台湾と山口)台湾生まれの知事・小澤太郎氏が先頭にたって座り込むとまでいって守った秋吉台
2016/09/15
昨日、台北から山口宇部空港へのチャーター便が就航し、秋吉台とかをみてみたいということをお客さんがいっていましたね。
実は、秋吉台と台湾には深いえにしがあるのです。
最近書いた文章からの抜粋をおめにかけます。
……
国分・金関への上山総督の影響は、研究プロジェクトを通して間接的なものでしたが、上山満之進に直接抜擢されて、台湾および山口で活躍した山口人があったことを示す資料があったことに最近気づきました。萩から台湾に移った両親のもとで嘉義に育ち、一九四八(昭和二十三)年から山口県副知事・知事・衆参議員を歴任した小澤太郎(一九〇六~一九九六)が、死の半月ほど前に家族に渡したという自分史『風雪』(小澤、二〇一二)がそれです。
小澤太郎は、東京帝国大学法学部在学中、毛利家が出資し、上山満之進が世話人をしていた「防長教育会」の奨学金を受けていました。奨学生は、毎月一度集まって奨学金を受け取りましたが、その例会で自分の研究を発表することになっていました。小澤は「台湾高砂族タイヤル族の、酋長、頭目を中心に社会秩序を維持するための種々な原始的なおきてやタブー等について、それが意外にも民主的な面のあること等を述べ」ました(小澤、二〇一二、三四頁)。その発表を会場にいた上山が聞いていたのです。そして、小澤本人の知らないうちに、台湾総督府への就職が決まっていました。大恐慌のさなかの就職難を描いた小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」が公開された翌年の一九三〇(昭和五)年のことでした。ち
ょう
陳澄波が上山のために「東台湾臨海道路」を描いた年です。途中、一年半の「内地」勤務を経て、小澤は、一九四一(昭和十六)年二月、台湾総督府の警務局警務課長兼衛生課長を命ぜられます。これは、全島の警察業務を統括する極めて重要なポストでした。
小澤は、課長に就任するや直ちに、第十八代長谷川清総督(海軍大将)に面会して次のように意見を述べました。「湾生」と呼ばれた台湾生まれの面目躍如というところです。
自分は台湾に生まれ育った者で、台湾の友人が多く、その人々の心を自分は理解している積りである。領台依頼總督府の辛苦経営により、産業は興り、経済は発展し島民の所得も増し、生活環境は著しく改善された。台湾統治の目標は島民を幸福にすることにあると思う。物質的幸福はあっても、心には多くの不満がある。それは、法制的、社会的不平等であり差別である。これを一日も早く是正することこそ府政重点でなければならない。国家非常の事態が予想される今日こそ、特にこの政策が強調されなければならない。然るに、今日この目標に逆行して、島民の宗教や信仰に干渉し、長い年月に培われた伝統の文化を無視して、性急な同化政策を押しつけることは、誇り漢民族の血を引く本島人にとって耐へ難い屈辱感を心底
に潜
させている。島民と心から手を取り合って、非常事態に対処することこそ、執るべき政治であると確信する。就ては文教局が指導している、偏狭且つ性急な同化政策を即時停止させて戴きたい。自分は担当の治安対策からも、全島の警察に対し、このことを指示したいのでお許しを戴きたい……
これに対して長谷川総督と小澤の間に、次のようなやり取りがあったといいます。
長谷川:自分は全くお前の意見と同じである。実は近衛(文麿首相)から大政翼賛会(だいせいよくさんかい)の支部を台湾に作るよう要請して来ている。自分は賛成しがたいが、お前はどう思うか。
小澤:自分は、閣下のご意見の通りで、賛成致しかねます。大政翼賛とか、八紘一宇(はっこういちう)とか、忠君愛国等、島民には理解し難く、全くなじまない思想である。本部の指示によってこのような考へを島民に押しつけることは絶対にさけなければならない……(小澤、二〇一二、五四~五五頁)
当時公表された文献は、ことごとく軍部の検閲を受けていました。ですから、このような会話がなされたことを、史料をもって立証することはなかなか難しいことです。圧倒的な力で迫ってくる中央からの圧力の中で、実現は難しかったけれど、しかし、行政の現場にも、学者たちの中にも、台湾での皇民化運動に抵抗しようとする意志と行動があったのでした。
台湾で活躍した山口人はこれだけではありません。インフラ整備で言えば台湾鉄道建設を進めた技師長谷川謹助(山陽小野田)がいました。昭和七年ほぼ同時に台北と台南に出現した二つの百貨店の創設者、林方一(山口市徳地柚木)と重田栄治(岩国)は、二〇一三年の林百貨店のリニューアルオープンによって再び注目されています。一八九六年、台湾での日本語教育史の原点・芝山巌(しざんがん)で抗日テロに倒れた六人の日本人教師の中に、楫取素彦の息子の楫取道明ら二人の山口県人がいました。上山満之進の前にもそういう多くの山口県人がいたのでした。山口県の歴史が好きなら、見逃せないスポットが台湾にはたくさんあるのです。
また、台湾での稲作改良と増産に大きな成果をあげた磯永吉農学博士(元台北帝国大学教授)を、山口県の農業の発展のために小澤知事が県顧問として迎えたことも忘れてはなりません。台湾政府は、磯博士の功績に感謝するため、終生、彼が栽培を軌道に乗せた水稲内地種「蓬莱(ほうらい)米」を毎年二十石(三六〇〇リットル)ずつ磯博士に贈り続けたのでした
(https://www.jataff.jp/senjin2/22.html)。
磯博士の山口県での仕事は、一九五八年七月から一九六二年三月まで続いたようですが(山口県農業試験場、一九九六、二七二頁)、山口県農業試験場では、磯博士が作らせた木版刷を新入職員への訓示として配るという習慣が昭和四十年代までは続いていたとのことです。それを受けとったという阿東徳佐在住の吉松敬祐氏は、わが家の農的暮らしの師匠ですが、その磯博士からのメッセージを鮮明に覚えておられます。それは「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺(爾(なんじ)の俸 爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)」というもので、民が幸せになることで初めて、役人は給料をもらえるのだということを肝に命じよという内容でした(原典は丹羽高寛(たかひろ)・会津二本松藩五代
主)
磯博士の功績は、日本ではすっかり忘れられていますが、台湾大学構内の中央図書館の近くに、磯永吉博士の作業小屋が当時の形を残したまま記念館になっており、「蓬莱米の父」磯永吉と「蓬莱米の母」末永仁(めぐむ)の膨大な資料が保管・展示されています。台北に行ったらぜひ訪ねてみましょう。
四、いま山口人が台湾に学ぶべきこと
こうした台湾との濃厚な人的交流の歴史を、維新の歴史の顕彰にはたいへん熱心な山口県の人々は忘れたのでしょうか。山口県美祢市は、海に面していないという共通点があり、特色ある地質に共通性があるとして、観光の促進をめざす姉妹提携を台湾南投県と二〇一一年に締結しました。しかし、南投県は、一九三〇(昭和五)年の霧社事件のような原住民族による日本人の襲撃・虐殺やその後の残虐きわまりない報復の歴史と記憶が刻まれた場所でもあるのです。また、美祢市の秋吉台は、一九五五年に米軍の射爆場となる計画でしたが、官民学あげての反対運動の結果、計画を撤回させることに成功したのでした。その先頭に立って米軍司令部に乗りこみ「若し爆撃演習を強行するなら、知事自ら現場に座り込むとまで言った
」の
、当時山口県知事であり、上山満之進に見出された「湾生」の小澤太郎氏であったこと(小澤、二〇一二、一〇九頁)などを思い起こせば、この姉妹提携もさらに意義深いものとなるではありませんか。