廃村熱中人)秋田県上小阿仁村 屋布(やしき)をたずねる #『秋田・消えた村の記録』__RT_@tiniasobu
2021/02/02
2021年2月4日 記事のバージョンが古いものだったので、実際に印刷されたものに交換しました。
2020年8月19日(水)『農業共済新聞』に掲載されたHeyanekoさんの廃村探訪記の4回目です。
http://heyaneko.jugem.jp/?eid=430
記憶に残る廃村旅 4 『秋田・消えた村の記録』との出会い
屋布(やしき) 秋田県上小阿仁村
1998(平成10)年秋、神田神保町・三省堂の書棚で見つけた『秋田・消えた村の記録』(佐藤晃之輔著、無明舎出版刊)は、私の廃村研究の形を作った。
この本には、秋田県内で戦後から94年までの間に無住化した125もの集落(地区を含む)のことが記されていて、すべての集落に「移転者ひとこと」が添えられている。集落の離村時期は、県が「集落再編成事業」で山間の小集落を移転統合し、生活環境の整備、就労の場の確保を進めた69年から76年頃が最も多かった。この時期は「山から町へ下りたら良い仕事はいくらでもある」と言われた高度経済成長期後期と重なる。
廃村の記録の多くは集落単位だったので、県単位でまとまった本に私は大いに驚いた。そして「ぜひ、秋田の廃村に足を運びたい」、「できれば佐藤さんと話がしたい」と思うようになった。
99(平成11)年秋、37歳の私は秋田を主とした8泊9日の東北ツーリングに出かけた。10月13日は朝から雨。しかし、佐藤さんが住む大潟村への夕方到着を目指し、意を決して鹿角市八幡平の宿を出発した。
悪天候にもめげず、道中、阿仁町(現北秋田市)露熊と上小阿仁村屋布という廃村を訪ねた。屋布の57年の戸数18戸、離村は75年、往時は分校が開校していた(閉校は離村と同年)。しかし、そこには傷んだ蔵がひとつ建つだけで、二十数年前まで集落があったとは思えないたほどの林となっていた。
『秋田・消えた村の記録』に「これほど立派なものはない」と記された屋布の集落移転記念碑(84年建立)は、雨でぼやけた視界の中でも風格を感じた。また、「16戸が沖田面近くの水無団地に集団移転した」ともあり、碑の前で休みながら「元住民のつながりは強いことなのだろう」と想像した。
大潟村に到着したのは、屋布を出てから2時間後のことだった。「消えた村」、「廃村」という共通項が、専業農家と事務職の団体職員を結び付けた。
浅原 昭生 (Team HEYANEKO 代表)
以下は、安渓遊地のつぶやきです。
晴れた日に屋布を訪ねた時の記録と写真は、Heyanekoさんのブログのhttp://heyaneko.jugem.jp/?eid=430に載っています。また、同じブログには、「廃村探訪のマナー」が掲げられています。http://heyaneko.jugem.jp/?cid=32 宮本常一・安渓遊地『調査されるという迷惑』みずのわ出版、2008とも重なる大切な内容なので、以下に抜粋します。
「一度行ってみたい」と思われた方がいるかもしれないが、廃村はいわゆる観光地ではない。廃村を訪ねるに当たっては、いくつか頭に留めておくべきことがあるので、ここにまとめて記す。
廃村では、管理上、防災上の理由などにより立ち入りが制限されている場合がある。「立入禁止」などの指示には従うのが大原則である。
クマやマムシ、ダニなどの危険動物には要注意である。足元にも川の流れや古井戸などの危険が潜んでいる。事故が起こると、関係者にも迷惑がかかる。事故がないように細心の注意をはらうことはとても重要である。
また、地域の方に迷惑をかけることがないよう、気を配る必要がある。廃村を探索するときは、「立ち入り制限がない」「事故に注意する」ことを前提とした上で、筆者が廃村探索において気を配っているのは次の4点である。
●1 廃村は地域の方のものであり、「見せていただく」という気持ちを大切にする。人が目の前にいない場合でも、その気持ちを具体的な形で示すことが望ましい。例えば、神社やお地蔵さんを見つけたら手を合わせるとよい。
●2 クルマやバイクに乗っていると顔が見えないため、地域の方を不安にさせる可能性がある。廃村をクルマやバイクで訪ねるときは、なるべく早く降り、徒歩で探索するよう心がける。
●3 廃村で地域の方と会ったときは、積極的にあいさつするよう心掛ける。このとき「学校跡を探しているのですが、どちらにあるのでしょうか」といった、明確な目的を示すと、コミュニケーションがスムーズになる。
●4 「ごみを捨てない」「ものを持ち出さない」などの基本的なマナーを守る。
Heyanekoさんは、人と人の出会いの不思議を書いておられます。この記事の旅の出発点になった鹿角の八幡平のお宿は、ひょっとすると「ゆきの小舎」でしょうか。https://koya.simply.pw/ ちいさくて、暖かくて、いごこちがよくて……。プラチナゲストハウスのあるじ・おゆきさんは、わが家の古い友人です。
『90年代』『自然生活』などの雑誌を出していた野草社(いまは新泉社もひきつがれてます)の石垣雅設(まさのぶ)さんが主催する「野草塾」以来の古いおつきあいで、野草塾には1度しか参加しなかったのに、おゆきさんや、屋久島の山尾三省さん、「原発いらん! 山口ネットワーク」の三浦翠さん、京都のお豆やさんの楽天堂・高島さんらと出会えたのは不思議なご縁でした。
そんなわけで、ゆきの小舎は、わが家が10年に一度くらいは、旅の途中に足を伸ばしてふらりと訪ねる場所なのですが、あるときは、小林正寛さんという人と出会って、「指から出る気を見る方法」「飲物に気を入れる・減らす方法」などの実習でもりあがりました。その彼がやっていた、ユースホステル新聞に頼まれて、「豊かな人」という題で記事を書いたのもなつかしい想い出です。
近頃、秋田と私が住んでいる山口をつなぐパイプもできました。なんと、迎撃ミサイルシステム、イージスアショアの建設予定地つながりなんです。
多くの新聞がこの問題を報じましたが、ほとんどはネット上から消えています。過去の記事も消さない方針の『しんぶん赤旗』に報道されているように、https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-06-18/2019061801_01_1.html 北朝鮮のミサイル基地から最短距離の大圏航路で、アメリカのグアム基地を描くと、その真下に山口があり、ハワイ基地への航路の真下に秋田があるんです。このわかりやすい発見は、もと秋田大教員の福留高明先生によるものでした。
阿東つばめ農園のある山口市阿東は、萩市むつみと阿武町にまたがるように計画されたミサイル基地計画予定地のすぐそば。ですから、わがこととして、山口でも秋田でもくばってもらえるように、また賛成の方にも読んでいただけるように、「イージスふあん通信」http://ankei.jp/yuji/?n=2345 と名付けて、みなさんの不安に耳を傾け、「太平洋の盾」という英語の文献も読み、不慣れなデザインを含めて、1万枚のチラシの印刷まで引き受けました。怒りを抑えての作業は、いまにして思えば、ボランティアとはいえ、ちょっと心臓に悪い仕事でしたね。
以上、安渓遊地@イージスふあんクラブ山口 でした。
秋田・山口 「米国防衛」「適地」_陸上イーシ?ス配先 専門家か指摘_ハワイク?アム射程直下.pdf (1,507KB)