わが師)児玉識先生の講義・富海の近代化と清水弥平・郁蔵の功績_#山口県 #富海 RT_@tiniasobu
2021/01/07
2019年10月13日にお浄土へまいられた、児玉識(しき)先生の講座の耳にのこる名調子。配布資料は出てきたらまた載せます。
ふるさと富海(とのみ)の歴史講話 2011年10月25日13時30分から15時02分
富海の近代化と清水弥平・郁蔵の功績
児玉識先生(円通寺住職)
(富海公民館にて安渓遊地書きとめ。開始に先立ち、生涯学習の一環として、加藤登紀子さんの歌にあわせて「知床旅情」の歌を参加者が歌うという趣向がありました)
「知床旅情」のメロディーに乗っての登場は、生まれてはじめてで照れくそうあります。
いつも、本当ともウソとも分からぬことをとろとろ話して、おかしな具合ですが、それを見てきたことのように言う。
猫とバカと坊主は、共通したところがあるそうです。誰もいわんのに上にあがる(笑い)。
昨夜突然、県立大の安渓先生から電話があり、留学生とともに学べる、仏教と歴史という話を聞きたいと言われるので、今日の会のことをお話したら、来られるというので急遽資料を追加させていただきました。
毎回、富海の歴史はこんなに面白い、ということをお話しますが、最近感じたことを2,3お話します。
資料1をご覧ください。毛利の殿様が問われた「他所問答」に富海がでてくる。萩から富海に13里、そこから大坂へは、120里ばかり、と答えている。並んでいるのは赤間関、三田尻、長府、徳山、岩国と、今で言えば新幹線の駅です。それにならんで、富海がでてくるほど当時は重視されたということです。
渡邊融(とおる)という山口県知事(1903-1912、熊本県出身)が、定年後、富海に住んでおりました。トンネルを出たところだそうです。山口県で一番いいところはどこだ、と部下に聞いて「富海でございます」というので、富海に住んだと直接聞いた人が書いてあるんです。後に明治天皇がこられた時に彼がもらったお金は、富海に寄付したそうです。
イギリス人ガントレットとの交流の話は、以前にお話しました。
明治30年頃から40年ころは、富海は、レジャー産業が栄えていたわけですが、その支えになるものがあったということをお話します。
清水弥平・郁蔵父子の話をしたいのです。豊臣秀吉さんとは言わないように、歴史的な方は呼び捨てとさせていただきます。まもなく100歳の清水家の方も来てくださっていますがご容赦いただきますよう。
歴史はみんなでつくるもので、特定の家にだけ注目するものではありませんが、おおきな功績があった、清水家についてお話してみたいのです。
入江さとる校長先生の家になります。清水弥平が養子にこられて、郁蔵さんと雪三さんの兄弟。郁蔵さんは子どもがなかったので、次の代の人たちがよく郁蔵さんのことをご存じない。これは、自分の功績を家族にもいわず、墓も小さい。『富海村史考』は雪三さんの編ですが、くわしい本の中でそこだけは、ほとんど書いてないのです。これも、郁蔵さんが止めたのであろうと思います。
清水家は、明治11年にたった庄屋づくりです。九州芸工大の先生が文化財にすべきだとおっしゃっていました。中にあるものは、それより以前のものもたくさんあります。
文久元年清水家に養子に行った。文久3年5月、港を鎖して尊皇攘夷をしようということにして、私財をなげうって、文学塾・演武場を作りました。外国が攻めてきたときの武装蜂起の訓練をするわけです。
弥平の兄の入江石泉(せきせん)は、柳井の遠崎・妙円寺の月性上人に学んだんです。たくさんの弟子の中でもめだつ人であったそうです。富海にもどって、武装蜂起の準備をした。豊後水道から敵が来るかもしれない、と月性が書いている。そうしてみれば、富海で尊皇攘夷をするという意味があったわけです。
1,2年あと、大津島のあたりに外国船が来たと郁蔵の日記にあります。
資料に書いてない重要なこと、イギリスが下関を攻撃したとき、いわゆる長州ファイブの5人の若者たちはロンドンにいたわけですが、伊藤博文と井上馨は、入本さんの舟で富海に上陸するんです。そこでイギリスの服を脱いだ。入江石泉に会いたいと伊藤・井上がいうのですが、母親が病気であるというので、郁蔵さんが行かされて、イギリスの服を脱がせて世話をした、とこれは郁蔵さんが親から聞いたと書いています。これは資料にはのせていません。
情報収集をして長州藩に伝える仕事をしていた。
資料をすこし飛ばして、明治三年、勝坂戦争ということがかいてあります。東北で戦ってもどってきた人たちが、ごく一部は近衛兵にとりたてられたりしましたが、ほとんどクビになったわけです。それが大きな暴動になり、小郡から県庁まで押し寄せるというようになります。一部のものだけがえらくなり、反乱者は、山口市のインターのところの柊(ひいらぎ)でみな首を切られる。そういう反乱をおこさせないような運動をしたのが、清水弥平であり、入江石泉なんです。西南戦争のようなことが起こるのを上手におさめたんです。
資料をずっととばして、義務教育を導入するために努力したこと、明治10年に俳句の方での活躍ということがあります。さらに、京都からこちらへ池坊生花をもちこんだ。立花が得意な方が、報恩講に飾ってくださったんですが。
明治3年富海浦役人兼務、11年にはさきほどの家の上棟式です。明治一二年、協同会社株主総代をやっています。活動が山口県全体にひろがってきたのです。
ここまで言うたら、円通寺のことも言わんといかん(笑い)。
明治18年に大蔵経を円通寺に寄付した。西洋印刷による印刷をしようという運動で出てすぐに寄付してくださいました。膨大なものですが、ここに1冊現物を持ってきました。それを、三月三〇日に、うしろから全部だして、参った人たちが一冊ずつ出して本堂に並べる、おわったらまたひとりずつまわして片付けるということを、昭和二三年頃まではやっておりました。
清水さんは円通寺の門徒ではない。入江さんはうちの門徒ですが。この3兄弟は非常に仏教の信仰の篤い方でした。
社会的にどういう活動をしたか。仏教の社会福祉運動をした。徳山の徳応寺の赤松連城さんがはじめた「仏教慈善会」に参加する。貧困者の救済。娘の赤松恒子は、囚人の子どもがうまれたら、自分のお乳を与えていた。同和運動もしている。
『山口県積善会雑誌』という雑誌も、徳応寺から発行しています。これは、清水さんのところでコピーさせてもらいましたが、徳応寺にも県立図書館にも、国会図書館にも現物がないんです。
その8号付録(明治二二年一月二三日)に、山口県積善会の第一回報告というのが載っています。発足は明治一九年の二月で、会員は、一七四名。
「支会を設置せしこと」、として、「都濃郡豊井村(いまの下松あたり)佐波郡富海村の2箇所なり」、とあります。会員にも富海の人がずいぶんおられました。
この雑誌を編集したのが、あの与謝野鉄幹なんです。この方の弟さんが、疎開して富海にきておられました。
弥平に紙を持たすなと、奥さんがいっておられたそうです。ものすごくたくさん書かれたものが残っています。郁蔵はその逆で何も書かない、語らない。しかし、よくしたもので、弔辞が残っていてこれがよくできているんです。また、三〇年ほど前には、郁蔵さんのことを記憶している人たちがいましたからお話も聞きました。
昭和八年五月八日に亡くなったあと、札幌農学校第一〇期卒業生の十川嘉太郎という方が弔辞を名文で書いています。
富海は、県下随一の避暑地。札幌農学校第九期卒業生だった。優等生だったとかいてあるが、調べてみたら正真正銘の首席で卒業しています。下松出身の北海道大学の先生がしらべてくださったら、英語がずいぶんできた。平均点九十点を越えるダントツの一番、二番には十点ぐらい差をつけています。北大の北方資料室に所蔵されています。卒業式に生徒総代として答辞を読んでいます。褒美に、エンサイクロペディアという百科事典をもらわれたんです。これは今も清水家にあります。
こうした本をもらうだけでなく、自分で読んで、アメリカから部品を取り寄せてラジオを組み立てたりされたんです。
北海道の岩見沢地方の原野を無償で数十町をもらって開拓しようとしたのですが、家情がこれを許さず、というんです。こちらでも大地主なので、それはこまる。”Boys
be
ambitious”のクラーク先生に手紙を書いて、アメリカに行こうとしたんです。そうしたら、来いという手紙がきたので、行こうとしていたのですが、家人の知るところとなって、富海に「強制送還」された。本人はふとんをかぶって毎日寝ていたそうですが、やがて奮発して富海のためになることをいろいろされたんです。
まず、農業で富海を改良しようとされた。温暖だからミカンがいい。沖浦の方は日当たりがいいというので作ったら、たいへんできて、みなが喜んだんです。半地下式約三十坪の温室を作って、農協のところにあったんです。川の水を引いてあたためた水を上にあげるしかけになっていた。きれいな花がたくさんにできるようになった。洋ラン・シクラメン・シャボテンなどを育てた。食用になるものをいろいろ育てたが、いまもゴサンチクは、うちにあります。
メタンガスの発生装置は、明るい光でみなびっくりしたそうです。戦後までそれで煮炊きに使っていた家があったのです。魚のアラやらなんやら入れて、臭いがすごかったとはいいます。そのメタンガス発生装置のコンクリート槽が残っています。
さらに鉛管を加工してポンプから水を送る仕掛けもした。
ラージという自転車を輸入して、坂道をずうっと走ってくるので、みんなびっくりした。県では初めてのことで、どのように税金をかけていいか、悩んだそうです。
そして、写真機。これも富海で最初。さらに人々を驚かしたのは、はじめは竹の棒で高いアンテナを立てたけれども、鉱石式で「ラジオというのは、ガーガーいうものですか」というところから、スーパーヘテロダイン方式の真空管11球のものになって、よく聞こえるようになったそうです。ラジオが聞こえたことの当時最大の功績は、大正15年12月25日、天皇がなくなられたことを第一に学校に伝えなければならない、これが役所の仕事だったが、いち早く清水家から学校に知らせることができた。
サイレンを設計し、つくって寄付したのも彼です。
富海村農会長、富海村会議員、富海村長などとなり、山口県信用組合連合会理事、中央金庫総代などをつとめました。北海道であるいはアメリカに行かれれば、世界的にも名を残したことは間違いない方でしたが、富海のために尽くして、その美談を子孫に残さずとした人でした。私たちは清水郁三の事績を忘れてはならないものと考えます。
歴史を学ぶということは、本来は地域の人々の結びつきを深めるのが目的です。みなさまの史談会に期待するところです。富海村村歌というのがあるそうですので、みなさまとこれを聞いて、思い出していただき、いまのうちになんとか正確な歌詞を記録にとどめておきたいと思います。
今日は知床旅情からはじまって、富海村村歌で終わるという会になりました(拍手)。
安渓 追記
富海村歌は、山口県立県立大に依頼がありましたので、田村洋さんにオーケストラをつくっていただいて富海讃歌 としてCDを製作して、富海史談会が販売されています。http://ankei.jp/yuji/?n=1867 からダウンロードしてお聞きいただけます。
清水家住宅は、国登録の有形文化財になっています。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211344