島からのことづて)日本最南端のお寺で――#竹富島_の上勢頭同子さんのお話 RT_@tiniasobu
2024/04/01
2024年4月1日 カラスの鳴き方の注釈を加えました。
2021年1月20日 表記の誤変換を修正し、住民とリゾート建設計画との戦いの記事を追記しました。
屋久島の雑誌『生命の島』に掲載された
島からのことづて36 を共有します。
日本最南端のお寺で――竹富島の上勢頭同子さんのお話
安渓貴子・安渓遊地編
サンゴの石垣と白砂の道の美しい街並みを、住民が主体となって保全・再生してきた竹富島には、日本最南端のお寺、喜宝院があります。
前住職の上勢頭亨(うえせど・とおる)さんは、民俗と古謡の伝承者・研究者であり、現在は沖縄県第一号の国の登録有形民俗文化財に指定された蒐集館(しゅうしゅうかん)という個人博物館の創設者でもありました。遊地の父方の実家が、喜宝院と同じ浄土真宗本願寺派の寺だというので、一九八四年にお亡くなりになるまで、お訪ねするたびに格別かわいがって下さいました。
現住職の上勢頭同子(ともこ)さんは、お父さんゆずりの歌と踊りの伝承者で、ほれぼれするような豊かな声量と、島の生活に根ざした語りが魅力です。同子さんは、夫の芳徳さんとともに町並み保存や方言指導など、地域振興のためにも重要な役割をはたしておられますが、それはいずれ回をあらためて芳徳さんとの会話でご紹介することにして、まずは、二〇〇七年の九月に、喜宝院の前のあずまやでうかがったお話から。
○烏からのことづて
竹富島で緑が昔のように残っているのは、この一画だけよ。鳥がやってくるしチョウも多いでしょう。この建物は、昔の家の作り方がわかるように茅葺きにしてあるんだけれどね、風通しがよくて最高さ。
いま梢でカラスが「グッキャラララー(グだけは高くあとは、低く下降する)」と鳴いたでしょう。カラスがあんな鳴き方をするときは、何か良いものが届く知らせなのよ。不思議にこれが当たるさ。逆に、悪い知らせの時はね、なにかぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ話しあっているように聞こえるのよ。
竹富島のカラスは頭がいいよ。観光客が捨てたジュースの缶の飲み残しを飲んだりするし、蓋ぐらい自分で開けるんじゃないかねえ。でも、どうしても智恵が回らないこともあるらしい。ある時、たくさんカラスが集まって大騒ぎしていたんで、いったい何事か、と見たわけ。そしたら、子ガラスが缶ジュースの穴に足をつっこんで、自分では抜けなくなったというんで、島中の大人のカラスたちが集まって智恵をしぼっているわけさ。
さあ、どうするかと思っていたら、しばらくして島のカラスと違う鳴き方をするカラスがきたのよ。「アワワワ、ワワワワ、ワ(下線は低く)」といって鳴いた。人間の方言が島ごとに違うように、カラスにも方言があるさ。そうしたら、あんなに困っていた子ガラスの足をさっと抜いて、集会は無事解散になった。だからあれはよ、おそらく隣の小浜島からお医者さんのカラスを呼んできたんだと私はにらんでる。だって、竹富島はずっと、正式の医者じゃないけれど診療はできる医介輔(いかいほ)という資格の人しかいなかったでしょう(笑い)。
この茅葺きの下は涼しいから、種子取祭なんかの踊りの地唄の練習をするさ。するとかならず鳥たちがやってきて、私らの唄と競争になるから面白いよ。ホッカル(和名リュウキュアカショウビン)なんか、決まった木にとまって、だんだん近づいてきて、いま私たちが座っている壇の所まで来るのよ。なるべく木を伐らないように、そして、牧場にしてしまわないように守ってきたから、この一画だけはこんなに緑が豊かなわけさ。
――西表島では家の中にアカショウビンが入ってくると火事になるといって家族総出で浜に行って寝たそうです。
竹富でも同じよ。山鳥が家の中に入ってくることは忌み嫌われる。だからうちの親父はアオバトが家に入ってきた時には、すぐサンシンをとってこのアオバトにむかってグジンフ(御前風、めでたい歌)をうたいだしたのよ。要するに災いを転じて福にもっていくという行動であるわけ。こんな風に昔の人はとっさに切り替えることができた。どんな風にでも生きていけるんだよということ。今の人はこういう行動ができないさ。そして、あんなの迷信だという。こういう柔軟な行動がとっさにできた昔の人はえらかったなあと思う。
○自然が失われていく
鳥がこうして集まってくる緑豊かなここにこうしていられることを、毎日ありがとう、といっているのよ。竹富島でも、今頃は牛がもうかるからといって、土地を牧場にする人が増えている。木を伐って牧場にする時、大きな木はそれでも伐らずに残すんだけれど、ほかの木を伐ってしまえば、風と乾燥でこの大きな木も結局は枯れてしまうのよ。風が吹くと集落に風が直接あたるようになって困っているさ。最近、鳥やチョウも居場所がない。喜宝院のあたりへ集まってきているから多いように見えるけれど、チョウチョなんか減ったねえ。あれがもうかる、これがいいといって、土地のことや環境のことをよく考えず、展望なしに変えていくといったいどうなるか……。自然も伝統も壊れていくのよ。「金は一代、土地は末代」といって外部企業なんかから守ってきた島なのにね。
○世替わりの中で
私は、昭和二十二年生まれ。お金がB円からドルにそして円にと変わる時代を生きてきたわけ。B円からドルになった時、お金の力を感じたね。B円は十銭あってもカマボコ一枚買うくらいしか力がなかったのに、ドル時代は豆腐一丁三セント、日当が一ドル五十セントくらいだった。石垣島で見る映画が二十五セントで、この二十五セント玉が一個あれば、竹富島から船に乗って石垣島に行く往復の船賃と、石垣島で遊んで、スバ(沖縄そば)食べて、おみやげのお菓子が買えたさ。B円の時は紙のお金だったけど、ドルになってコインを初めて見た。新鮮だった。
お金が変わるのにつれて、人の心もちも変わっていくのを見てきた。
○あいさつをする習慣
B円の時代のことを話しましょう。私が小学生のころ、学校へ行くために家を出ると、もう道はどこもきれいに箒で掃き清められているの。道の真ん中を歩くと足跡が付いて悪いでしょう。だから遠慮して、道の縁のグックヌニー(石垣の根っこ)を歩いた。足ははだしだよ。石垣にひっつくように歩いていくと、じいちゃんばあちゃんに出会う。出会うと必ず声をかけてくるから、こっちも「クヤーナラ(ご機嫌いかがですか)」とか丁寧に挨拶をして歩いていく……。出会ったらかならずあいさつする。「元気でね」「がんばれよ」「はやく行きなさい」って、声をかけてくれる。学校ってすぐ近くなのに必ず何人かと言葉をかわす。だから、なるべくいろんな人と会えるように、毎日道を変えて選んで歩いていたさ。
でも、出会うたびにいつも「マーカイガー(どこへか)?」というばあちゃんがいた。なんで毎朝毎日「マーカイガー」と聞くわけ?学校に決まってるでしょ!と子ども心におかしかった。
○餞別は畑のもの
昭和二十二年生まれの子どもは軒並みいたよ。どの家にもいたといっていいな。だから竹富小学校に入学する時は、同級生が五十四人いた。それが卒業の時は十七人になっていた。この間に友だちはいろいろな所へ出て行ったね。町へも小さな島へも。
石垣島へ行くときは今の桟橋のところからだけれど、西側にある小浜島や西表島に転校する友だちを送るときは西桟橋からさね。そんな時はシトゥ(餞別)を頭の上にのせて送りに行った。シブイ(とうがん)とかカボチャとか、畑でとれたものよ。学校の先生の転勤の時も同じように西桟橋からで、卵とか家にある物を持って送りに行った。お金がない時代だったからね。
○水くみの苦労
竹富島は水が少ないから水くみが大変だったのよ。井戸は深い底へ歩いて降りていってくむようになってたわけ。瓶を頭上に載せて、直接頭に当たったら痛いから間に丸いカブシというものを編んではさむんだけれど、それがよく落ちるから親父が私のためにカブシの横に紐をつけてカブシがずり落ちないようにしばる工夫をしてくれた。一九七九年に石垣島からの海底送水の水道になってからは、だれもその井戸の水を汲む人がいなくなったわけ。
○ナカッスという怖い監視役の思い出
私の小さいころまで、畑なんかを歩き回ると、ナカッスという役目の人がいてよ、子ども心にも怖かったさあ。ナカッスというのは、公民館で話しあってつくった役目の名前だけれど、棒を持って仁王さんみたいな怖い顔をして、違反者をさがす、泥棒などを見張る役目の人。この人に見つかると違反の札を首から下げさせられて、三日間はこの札を下げて歩く義務があったのよ。私が小学校だった昭和三十二年ころのことよ。子どもが畑でちょっとかがんでも、芋のツルを盗ったといって捕まえるぐらい厳しかった。ナカッスに選ばれたら誰でも怖い顔になるわけよ。ナカッスに選ばれるくらいならこの島におらんといって、出て行った人もいたくらいよ。
でも、中にはやさしいナカッスもいて、「いいよ」といって見逃してくれた。ナカッスは一日、十五日の掃除の見張りもしたけれど、掃除の見張り役は後に衛生班ができてやめになった。
○目標とする女性たち
私は、ずっと竹富島で育って、高校は那覇に出て、そのあと二年間、東京の自動車教習所の事務の仕事をしていたわけ。親父の体調が悪いという知らせがとそいて、子どもは私ひとりだからすぐに仕事をやめて帰ってきた。親父は体が弱くて、ぜんそくもちだった。
結婚して婦人会に入ったとき、私が人生の目標としようと思った人が三人いらっしゃったわけ。将来はこのようになりたいと思うような、私より二まわりくらい年上の女性たちよ。
一人目は、もの静かで黙って人の話をよく聴く人。会則とか文章とかのまとめ役。なのに自分は動かない。人を動かすのが上手な人で、この人は初代の竹婦連(竹富町婦人会連合会)の会長になった。
二人目は、よく働いて、方言が上手で、この人に「たらせ、たらせ」とよく言われた。人に不満をいうな、不満があったら、自分でその不足分を補って足らせるように努力しなさいという意味よ。
三人目は、家庭が貧しいところに育った人で、小学校の三、四年くらいからでも、石垣島に子守なんかの働きに出されていた。島内でもよその家に住み込んで、自分は小さいのに、こんな一抱えもあるシンメーナビ(四枚の鉄材で作った大鍋)で粟のごはんを炊く。お湯を鍋にふつふつさせて、焦げやすいもち粟を入れて水加減・火加減をしてつくる。こんなふうに日常の生活も祭もすべての場面をこなしていけた人。あなた達に紹介した民宿のおかみさんよ。
私が育った時代、竹富島はみんな貧しかった。貧しかったけど心の豊かさがあった。互いに心から許し合えるそんな豊かさと、すばらしい先輩たちの作り出す魅力があったのよ。
○海とのかかわり
昔はインドゥミ(海止め)といって、誰も海に行かさない時期があった。村の人がみんな浜に出て寝るという行事もあった。みんな横になったら、誰も起きあがらさないように監督する人が、頭を持ち上げたら当たる高さで竿を回して振るのよ。大人も子どもも三十分くらい寝る。コケコッコーという合図があったら起きていいの。三十分より長いと竿を振る人も大変でしょう。だからコケコッコーという鳴き声は大事なことだった。一番鶏がないたらマジムヌ(妖怪)もいなくなる。だからどうしても朝早く外へ出る時は、一番鶏を鳴かしてから出れよといった。
○霊界との距離を保つ
――西表島の祖納では、昔の大晦日というシチ祭の前の晩に妖しい火が飛ばないか、若者たちが見たんだそうですが。
そうそう、シチ祭には竹富でもそういうことをしたよ。必ずあの世この世が見える人たちがいるから、その人の着物の袖の下から見れば普通の人でも見えるといってね。私なんかもそう聞いてついて歩いて、「あ、いまごろはどこどこの爺さんが海でタコを捕ってどこの墓の方を来よったよ」とかあんな話をずーっと教えてくれよった。ああいう霊的な力のあるばあちゃんの後ろから、子どもはぞろぞろついて歩いて話を聞くのがシチの楽しみだったわけ。怖いけど興味がある話だった。手枕して耳をすませて聞いていると、「どこの爺さんは、誰々の家でたいくつしてる」とか、「魚採り班とか、色々に分かれて今料理つくってるよー」とか。もちろん、これは全部あの世の話よ。「どこどこの墓の庭でね、今みんな集まって盛り上がっているよー」というのが見えることもあったさ。
昔は、島のおじいさんやおばあさんで、見えない世界を感じられる力をもった人たちがいて、子どもが急に熱を出したり、なんかを食べておなかの具合が悪くなったりすると、「あ、どこどこのだれだれがそこにきてるから、自分が呪文をとなえようね」と言って、呪文をとなえてふっと息を吹きかける動作をやると、ぱっと症状が止まるわけさ。熱がすっと下がるとか、お腹が痛くなくなるとか。そういう風にして島じまではサンギンソーとか言われる霊能者が、どんどん言葉を出していくことで、あんなに火がつくように泣いてた子がぴたっと止まる。
これはね、生きた人間の世界のすぐそばに、マジムン(霊)が近づいてくると人間が弱くなるのよね。体が持てないから、一定の距離を保ってこれ以上近づかないでちょうだい、と今子どもを苦しめている霊に呼びかけるわけ。霊界では心配して自分たちを見に来てくれているはずだけど、距離があまり近いからこの子は体を弱めているから、これ以上そばに来ないでちょうだい、とお願いするわけ。
例えば太陽は大切なものだけれど、近くにくると我々はみんな燃えて無くなるのといっしょで、あの世の人たちは強い霊力をもっているわけだから、生身の人間は耐えることができないのよ。
旧暦一月の十六日祭はお墓の前でみんなで集ってご馳走を食べる、あれはいいわけよ。お墓でいっしょに正月のお祝いをするんだから、別に何かを要求しに出てくるわけじゃないし、こちらも何かを頼みこむわけじゃないから、それは近づいてもいいわけ。
○土地の神
私たちは墓も借り住まいなんです。お墓に向かって右のところには トゥーティークン(土帝君)がすわっておられる。この神様は土地の神様(カン)でいつも墓を清めてくださると考えている。住んでいる家は当然、地の神様から借りるんだけれど、お墓も地の神様から借りるもの。人間は最後は土に戻るわけだから、その土地が荒れていて虫とかいろんなものが入ってきたら落ち着いておれないでしょう。そのためにもこの土地の神様に税金を納める必要があるのよ。それは、米俵が十二俵、反物が十二反、それからマーブー(真苧)十二斤、これだけぜんぶ供えて、俵十二俵だけれども舛を立てて量ってみれば三斗三升の米である、といいます。でも実際は三斗三升あるわけないでしょう。紙でつくった小さい俵だのに。反物も紙の俵もブー(苧麻)も小さな輪にして十二斤といって供える。だけど言霊ではぜんぶ言うわけ。量は言うほどはないけれど、形はそれなりにちゃんとあるのよ。これをトゥーティークンに捧げて、土の中に埋める。
○竹富島の無縁仏はみな寝そべっている
私は、竹富島の無縁仏の供養を毎年している。お盆の三日間が始まる前にやっておく。これをしないと、無縁仏たちが家の中にもばっと入ってきて、お盆の供物がすぐに「シーリル(糸を引いて腐る)」というのよ。ナンカショーロー(七日精霊)といって旧七月七日の七夕の日に無縁霊を供養している。村を出たところに多分ハンセン病の人の無縁仏の墓が、何十とある。テーブルサンゴや石だけの粗末な墓ばっかりさ。この霊を供養する。ついでに、その手前にあるもうお参りする人がいない家のお墓の供養も毎年やっている。ナンカーショーローからはニンブチャー(念仏歌)も歌うよ。
外から来て祈願する人たちがいるけれど、その人たちが、ここの無縁仏はおとなしいねえ、皆寝そべっている、と言われるのよ。海に行っても皆寝そべって、のんびりしているって。他の島と違ってぎらぎらしていないと言われる。でもさすがにお盆の時だけは騒ぐよ。木の荒れ方が今日はおかしいねえ、洗濯を干していても、あれ、これはおかしい、というときがある。気配だから動きは木に現れる。
○海の幸のいただき方
餓鬼供養のためには墓の外にあげます。施餓鬼棚は造らないけれど、いちおうご飯のお初を捧げます。それは海に降りてもみんなそうするのよ。必ず海の中に三回。海の中の竜宮の神様に、いまからそこに入っていって自分が食べるだけ海の幸をいただきますからよろしくお願いします、怪我のないようにお守りください、と祈る。ただもらうのでなく、先に言葉で案内をかけて、自分がもっている食べ物、飲み物をあげてから入るのよ。これは大きい声では言わないよ。とくに決まった言い回しというのもないから、自分の言いたいようにいう。大丈夫よ、神様にはどこの言葉でも、英語でもフランス語でもちゃんと通じるんだから。だけどそれをやらん人もいるさ。「あんなことはないよ」といって。
――西表島でも山や川や海でお弁当を使う時に、食べる前にちょっと捧げて祈ってからという習慣だったけれど、今の人は迷信というから、人に見られんようにそっとやっているという人がおられました。
○海に骨を撒かないで
最近、自然葬と称して海に骨を撒きに来る人たちが増えているのよ。でもこれは、ちゃんと手順を整えて敬いの心をもってしないとたいへんなことになる。海では魂が行き所がなくなって漂って、「さみしいさみしい」と迷っている。さみしがって仲間を求めるから、舟がひっくり返るとかの大惨事も起きている。自然葬も陸上でやるのはまだいいのよ。土に還ってそこから植物になってよみがえることができるから。とにかく敬いの心を持ってきちんとあの世へ送ってあげないと、魂が迷って他の者を巻き込むから災いがおきてしまう。
○今の人が忘れていること
竹富島では、子どもがうまれたら、小さいうちから十本の指を合わせて「はあ、とっとぅい」と拝むことを教えるさ。
山には山の神が、海には海の神が、畑には畑の神がおられて、やおろずの神々がおられるということが、昔の人たちの生活の、あらゆることの大前提だったのよ。そんな大切なことを、今の人たちは忘れたり、迷信だと思ったりしているのよ。
どんどん島の行事が廃止になって、歌も消えていくことは、とても残念なこと。私の親父は歌が消えていく、歴史が抹消されていくことが非常に辛かったみたいで、自分も伝承し、本にも書いた。
でも、それだけでは歌は残らないから、せめて家の新築の時の山結願(ヤマキツガン)の歌だけでも覚えておきなさい、といって私に教えた。これは、木を伐って家を造る時の山へのお礼の歌。この歌詞は親父の本(『竹富島誌』歌謡・芸能篇、法政大学出版局)に入っています。今は歌う機会がなくなって、今後これを歌うこともないだろうから、おまえは覚えておけと親父が言ったので習って覚えた。竹富島の人は、木を伐るときには、島々の十七の山々のヤンザトゥの神にお願いをしてから伐ります。家が完成したら土帝君(トゥーティークン、中国伝来の地の神)の神にお礼を申し上げるんだけれど、その時は、ユシトゥンガナシという神様の木を迎えて歌をうたう。
歌ったらホッカルミナー(赤い巻き貝)四十九個の中にミシャグ(口噛み酒)を入れて捧げるのよ。
家造りの最後の歌は、ハユサトゥイ(ハヤブサ)の歌。西表島で舟をつくって漕いでくるという内容。ハヤブサのようにあんなにも速い舟だ、と誉めて歌うの。
○あらゆる宗教が心をひとつにするべき時
神様は拝まないと起きてこられないよ。拝まないといつまでも寝ていたり、よそへ行ってしまったりされる。
今はほんとうにあらゆる宗教がここにやってくるさ。竹富の喜宝院へ。いろいろな神や仏、宗教がみんなひとつ所へやってくるのよ。今ほどそういうものが必要とされている時はないからねえ。もろもろの神々も仏もキリストもアッラーも、上も下もなく、心をひとつにして、私たちが陥っているこの窮地を乗り越えていくしかない。今はそういう時だし、乗り越えていくことは出来る。いっしょにやっていけるはず、と私は思っているよ。
追記
竹富島のコンドイの浜のところにリゾートをつくるということで住民の反対の声が起こっています。八重山毎日新聞(2019年1月 と 3月の記事)
https://www.y-mainichi.co.jp/news/34863/
https://www.y-mainichi.co.jp/news/35204/
リゾート業者によるスラップ訴訟 女性自身 (2019年10月)
https://jisin.jp/region/1783207/
訴訟は現在も継続中 竹富島を守る会 Facebook (2020年11月)
https://www.facebook.com/assemblytoprotecttaketomijima/