文化人類学)最終レポート スワヒリ語をきっかけに見出した寛容的生き方_ RT_@tiniasobu
2021/03/11
ひさしぶりに文化人類学の授業をしたのですが、私の 授業になんども出てきたスワヒリ語を本格的に独習したいという希望が寄せられました。大阪大学外国語学部がつくっている外国語独習のためのサイトがたいへんよい入門で、もちろん奥行きや広がりのある専門的なものにもなっています。以下に紹介しておきましたので、ご利用ください。
世界の人々と自由に行き来できるときはなかなか来ないかもしれないけれど、その日にそなえて、いろいろな言語の世界に遊べるようになっていれば、いまから交流の輪を広げられますよね!
めずらしい言語もあるので、実際にどれかの言語で少し体験してごらんになると、あなた自身の中に事前事後の変化があって最終レポートのヒントのひとつにもなるかもしれません。
サイトは http://ankei.jp/yuji/?n=2478 です。
スワヒリ語にチャレンジする中で、あたらしい気付きがあり、それが最終レポートに育ちました。聞いたことがない科目ですが、わがこととして深めていただくと、がぜん面白くなってきます。
2020年度の収穫として、御本人の了解をいただいて、以下にはりつけさせていただきます。Asante sana.
1.はじめに
文化人類学とは何か。簡潔に言えば、「人類が過去から現在まで創りあげ伝えてきた「文化」を研究する学問」(綾部,
1995)である。筆者はこの学問の存在を最近まで知らなかったために、大学の科目選択の際、記載されていた名前にこれは一体なんだと首を捻った。そして、この学問がどういったものなのか知りたい、そう思い選択欄に丸をつけて用紙を提出した。
文化人類学の授業の中で、少しずつ、多様な文化の存在、違うこと、違わないこと、といった、慣れた地元のみで生きていては経験しない、またこれまで深くは考えていなかった分野に触れていった。なるほどこれが文化人類学か、と色彩豊かな森を歩き回るような気分で授業を受けていた中で、スワヒリ語、という言語を耳にした。先生の口からその音を聞き、興味が湧き、いてもたってもいられなくなり、初めてスワヒリ語の世界に足を踏み入れた。その時既に授業は十五回中十一回まで行われていたのだが、スワヒリ語に自ら手を伸ばし、その上で授業を振り返ったことで筆者はやっと見出した、多様な文化、違うこと、違わないこと、これらとの共存の法を。本稿では、スワヒリ語の世界へ飛び込んだことで見出した、文化の多
性を受け止め尊重する寛容的生き方を、コロナ禍でも可能な方法で提案する。
2.『知ろうとする心を持つ』
グローバル化の進む現代社会において、異文化理解という言葉を耳にする機会も多いのではないか。日本ではセミナー、勉強会、研修といった形でその理解を深め、双方よりよい関係性を築こうと取り組む団体も多く存在し、この言葉をテーマに本も多数出版されている。そういった催しに参加しようとする思い、積極的な読書は素晴らしいと思う。だが現在コロナ禍である世の中、催しは中止や延期、図書館や本屋には足を運びにくいといった、取り組みたくても取り組めない、そんな社会となっている。中にはそういった活動に無関心、異文化などは対岸の火事、理解が面倒とすら思っている人もいるだろう。しかしそんな人に対しても、外出自粛を余儀なくされる今だからこそコロナを全く気にしない、文化の多様性を受け止める
く提案したい方法がある。それが、『知ろうとする心を持つ』ことである。
初歩の初歩ではないかと捉えられてしまうだろうが、『知ろうとする心を持つ』、ここには雑多な思考の介入のない、純に知ろうとする、受け取ろうとする思いを重視して欲しいという考えがある。これは相手の一部分のみでなく、多面的に知ろうとして欲しい、という広い視野でのアプローチの提案でもある。
相手を理解しようとする以前に、相手の存在を認識していなければ理解しようという思考には至らない。筆者は授業の中で初めてスワヒリ語を認識し、知りたいと思ったからこそ飛び込んだ。だがそうでなければスワヒリ語が日本人にとって易しいとされる言語(大阪大学)であったことも、コンコードと呼ばれる興味深い特徴の存在も知らず、アフリカをもっと理解したいと考えるまでには至らなかった。そして、始めから異なるという点に対し批判的、拒絶的な思いが片隅にでもあれば、それはすなわち先入観による偏見、差別に繋がりかねない。中川(1998)曰く、普段我々は日常生活において科学的、客観的な方法で相手を判断しているが、あまり好意を抱いていない人々やグループが関わると、「少数の事例でもって、大胆にも、その
人びとが属するグループ全体をキメつけるような判断をしたりしがち」なのだという。また、中川(1998)はステレオタイプにより陥ってしまうカテゴリー化についても述べており、人を一部のみで判断する例を慎重に、かつ否定的に説明している。よって『知ろうとする心を持つ』とは、相手を多面的に捉え理不尽な判断を減らして欲しいが故の提案でもある。
受け取る、多面的といった点が難しく思われるのなら、単に普段の生活の中で知ろうとする、それだけでもいい。そこから自分の生きるエリアではない別のエリアが見えてくる。今まで聞き流していたワード、気にも留めていなかったニュース、知ろうとするだけで受け取る情報が変わっていく。それは考え方や感じ方を広げることにもなり、世界を大きく捉えることに繋がる。自文化に固執しない、様々な文化を受け取ることを可能とする準備にもなり得る。
ただ、『知ろうとする心を持つ』にあたって気をつけて欲しいのが、相手に無遠慮に踏み込んではならない、過剰な期待をしてはならない、という点である。文化は生きている。その文化に生きる人もおり、生み出されるモノもまた、そこで息づいている。文化は個人の欲求を満たす娯楽のため『だけのコンテンツ』ではない。自分のステレオタイプに合わないからと曲解していいわけではないし、事実の一部を改変したり、誇張していいわけでもない。
宮本・安渓(2008)によれば、均衡の保たれた一種の共和制の島を、ある放送記者が「時代からとり残された貧しい封建制の強い島」と解釈し放送したことで、島の人々は大きな迷惑を被ったという例がある。更に、身勝手な思考や行為は視界を狭める上、多面的に捉えることを不可能にしてしまう。興味を持って取り組むのだとしても、あるがままの文化をそのまま受け取ろうとして欲しい。
3.寛容的に生きるために
『知ろうとする心を持つ』ことが何故、文化の多様性を受け止め尊重する寛容的生き方に繋がるのか。それは、心の余裕を持って相手と相対することができるからである。
まず、ユダヤ人差別について取り上げる。村田(2000)によればユダヤ人差別は、
「ユダヤ教とキリスト教との信仰上の相違(神の認識の仕方など)、信仰にもとづく生活習慣上の違い、など、起源的な意味では明らかに宗教的要因が根底にある」としている。キリスト教はユダヤ教から生まれた宗教であるが、違うという点が亀裂となり、またユダヤ教がイエスを救世主として認めない点、新約聖書の記述によりユダヤ人がキリストを殺した者であるとした点も加わり、憎悪からユダヤ人隔離へと変わった亀裂は、遂にはユダヤ人虐殺にまで発展してしまう(村田,
2000)。
この差別の始まりから、人間とは、違うという点をあまりにも大きく取り上げてしまう性質なのではないかと考えた。ここが違う、あそこが違う、その違いを愛おしく思えればいいが、意識してしまうが故に強調され、不快や嫌悪へと結びつけてしまう結果、偏見、差別へと変わるのではと。だから、そのプロセスに待ったをかけたい。そもそも人間とは、十人十色というようにみんな違う存在である。皆同じ見た目で同じ思考をし同じ感情を持ち同じ行動をする、そんな大量生産の人形、プログラムの組み込まれた機械ではない。しかし生物学的には皆同じヒトである。食事をとって活動し睡眠をとって休息し、
肺呼吸をし恒温動物である哺乳類、ホモ・サピエンス。違っているが違わない、それが人間である。ただその認識が困難となってしまうのもまた人間である。そして今まで受け入れられなかった事柄を受け入れようとするのは、人によっては苦痛を伴うものだ。だが前述したように、『知ろうとする心を持つ』とは広い視野でのアプローチの提案でもある。違うという理解はもちろん大事な視点であるがしかし、
そこに重点を置く前に、まず知ろうとする、まず受け取ろうとする、その姿勢のもと相手と交流することはできないだろうか。なにも違う点から目を逸らそうとしなくていいのだ、なにも無理に受け入れようとしなくていいのだ。この宗教はこういう特徴があるのか、ここではこんな料理が食べられているのか、彼らはこんな生活をしているのか。まず一つ一つをへぇなるほどと手に取って見ていくような、そんな関わり方をするのだ。ここで思考にも感情にも余裕が生まれる。その後に自分の文化と比べてみれば、
相手の文化との違いの面白さに気づくはずである。この点が違う、ああここは違わない、なるほどここは似ている、と理解を深める。そうすれば、多様性ある文化を受け止めることができ、私の文化、彼らの文化、そんな認識のもと互いを尊重でき、寛容的な生き方へと繋がるだろう。故に、『知ろうとする心を持つ』ことを提案したいのである。
4.おわりに
文化人類学の授業の中で惹かれたスワヒリ語。その世界に飛び込んだことで一番に知ったのが、「山と山は出会わないが、人は出会うものだ」(訳:JSPS)というスワヒリ語のことわざだ。スワヒリ語は本稿の考えへと導いてくれたきっかけの言語であるが、しかし何よりあの日、文化人類学を知りたいと思い科目選択で用紙に丸をつけていなければ。人の出会いを尊ぶ素敵なことわざを知ることも、この言語を聞くことも、授業を受けることも、先生と出会うことも、この学問にすら触れることもできなかった。もしかしたら文化の多様性、違うこと、違わないことという点も深く考えず、対岸の火事を火事として認識することすらなく生きていたかもしれない。
『知ろうとする心を持つ』、この姿勢が基盤にあるだけで、世界が広がり、相手と相対する際の心持ちが変わってくるはずだ。異文化理解に取り組む前に、寛容的生き方を目指す前に、まず意識を変える。グローバル化が進み自文化以外とも関わる機会の増えた現代社会で、この提案が少しでも文化に対する見方を変えるきっかけになればと思う。
〈引用文献〉
綾部恒雄, 「1*文化とは何か」(綾部恒雄、田中真砂子編, 「文化人類学と人間」, 三五館, 1995-12-22, p.50)
大阪大学 言語文化研究科言語社会専攻,
高度外国語教育全国配信システムプロジェクト スワヒリ語独習コンテンツ スワヒリ語と日本語を比べるースワヒリ語はやさしい?―(最終閲覧日:2021-1-31)
http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/swa/compare.html
中川喜代子, 「人権学習ブックレット? 偏見と差別のメカニズム」, 明石書店, 1998-11-30, p.30-39
宮本常一、安渓遊地, 「調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本」, みずのわ出版, 2008-4-8, p.22
村田恭雄, 「新版 日本の差別・世界の差別 差別の比較社会論」, 明石書店, 2000-5-10, p.11, 152-153
JSPS Nairobi Research Station日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター,
日本学術振興会ナイロビ連絡センター ニュースレター ふくたーな(最終閲覧日:2021-1-31)
https://www.jspsnairobi.org/newsletter
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