のハンセン病の人々の支援に行った。あらゆる分野が統合された「らい
病学」があるが、耳が傷つく聴診器、ねじれたピンセットが数本、押すと倒れるころ
つきの台。その後、援助を重ねて、7000人みている。これから2万人までになる
だろう。
医者としての写真も写っていますが、それ以外に対する努力の方が大きい。
現地の人々の心を理解すること。これが課題で、今でも悩む点。
外国人が犯しやすい間違い。単にちがうだけ、自分が知らないだけのものを善悪、
優劣で決めつけてしまう。
例えば、女性が肌を見せないことは、人権侵害だと訴える。それは自由ですが、そ
れなら、連れて行ってください、というんです。残される私たちのことは何も考えて
いない。女性が見ればそれでいいことなんです。地域の文化や慣習を「いい悪い」の
目でみない。好き嫌いはあるでしょうが。
簡単に、相手の文化を分かるなどというが、30年いっしょにくらしている家内の
ことも分からない。努力と時間がかかることです。
10万人のソ連軍がアフガニスタンを侵攻。10年で200万人、国民の10人に
一人が殺された。600万人が難民となり、同じ言葉、同じ文化のパキスタンにも流
れ込んでくる。
◎先進国の人々の思い違い
私たちのものの見方が変わった。ハンセン病コントロールというのは、先進国の考
え方。ハンセン病が多いところは、あらゆる感染症が多い。マラリア・デング熱・伝
染性の肝炎・腸チフスなどなど。
方針転換して、一般の診療活動するスタッフを村々に送り、ハンセン病もひとつの
感染症として扱う。無医地区における医療モデルを構築。
2000数百キロの国境の山を越えて、診療所開設予定地の人々を訪ねた。ペシャ
ワールから最低1週間かかる村々を訪ねた。みなさんがごらんになるアフガニスタン
は、ジャーナリストが行きやすい、首都カーブルは、アフガニスタンではまったく外
国のように遠いところ。そこでどんな政権が変わろうと、自分たちには関係ない。
◎日本人へのイメージの大転換
おまえは、フランス人かと言われた村で、日本人と分かっただけで、仕事がうまく
行ったり、命を助けられたりしたということが頻繁にありました。どんな山奥でも知っ
ている。
1.日露戦争。2.ヒロシマ。3.ナガサキ。
100年前には、日本、タイ、アフガニスタンを例外として、すべてのアジアの国々
が植民地化されたり、属国のようになっていた中で、勝ったとはいえなくても、世界
の誰もが思った、ソ連の属国にはならかった。日本人はどんなに相手が大きくても立
ち向かっていく勇気ある人々という、美しい誤解が広まっている。戦争がなくては生
き延びられない世界において、外国に軍隊をださずに、みごとな復興をなしとげた。
ところが、アフガニスタン空爆以後、日本よおまえもか。石油のためなら兵隊をだ
し、強いものにはぺこぺこする日本人というイメージが定着しつつある。これが、こ
の6年の日本の取り組みの成果である、ということをお伝えしておきたい。
ソ連に侵攻されたとき、世界は、アフガニスタンはソ連の属国になると信じました。
ハンセン病コントロール対策。15年やってきて、先は長いぞと思いまいた。19
98年に社会福祉法人として、病院をたてました。病院の組織が続く限り、アフガニ
スタン、パキスタンで活動できる基盤を得ました。
みんながわれもわれもと行くときは、われわれはやらない。
◎干ばつが襲う
運の悪いことに、ようやくソ連が撤退したあと治安が回復しつつあったところへ干
ばつがやってきた。WHOの報告は、2000年5月に6000万人が被災。アフガニ
スタンの半数の1200万人が被災。500万人が危機。100万人は餓死寸前とい
う鬼気迫る状況になりました。
この状況はいまも進行中です。自給の国からいまや食糧自給率は半分におちこんで
います。餓死者は、100万人というが、誇張ではなかった。子ども達が赤痢や腸管
出血症で死んでいる。栄養失調の子ども達はきたない水を飲んで下痢をして、なくな
りました。何日も歩いてきたお母さんの手の中で外来で待っているうちに子どもたち
は死ぬ。
きれいな水と十分な食べ物さえあれば、現地での病気の99%は治る。現在、15
00か所で清潔な水を確保して、とにかく自分の村を離れずに暮らせるという状況を
つくった。
雪そのものが、ヒンズークシュの山々からなくなり、カレーズという横井戸が枯れ
ているのです。名前はカレーズなのに。枯れてしまった40か所のうち、38か所が
再生しました。
早めに水を注いだところ、7か月で見事に小麦畑が再生。水が来たといううわさだ
けで、人々は帰ってくる。大げさな難民帰還プロジェクトなどといわなくても、ふる
さとで、家族で食べていける、という以上の望みをもつ人はすくない。
9000人がもどってきた、奇跡を見て、農業用水の復活をめざすことでした。
◎聖書に「報復や十字軍」というような言葉はでてこない
国際援助がくるか、と思ったら、きたのは国連の制裁でした。タリバーン政権はけ
しからんと2001年の1月でした。これが転機になって、内部の過激な意見が主力
になる。
9月11日の翌日から、ブッシュ大統領は、アフガニスタンに報復の十字軍という
ことを言い出した。クリスチャンとしてブッシュさんと同じ教派に属していることが
恥ずかしい。聖書のどこにも、報復や十字軍というような言葉はでてこない。日本人
も、おまえはテロリストのお先棒をかつぐのか、と非難されました。
冬が近づく時期に、カーブルを爆撃すればどうなるのか。
餓死者100万人という中で、食糧制裁までするのか。
アフガニスタンの人たちが、国際社会に対して大きな不審をもちました。
千数百トンの小麦粉を送ることを実現できた、ウソのような事実。
食糧支援のグループを送り出す時、20人を3チームにわけて、全滅しないように
した。1チームが全滅しても残りの2チームで仕事を続けるように指示を出した。
あたかも私ひとりで仕事をしているように報道されていますが、協力してくださる
人々と住民たちによって、実現していることだということを確認しておきます。
◎餓死する自由
絶滅につながるほど押し込まれていたケシ栽培93%。売春をする自由。夫を失っ
た女性たちが街角で物乞いをする自由。餓死する自由。こうした「自由」が、アメリ
カ軍が来てから得られたものです。
新宿まがいの繁華街がある側では、干ばつ被害民500万人が押し寄せて
住むスラム街がある。一触即発のテロの危機がつくられている。
パンと水が保証されない中で、自由だの民主主義だと対テロといわれてもむなしい
ばかりです。
◎「盗むな」という作物の広め方
砂漠化防止とともに、食糧自給率の向上。乾燥に強い品種の選別を6年間やってき
ています。現在までのところで、もっとも脈があるのが、サツマイモ。
2年前から、サツマイモのタネイモが盗まれ出した。タネイモが不足してきました
から、これはつるから増やす方法があるので、「つるも取っちゃいかん」という噂を
ながしました(笑い)。
ソバも有望です。コムギ粉のナンに混ぜる料理を開発したりしています。
◎水路をつくる
地球温暖化が主な原因だとすると、地下水も永久利用はできない。雨水利用。イン
ダス川上流の大きな河川から水を引く。
20年の間に土漠がひろがってしまった、そうした場所に道路も学校もいるけれど、
一挙に水を引くことにした。重機も、ゼネコンもない。シャベルとつるはし。難民化
した人々が集まってきた。一日240円です。日本の古い土木技術がずいぶん役立っ
た。武田信玄の時代から江戸時代に完成した技術。蛇篭。かごの中に石をつめて川を
止める。600トンのワイヤーで、1万5000個の蛇篭を入れた。背面に楊を植え
て、針金がさびても崩れない岸を作った。今年の4月、13キロが完成。
私は、土木作業員などもしております。生活のために、住民と一体となって仕事を
していますから、誰も我々を攻撃するものはおりません。「武装勢力によって攻撃」
などと新聞にかいてありますが、あれは住民そのものです。九州筑後川の山田堰を移
したものです。堰板方式という農業土木技術も使いました。
私たちの用水路で数千ヘクタールがまかなわれ、年内には1万ヘクタールが灌漑で
きれば、十数万人以上が帰ってこれる。土石流の谷を横切る工事。できあがった翌日
に土石流がやってきて肝を冷やしたこともありました。洪水が襲ってきた時にそれを
逃がす、石出しの護岸の古い技術なども使っています。
◎明るさをいただく
アフガニスタンの子どもたちの顔の明るさ。自分探しをしながら日本からやってく
るボランティアの若者たちの方が暗いんです(笑い)。
振り返ってみたら、高いところから、貧しい人たちにお金を投げ入れようとするよ
うな気持ちが全然なかった、とはいえないのですが、実は助かってきたのは、私たち
でした。 私たちの迷信に気づかせてもらった。それは、
金さえあれば、幸せになれるのでは、という迷信。
武器さえあればこの身を守れるのではないか、という迷信。
そうした迷信に気づかせていただけたわけです。
助けることは助かることだ、ということで、日本人の良心的な事業ということで継
続していきたいと思っております(拍手)。
◎江里学長の挨拶
私も医者ですから、ご専門は神経内科でしたね?とお伺いししたら、「循環器だ」
とおっしゃいました。
アフガニスタンで水路を掘っているから。アフガニスタンの循環を復興する仕事を
しているから、ということでした(一同爆笑)。
中村先生の活動が理解されて、支援されるように私たちも努力したいと思います。
こんなにアフガニスタンを身近に感じたことはありませんでした。ありがとうござ
いました。
ペシャワール会のHP
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/
同ホームページより中村医師の紹介
【略歴】
ペシャワール会現地代表
PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
1946年福岡市生まれ。九州大学医学部卒。
専門=神経内科(現地では内科・外科もこなす)。
国内の診療所勤務を経て、1984年パキスタン北西辺境州の州都のペシャワール
に赴任。ハンセン病を中心としたアフガン難民の診療に携り現在に至る。
【受賞歴】
1988 外務大臣賞(外務省)
1992 毎日国際交流賞(毎日新聞)
1993 西日本文化賞(西日本新聞)
1994 福岡県文化賞(福岡県) *ペシャワール会
1996 厚生大臣賞(厚生省)
1996 読売医療功労賞(読売新聞)
1998 朝日社会福祉賞(朝日新聞)
2000 アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)
2001 第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞
(『医者井戸を掘る』)
2002 日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)
2002 若月賞(長野佐久総合病院)
2002 第1回沖縄平和賞(沖縄県) *ペシャワール会
2003 大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)
2003 マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」
2003 アカデミア賞 国際部門(全国日本学士会)
2004 イーハトープ賞(岩手県花巻市)
*ペシャワール会とあるものは会として受賞
【著書】
『ペシャワールにて』『ダラエ・ヌールへの道』『医は国境を越えて』『医者井戸
を掘る』『辺境で診る辺境から見る』(石風社)
『アフガニスタンの診療所から』(筑摩書房)
『ほんとうのアフガニスタン』(光文社)
『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』(羊土社)など