報告)「いまここで」という暴虐からの解放──地域の触媒としての大学の役割_Emancipation_from_the_Tyranny_of_the_Here_and_Now_RT_@tiniasobu
2020/10/03
10/4 修正 文字化けを修正しました。
10/16 文字化けを修正
山口地域社会学会『やまぐち地域社会研究』14号(2017.3.)に掲載された報告です。英文タイトルは
Emancipation from the Tyranny of the Here and Now:
The role of universities as catalytic agents in local communities
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12541069 からリンクをたどって
https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/journals/yunoca000049/v/14/item/27283
で公開されています。念のためpdfもくっつけておきます。
「いまここで」という暴虐からの解放──地域の触媒としての大学の役割
安渓遊地
“I think the essence of wisdom is emancipation, as far as possible, from
the tyranny of the here and now.” Bertrand Russell (1954)
「智慧の真髄って『いまここで』という暴虐からできるだけ遠くに解放されることだと思うんだ。」
バートランド・ラッセル (1954)
「いますぐ役にたつ学問」への疑問
山口大学の坪郷英彦さんには、私の勤務する山口県立大学にも長年、日本の民俗学を教えに来ていただいている。共通の親友で、いまは兄と呼ばせてもらっているソウル大学校名誉教授の全京秀(Chun
Kyung-soo)先生とともに、雲南大学などでの学会(東アジア人類学者会議)に集ったのも懐かしい想い出である。民具と呼ばれる人間の手が生み出すわざの確かさや、その環境との関係をしっかり押さえていく研究の姿勢などに、常に刺激を与えて下さってきた坪郷さんがこのたびめでたく山口大学の定年を迎えられるという。
地域に学ぶことと、地域の本当の必要に応えていくことが渾然とひとつであった宮本常一先生(宮本・安渓、2008)や、チンパンジー社会の研究をタンザニアでのマハレ国立公園建設につなげた伊谷純一郎先生(安渓・安渓、2000)。足下の先史学研究と綾羅木郷の遺跡を破壊から守ることに熱心に取り組まれた國分直一先生(安渓・平川、2007)。既存の経済学にあきたらず、エコロジーとエントロピーの新しい分野を開拓しつつ、故郷の柳井市での朝市の復活に尽力した玉野井芳郎先生(安渓・井竿、2016)。そうした先人の教えを、山口の地で実践したいと様々な取り組みをする中で気付いたことや、そこに至る前史のようなものを若干紹介しておきたい。それは、いま大学で必要とされている「地域で学ぶLearning
on Location, LOL」「問題解決型Problem-based Learning, PBL」「サービスラーニングService
Learning」の基本的考え方や、TOEICなどの英語検定の点数を大学卒業の要件にすべきだ、という時代の趨勢の背景を考えるよすがとなるだろう。
私と妻の貴子がこうした授業にかかわるようになる源流は、めざしていた生物学や微生物生理学に挫折感を覚えて、文化人類学の川喜田二郎先生が、学園紛争への答えとして、東京工業大学を辞して始めた移動大学運動に参加したことにある。
私が京都大学理学研究科の大学院生として、動物学教室自然人類学研究室で、今西錦司門下の伊谷純一郎先生の指導を受け、初めての海外フィールドワークで、ケニアのナイロビに着いたのは、1978年7月のことだった。
ナイロビの日本大使館の職員は、まだ大学院生の私と、梶茂樹さん(言語学)がいずれも夫婦で現れたのを見て、次のような批判の言葉を述べた。
国民の血税である科研費をあなた方のような駆け出しの研究者に出すということはいかがなものでしょうか。民間のトヨタ財団の資金で研究に来ておられる福井勝義先生(当時国立民族学博物館)などは、ごりっぱと思いますが。
新婚ほやほやの梶夫妻へのやっかみもあったのかもしれない。科研費なのだから配偶者の旅費と滞在費が、自分持ちであることは言うまでもないことだった。すでに研究者としての職を得た者にしか科研費を使う資格がないのではという大使館員の率直な意見に、私は次のように応えた。
唐突ですが、日本の水泳が弱いわけをご存じでしょうか。オーストラリアでは、3歳になったら全員が泳ぐんだそうです。その底辺の広がりの中からこそ、世界的に飛び抜けた才能が現れてくるんです。私は、まだ海のものとも山のものともつかない駆け出しですが、少なくとも、日本のアフリカ研究の層の厚さには貢献しているつもりです。
すぐ役にたつスワヒリ語
海外フィールドワークでもっとも頼りになるのは、語学力だ。東アフリカから、中部アフリカのコンゴ民主共和国の東半分ぐらいまでは、スワヒリ語が共通語である。
出発の前にスワヒリ語の特訓を受けた。いきなりタンザニアのニエレレ大統領の演説集を読むという中級クラスに入ったのだ。当時京都大学助手だったG.C.ムアンギ先生(現在四国学院大学教授)とともに、すでに1年間の初級を終えた仲間たちの学んでいた教材は、あまりにもレベルが高かったので、自習のために京都大学の図書館から、イギリス製のリンガフォン・スワヒリ語コース(Bualy
et al. 1950)を借りてきて、レコードを聴いた。
レコード最初の一句は、次のような命令文から始まった。“Nenda! Nitakupiga.”
訳すならば、「行け! おまえを撃つぞ」だ。語学の入門としてはあまりの内容だが、1952年から59年にかけてのケニア土地自由軍(Kenya
Land and Freedom
Army)との戦闘のために1万人を越えるイギリス兵が派遣される前夜にイギリスで作られた教材であってみれば、近づいてくるアフリカ人はすべて敵にみえたのだろう。
それから私は、コンゴ民主共和国の森の村で養子になり、何度かアフリカを訪れるようになった。1998年、8年ぶりのナイロビで日本大使館を訪ねたところ、「覚えておきたいスワヒリ語表現」という記事が載っている日本語の小冊子が配られていた。手にしてみたら、それは2つの文からなり、そのいずれもが命令文だった。
Inua mikono juu. 両手を挙げろ(ホールドアップ)。
Usiniangalie. 俺をじろじろ見るな。
頻発している路上強盗がかけてくるだろう言葉の予習だったのである。たしかに、これが聞き取れなければ命にかかわる。それにしても、半世紀の間に、命令文で話す練習から、命令文の聞き取りの練習へ、語学習得の目標の変化は目もくらむようだった。
1982年から1995年まで、山口大学教養部で文化人類学を担当した私は、90年代に入って、週2回のスワヒリ語速習のゼミを開いたことがある。基礎の文法と会話をやって、最後の仕上げに試験を兼ねた2人で組んでの寸劇をし、みんなで歌をうたうという内容だった。テレビ番組のつもりになって録画もするが、そのレポーター役をつとめたケイコさんは、授業で覚えたコーサ語とズールー語の歌「コシシケレリ・アフリカ」(現在の国歌の一部)を翌年訪れた南アフリカで披露したところ、「この歌がうたえる初めての日本人だ」として熱い歓迎を受けたという。彼女は、やがて京都大学大学院に進学し、エチオピアの人類学の専門家となったのだった。こうして、スワヒリ語に限らず、愛と平和共存のための語学は、
歌から入るのがよいというのが私の持論となった。
「あなたがたは差別しようとしているのです」
フィールドワークへの疑問は、しかし、調査地の人たちからも投げかけられる。日本の南の島々でもらった痛烈な言葉については、宮本常一先生との共著で『調査されるという迷惑』(宮本・安渓、2008)で紹介した。ここでは、コンゴ民主共和国でもらった言葉を紹介しておきたい。
コンゴ民主共和国がまだザイールと呼ばれていた1990年8
月のこと、私は、マニエマ州の州都キンドゥの小さなホテルのバーでビールを飲んでいた。そこで給仕をしている20才くらいの女性とスワヒリ語で会話をかわすうちに、彼女は毎日8時間勤務して、日給が約40円なのに、私が飲んでいたビールは約100円と、1本が彼女の2日分の給料より高いことを知った。そして、私は、彼女の鋭い問いかけに答えることができなくなってしまったのだった(安渓、1998)。
あなた方日本の研究者は、私たちに対して大変不当な仕打ちをしています。なぜっていうと、あなた方は、私たちの言葉をとても知りたがりますね。そして、私たちの伝統や習慣を知ろうとします。そのくせ、あなた方は、私たちにあなた方の言葉や習慣をちっとも教えてはくれないじゃありませんか。そりゃあ、私たちは、貧乏です、だけど、あなた方は、手の内を全部みせることがいやなのです(Hampendi
kuonyesha yote)。これが、この国の知恵を勉強にきて、私たちの性質や言葉を理解するようになった、あなた方に私が言いたかったことです。
それから、あなた方の国では、みんなとても高学歴でしょう。ところが、私をみてごらんなさい。私は高校を卒業して、ちゃんと卒業証書ももらったけれど、ろくな仕事がありません。これが、あなたの国なら、高卒や大卒や博士号なんかの資格があれば、就職して毎日いい暮しができます。こんなことはすべて神様が(最後の審判の時に)お尋ねになることでしょう。あなた方は私たちを差別しようとしているのです(Mnatamani
kutubagua
sisi)。わたしたちはみんな神様のために生きているのです。神様はみんなのたった一人のお父様なのです。それなのに、あなた方は差別をしようとするのです。
人類学は何の役にたつか
その後、文科系の、税金の無駄使いと思われがちな文化人類学などの学問の存在意義は、私にとって重要な関心でありつづけている。
最近私がブログに載せた記事「いますぐ役にたつ学問はすぐに役にたたなくなる:文化人類学の場合」(http://ankei.jp/yuji/?n=2110)から抜粋して、人間を対象とする「民俗学」や「文化人類学」といった野外科学の存在意義について、考える材料としてみたいと思う。
S’il vous pla醇at. Dessine-moi un anthropologue ! (お願い。人類学者の絵を描いて)
──あのお、文化人類学って、何の役にたつのですか?
(ひねくれのわたし):すべてを効用とそれにともなう儲けでしか理解できないものの見方、考え方を根底から破壊するために役立つのです(=役に立ちません。何についても「何の役にたつの」という問いしか浮かばないかもしれないあなたのような人の頭の中をぐるぐるの
??? でいっぱいにするのに役立つとはおもうけれど)。
──??? 文化人類学って、何の役にたつのですか?
(ことばが通じないと知ってすなおにもどったわたし):人間は、みんなちがってみんな変。このことを実感することで、じぶんたちだけが正しい、という独善からめざめ、戦争につながる道を歩まないために心の中の歯止めをかけるために役立つのです。We
Are Right(われわれは正しい)を略してWAR(戦争)というのですよ。だから、平和の根本を深く学ぶための学問です。
──文化人類学って、何の役にたってきたのですか?
植民地支配の重要な道具となりました。1857年、インド全土で蜂起が起こり、イギリスの支配に立ち上がりました(私の高校時代にはセポイの乱と習った)。そのきっかけは、雇兵(セポイ)に渡された新式鉄砲の火薬と弾を包んだ紙の防水に、牛あるいは豚の脂が使われているという噂でした。もし有能な文化人類学者(民族学者ともいいました)が、支配側におれば、牛と豚のどちらの脂肪でも大きな問題となることを踏まえて例えば植物性の油脂をつかうことを進言していたでしょう。
話は飛びますが宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』(徳間書店版)の終わりのへんで、学者たちがつくった生物兵器に自分たちの国土がすっかり飲み込まれるのを見た大僧正のチヤルカが嘆くところがあります。「僧会に生態学者はいなかったのか」。第1次インド独立戦争の例では、まさに、「帝国に人類学者はいなかったのか」だったのです。(http://homepage2.nifty.com/shworld/07_whitakers/07_10c/07_10c.html)。
──それじゃあ、文化人類学者って、何の役にたつのですか?
文科系の学問は社会的ニーズが低いから、そういう学部(文学部とか人文学部とか国際文化学部とか)は、さっさとつぶしなさい、というような、日本の未来を知る「文科省」からの圧力に対して、研究者として個人として、また集団としては学会をあげて抗議するといった行動をとる場合に、役にたつのです。そのように動けないとすれば、しょせん何の役にもたたず、帝国とともに滅びるように運命づけられた呪われた種族だったということになるでしょう。
大学人は地域の触媒
山口大学に勤務していたころは、教員としては地域社会との関わりをほとんど持たずに暮らしていた。山口県立大学に移籍してからは、地域貢献型の大学ということで、それが大学教職員の仕事のひとつとなった。
1981年の春、29歳になっていた私は、就職がみつからないので大学院の在籍を2年間伸ばしていた。ようやく常勤講師の仕事にありついた沖縄大学は「地域に根ざし、地域に学び、地域と共に生きる、開かれた大学」と自己規定する私立大学だった。そもそも国際大学との合併と郊外移転に反対した二部の勤労学生の声に端を発して、文部省の「廃校処分」を乗り越えて県都・那覇市内に留まることになった地域密着型の大学だ。
最近書棚から、沖縄大学への応募書類の一部として書いた手書きの「抱負」が出てきた。私の山口大学時代にはほぼ封印されていた地域との関わりの基本路線が、すでに大学院生の時代にはほぼ一定の形をとりつつあったことがわかるので、長文ではあるが全文引用してみたい。
タイトルは「一大学人として私は沖縄で何をなすべきか」であった。
「バカセなら毎年何十人も来るぞ。」初めて西表島を訪れた私に島の青年が投げかけたことばである。このことばの意味は、「いろいろな調査と称して、なに学だか知らないけれど実に多くの人々が西表にやってくる、おまえもそんな連中のひとりだろう」ということであった。自分たちの島のためになると思えばこそ西表島の住民は多くの「調査」に協力してきたのだ。その期待とはうらはらに、調査の結果が、「島民のために」という視点からフィードバックされた例を私はほとんど知らない。それどころか、植物や鳥や昆虫の調査なのだから、その結果は島民には関係ないといわんばかりの傍若無人な「調査者」も数多い。人文・社会科学に範囲を限っても、忙しいスケジュールで来島し、島の生活のゆったりしたリズムを
攪乱し、まるで尋問するようにききこみ調査を行おうとする例を私はいくつか知っている。
西表島に限らず沖縄(ないし琉球弧)は諸学問上の宝庫といってよいフィールドである。人類学的に見てもきわめて多くの問題がほとんど手つかずのままで残されている。しかし学問のためだけのフィールドであるというとらえ方は危ういと私は考える。その理由として、私の専攻する人類学の視点をひとつあげておきたい。人類学がもっとも人類学的であるのは「どの部分も全体と切り離すことのできない一部である」とするその綜合性(holism)である。ある島の生活のごく一部、たとえば稲作儀礼を研究するためには、その島の自然環境全般、集落と人々が歩んできた道のり(歴史)、稲作体系、他の諸産業、言語等々のすべてについてその全体像を把握しておく必要があるという要請である。この視点立てば、
ひとつの地域での息の長い調査
こそが実りあるものになりうることは自明である。そして継続調査をするためには、地元の人々の理解と協力が不可欠であることも、私の決して多いとはいえない経験からも明らかであった。
沖縄の島々の島民は多くの悩みをかかえている。その悩みは一人一人の毎日の生活についてであるが、全体としてみれば、過疎、医療・教育のたち遅れ等々の島のあり方そのものにかかわるものでもある。農業をするために西表島へ帰ってきた青年が直面するのは、優良農地の多くが大企業によって買い占められていて、過疎なのに農地がない、という問題である。最近はCTS、原発関連施設、大レジャーランド計画などが続々と西表に持ち込まれ、島の道路をどうするのかという問題は、ひとつの島の中での深刻な問題の対立をひきおこしている。例えば竹富島は、最近では島をあげての観光ブーム、民宿ブームのようであるが、その中にも、牧野組合、養蚕組合の活動がおこっている。西表島の稲作農家にしても、機械化、
農薬と除草剤使用による大規模経営をめざすグループと、その動きに危惧をいだき「西表式農法」を提唱するグループとがある。いったい島の進むべき道は、誰がどのように決めれば良いのだろうか。このような情勢の中で、大学がいかなる役割を果たすべきかについての私見は末尾に示すが、ここでは一つの例として、琉大医学部と沖縄の医療問題を考えておきたい。新設医学部に沖縄から何名が合格するか(という問題は学力レベルという別の問題にもなるのでここでは触れないが)、そして将来その卒業生が医師になるときに、どのくらいの間、沖縄の島々に残って各離島の深刻な(良質の)医師不足にこたえてくれるのだろうか。ことの推移を見守りたいと思う。
琉球弧の島々ほど、地域内でその自然、歴史、言語、ものの考え方などが異なっていて、しかも宮古、八重山といった地域ごとに、そのアイデンティティを強く求めている地域は日本にはあるまい。これは私の八重山での経験と奄美での見聞(私の祖父は加計呂麻島の生れである)とからのひとつの結論である。島ごとに非常に異なる風土――沖縄風に言えばフンシ(風水)――が、島ごとの独自の歩みと深いところで結びついていることを感じないではいられない。たとえば西表の人々は昔からイノシシやガザミなどを島の外に売るということをしなかった。よほど余れば売ってもよいが、そんなに余るほど獲る必要はないというのが自然資源に対する基本姿勢であった(今ではずいぶん変ってきているが)。
西表西部の干立・祖納の人々は昔は崎山に牧場をもち、今でも鹿川まで漁や狩りに行く。集落から遠い、一見無人地帯のような所にもくまなく島民の手が加わってきているというのが、私の廃村調査のひとつの発見であった。このように多様な環境を熟知し、それを無理なくしかもくまなく生かして多様な生業を営むというのが、西表の伝統的な生活であった。そのような生活のあり方は、例えば私の調査した中央アフリカの森林の中の生活とも一脈通じているのであり、学術的にもその自然資源利用の比較はきわめて興味あるテーマである。竹富島から西表島へ嫁いできたある女性の言葉に「竹富の人はいつも今日のことを考えているのに、西表の人はどこか遠い所、たぶん2、3年先のところを見ているみたい。」
というのがあった。同じ八重山の
隣りあう島なのにこんな大きなもののとらえ方の差があるのである。このような風水の差とそれにはぐくまれた伝統的な知恵をふまえることなしには島の特徴を生かした地域発展(八重山の人々はこれを「シマおこし」と呼びはじめた)は不可能であろう。画一的施策や、アメリカ式、ヤマトゥ式の直輸入が沖縄の島々に根づくことがほとんどないのもこのためであろうか。
島々の差――実にこの点に沖縄における大学および大学人のはたすべき役割はかかわってくる。それは研究活動においても、教育においても、地域のかかえている問題解決においても、すなわち大学のおこなうすべての活動についてあてはまることである。
研究について。地域に密着した長期継続調査をおこなう。人類学の野外調査の場合、ひとつの地域を総合的に調べるための最低一年間の住み込み調査と、地域間の比較を試みるための短期広域調査の両方を組みあわせる必要がある。この両者なしに国際的水準の研究をおこなうことは極めて困難である。南島研究者の連絡と討論の場を提供することも、大学や博物館のはたすべき重要な任務である。
人類学の教育について。大学は学生に対する教育だけでなく、それ以外の人々にも、必要に応じて門戸を解放することができる体制になることが望ましい。そのためには、地元優先の短期聴講生制度や県内各地域にセミナーハウスといった制度の実現が望まれる。このセミナーハウスは研究の拠点ともなり、後述のように地元住民・学生・研究者の相互研鑽の場ともなるべきものである。教育内容の中核は、島々の――沖縄出身の学生にとっては生れ島(ウマリジマ)とそのほかの島々の――生活環境、産業、言語、社会構造、宗教、世界観等の相互比較および国際比較というテーマになるだろう。学生達が実際に島々を訪れてその島の実態を学ぶことが教育の手段として重要かつ効果的である。セミナーハウスはそのためにも、なるべく多
くの島にもうける必要がある。島と島民から学ぶことが、学生の教育にもなり、研究にもなり、かつ島の人々との討論を通じて(生れ島を含む)島々のかかえる問題をぶつけあい、交流させることができる――そのような交流と相互研鑽の場が生み出す産物は、単なる研究や教育を超えて、地域をつなぎ、つき動かしてゆく原動力ともなり得よう。
地域の問題解決のために。次のようなスローガンがあるという「地域のために、民衆は力を、学者は知恵を、行政は金を」。たしかに学者または研究者は住民の先頭に立ってシマおこし運動の中心的エネルギーになることはできない。またそうすべきでもないと私は思う。しかしまた行政側の施策を無反省に住民に押しつけることに決して加担してはならない。ただし、これまでのところ住民と行政の間に根強い不信感があることも否めない。西表の例では網取廃村の土地を竹富町が無償で東海大学へ供与したこと、ヤッサ島の開拓農民が払い下げられた土地をヤマハに転売したことなどがその相互不信をあおった。しかし、地域の発展のためにはこのままでは前途多難である。住民の要望とエネルギーの向かう
方向に沿って行政側が動く
ように尽力するのが、地域を詳しく研究している知識人の地域に対する最大の貢献となろう。このことを比喩的に表現するなら、地域という化学反応において、大学人は有効な触媒であらねばならないのである。
島の将来をつくるのは島の青年達である。彼らは例えば西表島の農業なら耕地不足の問題、何をどのように栽培し、どのように出荷すべきかについて多くの問題をかかえている。このような現状に対して、農業改良普及所は石垣島にしかなく、西表に長く滞在することができない普及員は水田のハル名すら知らないというのが実状である。大学人は客観的かつ詳細に島の現状を把握したうえでなければ、有効なアドバイスをすることはできない。このためにも、各地に地道な研究の体制をもつことができるのならば、大学のはたす役割は大きいものがあろう。一度は島を出て、多くはヤマトゥに数年をすごし、それでも島に帰ってきている青年達がふえている。このような青年達が、自分とシマの可能性を切り開いてゆく努力を
サポートすることができるかどうかで、「開かれた大学」の内容は評価されるであろう。
1981年2月23日 京都にて 安渓遊地
悔しさを原動力に
私と妻のアフリカ研究は、ある事情で1983年に中断を余儀なくされた。私が「世間をお騒がせ」したために海外に赴く研究者にとって主食とも言える科学研究費をもらえなくなったのだった。
1983年の旅のはじめに、キンシャサの在ザイール(コンゴ民主)日本大使館を訪ねた。先に到着していた研究室の先輩の丹野正さんからの手紙を大使館員から受け取った。そこには、ホテルでの支払いを現地通貨でできるように大使館が手紙を書いてくれたので君も書いて貰えばいい、と記されていた。さっそく頼んでみたら「そのようなサービスはしておりません!」とにべもない。前の年は、空港まで出迎えてくださり、大使公邸での食事会にまで招待されたので、ナイロビからテレックスで空港への出迎えを依頼しておいたのだったが、わずか3年で「空港への出迎えは、国会議員にだけおこなっていますが、その場合も燃料代は負担してもらっています。」と掌を返したような対応になっていた。
私は、大使館に御礼の葉書を出して内陸部に旅立ったが、このあと、キンシャサの大使館から外務省にあてて概要以下のような公電が打たれていたのだ。「科研費で滞在中の山口大学の安渓遊地助教授から無理な要求をされたが、大使館では一切そのようなサービスをしていないので、外務省から文部省に科研費の運用のあり方について連絡して、今後の再発防止を徹底すること」。
「君、なにしてくれたんや!?」──科研費の研究代表者だった掛谷誠さんから電話があったのは、腸チフスを土産に帰国した私が山口県立病院の隔離病棟からようやく退院した年末だった。文部省の担当者から掛谷さんの勤めていた大学の事務局長に電話があり、「こんな不祥事を引き起こして、あなたの大学では今後いっさい科学研究費の支給が受けられなくなってもいいんですか!」ときつく叱られたというのだ。
さぁ、どうしよう。泣こうか、それとも怒ろうか。掛谷さんに一応の事情を説明したあと、指導教員であった伊谷純一郎先生に電話で相談した。先生は冷静に「コンゴ川に日本の借款で橋を架ける工事が始まって、日本人がものすごう押し寄せたから大使館も大変なんやろう。そういう情勢の変化はようあることや」となぐさめてくださった。それでも、私は、私の名前が文部省の要注意人物リストに載り、その先あらゆる科研費からずっと外されることを覚悟せざるを得なかった(実際、ほとぼりが冷めて次の海外科研費の調査隊に加われたのは6年後の1990年だった)。私が属していた京大理学部自然人類学研究室の助手だった原子令三さんが、コンゴ・ザイールで便乗したトラックの横転事故で重傷を負って帰国したあと、アフリカ行
きの科研費メンバーから外されたのを見ていた。だから、こちらに非があろうとなかろうと、世間をお騒がせしてしまった以上、じたばたしても、傷つくのはこちらだけだ。しかし、研究仲間がどんどん海外フィールドワークに出かける中で大きなハンディがつくことは悔しい。キンシャサの大使館員に公電を撤回させるといった幻想をすてて、別の闘争を準備することにした。ただちに民間助成財団の研究助成の獲得をめざして走り出したのである。日本生命財団の助成による2年間の西表地域研究(後に安渓編著、2007および安渓・當山編著、2011として出版)と国際文化会館の新渡戸フェローとしての1986年からの2年近いフランス滞在は、この準備の結果だった。
「役に立たない学問」への圧力に抗して
2015年の国立大学の「交付金」を3類型化するという文科省の決定によって、「地域貢献」型を選択したのが、宮城教育大、埼玉大、滋賀医科大など55大学、「教育研究」型は、東京医科歯科大、奈良女子大など15大学、「卓越した教育研究」型は、筑波大、東京大、京都大など16大学となった。地域に根ざした教育研究をしてきた公立大学や一部の私立大学と同じ土俵に大多数の国立大学が参入するという事態である(旺文社「教育情報センターニュース」平成27年9月)。
その中で、長い時間をかけてていねいに育んでいくしかない、地域との人間的信頼関係の上で行っている、キャンパスを飛び出す授業の運営方法を、なんとかマニュアル化して手っ取り早く取り入れたいという動きも、一部の国立大学では急であるようだ。
私と妻が触媒となって、山口県立大学の学生が地域でお世話になっている例は、阿武町福賀21年、山口市徳地12年、防府市富海5年などのかなり濃密な人間関係の積み重ねの上に、相互に安心して学生を送り、受け入れていただけるようになっていて、ともに海外にも出かけるといった取り組みもできるようになってきているのである(児玉編著、2016)。
人間ビビンバ──違うものをよく混ぜ合わせると味が良くなる
最近よく言われるサービスラーニングという言葉は、日本語での「サービス」に無料という意味もあることから、大学生の無償ボランティアかなどと誤解されやすい面がある。この言葉が1970年代の終わりに合州国で言われ始めたもともとの意味は、地域の真のニーズに応える(serveする)ことと、それを通して他の方法では得がたい学びを得る(learnする)ことが、互いに深く結びついて均衡がとれている、そうしたプログラムを指すものだった(Furco、1996)。
地域住民が、大学生や大学教職員にやって欲しいと思っているものだけが「地域の真のニーズ」ではない。例えば、多くの日本の田舎や都市では、自分と異なるものを知ろうとせず、排除してしまう傾向がある。世界にはもっともっと違う人たちが住んでいることをきちんと伝えて、移民や外国人なども差別せずに受け入れ、ヘイトの連鎖を防ぐことも大切な取り組みであろう。
2000年代に入って、全京秀教授は、韓日の若者が、韓国の田舎の珍島を訪れて地域の行事に参加する合宿を何度か企画され、私も学生を連れて参加させてもらう機会があった(http://ankei.jp/yuji/?n=596)。全教授の言葉で言えば、「人間ビビンバ」を作るのである。出会ってすぐはぎごちないが、2日もすると、しだいによく混ざりあってくる。ビビンバは混ぜれば混ぜるほど味が良くなるので、人間ビビンバというのだ。
ボストン大学のアダム・セリグマン教授(宗教学)は、この15年ばかり、さまざまな文化的・宗教的な違いをもった若者達が、2週間をともに過ごすことで「違いを生きる」ことの重要性に気付くという教育プログラムを世界中で展開している。CEDAR(Communities
Engaging with Difference and
Religion)と名付けられたその取り組みは、2003年にボスニアとヘルツェゴビナとクロアチアで2週間のプログラムを行ったのが、CEDARの具体的な始まりだった。宗教的に異なるさまざまアイデンティティをもった人々がともに暮らし、共通点見つけをめざす従来のアプローチとは違って、自らのアイデンティティ
保ちつつ、相互に大きな違いがあることを認め、「他者」から学ぶという意欲的なプログラムである。それ以来、毎年ブルガリア、イギリス、イスラエル、インドネシア、ウガンダ、アメリカなどで開催してきた。のべ50ヵ国から学生、社会人、宗教指導者と社会のリーダーたち合計400人が参加している。「大嫌いな人たちとも友だちになれることを学んだわ」という参加者の声が印象的である(CEDARの和文紹介http://ankei.jp/yuji/?n=2261)。
この「移動大学」的なプログラムは、大学・学生・地域というわくを大きく越えて、世界に展開している。2017年1月から3月にかけて、セリグマン教授は山口県立大学にフルブライト奨学金による客員として滞在されるので、3月末の下関・釜山・対馬・博多での市民参加型学生実習に参加していただき、東アジアでの「違いを生きる」智恵について、いろいろ学びあいたいと願っているところである。
移動大学運動の理念を、20世紀の終わりにケニアで出会った12の言語を自在に操る国際法学者のオメド・ミサマさんと共有し大いに共感した。その交流のなかで得られた以下の気付きを、今年度、同時に大学の定年を迎えることになった坪郷英彦さんと、自らへの励ましの言葉としたい(Misama著・安渓抄訳、1998)。
大学よさらば──生命系の宇宙に根ざしたコスモシティの提唱
総合大学・ユニバーシティは、その名のとおり物理的宇宙・ユニバースに基礎をおいている。長年の大学教員としての経験から、その限界を明らかにし、調和のとれた生命系の宇宙としてのコスモスに基礎をおく本当の大学・コスモシティを提唱したい。
現在の大学制度は、貪欲で傲慢な知の追求と獲得を是とすることで成り立っている。そこには次のような様々な思いこみが存在する。1)知の技法は大学と(紙切れ一枚が証明する)大学卒業者の専売特許だという思い上がり。そのため、大学外の智恵と知識の保持者を単なる情報提供者(インフォーマント)と見下し、机上での記号の操作を実態の把握と思いこむ。2)さらに、大学の知は限りないものであり、なべて世のためになると盲信する。3)最大の欠陥として、知識はいわゆる先進国からその他の世界へ流れるものという決めつけがある。
世界の先住民族や少数民族の文化を調査する社会科学者を例にとってみよう。コスモシティにおいては知の授け手(コスモケーター)は、自分たちの貴重な智恵と知識を分け与えてくれる地元の人々であり、知の学び手(コスモケーティー)はいわゆる学者や学生である。しかるに現在は、授け手が単なる情報提供者と貶められ、学者たちは調査や引用という名の海賊行為によって土着の文化の権威とみなされる。コスモシティにおいては、教え学ぶことは、建物や研究室や高額の授業料や進級制度等々の枠の中に閉じこめられるものではない。
もしも、現在の大学が僭称しているように、人類普遍のユニバーサルな知を大学が授けるものであるのなら、世界のどこの大学で得た称号も同じ価値をもって当然のはずではないのか。東京大学を出た人とダレサラーム大学を出た人が均等の機会でロンドン大学で教鞭をとるというふうになるものではないのか。
コスモシティにおいては、生命系としての宇宙の森羅万象が研究の対象となり、そこではすべての存在が相互に尊重され、日々の日常の中で誰もが互いに知の与え手と受け手となるであろう。現在のような制度にしばられた大学ではなく、コスモシティを実現して初めて、自滅への道を暴走する人類を救う道も開けるものと確信している。
謝辞
知の授け手(コスモケーター)として、自分たちの貴重な智恵と知識を惜しげなく分け与えてくださった地元の人々に心から感謝もうしあげます。全京秀教授と安渓貴子とは、知の学び手(コスモケーティー)の仲間としての励ましを共有してきました。
引用文献
安渓遊地、1998「あなたがたは差別しようとするのです──あるコンゴ女性の声」『ふくたーな』日本学術振興会ナイロビ連絡センターニュースレター4:6ー7、日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター
安渓遊地編著、2007『西表島の農耕文化──海上の道の発見』法政大学出版局
安渓遊地、2014「地域が教室・地元が先生・地球がキャンパス──大学の一般教育で『地域と環境』を伝える試みの20年」『山口県立大学学術情報』7:
17-31
安渓遊地、2016「西表島の廃村ですごした日々──わたしのはじめてのフィールドワーク」秋道智彌他編著、『人間の営みを探る(フィールド科学の入口)』玉川出版
安渓遊地・安渓貴子、2000『島からのことづて──聞き書き・琉球弧の旅』葦書房
伊谷純一郎先生の教育については、以下に抜粋ありhttp://ankei.jp/yuji/?n=117。
安渓遊地・安渓貴子、2010『大学生とマチに出よう──地域共生授業をつくる』みずのわ出版
安渓遊地・井竿富雄共編著、2016『東アジアにきらめく──長州やまぐちの遺産・自然と文化の再発見』山口県立大学COCブックレット「新やまぐち学」6、288頁
安渓遊地・当山昌直編著、2011『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社
安渓遊地・平川啓治編、2006『遠い空──國分直一、人と学問』海鳥社
Bualy, S. H., George James Magembe, E. O. Ashton,1950, Linguaphone
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Furco, Andrew,1996, Service-learning: Balanced Approach to Experiential
Education, Service Learning General Paper 128
http://digitalcommons.unomaha.edu/slceslgen/128 (retrieved on 6th Dec.
2016)
児玉識編著、2016『増補改訂版・上山満之進の思想と行動』海鳥社
Russell, Bertrand, 1954 Knowledge and Wisdom,
http://russell-j.com/1073-KW.HTM (2016年12月14日閲覧。このサイトでは、原文がas fat as
possibleと誤記され、「いまここでという暴虐からのできるだけ太った解放が智恵だ」となっている。)
Misama, Omedo著、安渓遊地抄訳、1998 Towards Cosmosity from
University「大学よさらば──生命系の宇宙に根ざしたコスモシティの提唱」『ふくたーな』第7号、日本学術振興会ナイロビ連絡センターニュースレター、日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター
http://www.jspsnairobi.org/newsletter(2016年12月7日閲覧)
宮崎駿、2003(再刊)『風の谷のナウシカ』徳間書店
宮本常一・安渓遊地、2008『調査されるという迷惑──フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版
旺文社、2016「教育情報センターニュース」平成27年9月
http://eic.obunsha.co.jp/resource/pdf/educational_info/2015/0904_k.pdf(2016年12月6日閲覧)