追悼)無名の庶民のなにげない言葉に耳を傾けた永六輔さん
2016/07/11
2016年7月7日 永六輔さんが亡くなられました。祝島に来られたりしていましたが、直接お会いする機会を得ませんでした。ずいぶん前ですが、石垣島の新聞に投稿した記事を、追悼の気持ちをこめてシェアいたします。
(横松和夫さんも、2010年に亡くなられました。)
永六輔さんのいしがき市民大学学長就任を歓迎する(『八重山日報』2001年1月26日号)
安渓遊地
「日本最南端・いしがき市民大学」の学長に、このたび永六輔さんが就任された。すばらしい人選で、石垣博孝実行委員長、石垣精一郎事務局長をはじめとするスタッフの見識とお骨折りに心からの敬意と感謝の意を表しておきたい。
「こうやってね、毎朝、魚を売って歩いているのよ。80をちょっと越しましたけどね。
毎朝、こうやってね、魚を売ってるの。
魚はね、おじいちゃんがひとりで漁に出てね、こうして、私が売る分だけ釣ってくるんだよ……
ありがたいこと、ありがたいこと。」
永六輔さんの大ベストセラー『大往生』(岩波新書)の中の、糸満のおばあちゃんの言葉である。永さんは、この無名のおばあちゃんの言葉に次のようにつけ加えている。
「こういう『しあわせ』が厚生省の役人の頭の中にないのだ。
ここには、余計に釣られない魚の『しあわせ』もある。」
ラジオを主な舞台にした永さんの語りの魅力は、早くから知っていたが、改めて読み直してみると、忘れられたような片隅に生きる無名の庶民たちのなにげない言葉にじっと耳を傾ける永さんの姿が浮かんでくる。そして、そのやさしい言葉の中に、今の社会のあり方や自然との関係のおかしさをずばりと指摘するしなやかで強い芯を見つけだしていく、という見事な才能を随所に感じるのだ。このような学長を迎えて、日本最南端・いしがき市民大学は、21世紀にふさわしい他に例を見ないユニークな市民大学として順調なスタートを切ることを確信している。
話は20世紀にもどって恐縮だが、昨年末に作家の立松和平さんが「一身上の都合」で市民大学の学長を辞退することが発表された。いったい何があったのだろうと不審に思っておられる方も多いと思う。学長辞任劇の当事者のひとりとして八重山の皆様に事情をご説明しておきたい。
私は、この10年近く、立松氏の筆の暴力に対してプライバシー侵害の被害者とともに戦い続けてきた。1993年11月16日号の本紙に、私は「取材される側の人権は?」という記事を投稿して立松さんの八重山の人々を題材にした執筆活動に苦言を呈した。される側の同意なしの取材、無断で公表することによるプライバシーの侵害、そして、私の著作からの盗用の数々。作家としての人権感覚を問い、本紙上での回答を求めた。しかし、立松さんはその後不誠実としかいいようのない対応に終始し『週刊金曜日』に長々とした弁解を載せた以外には公の対応をしていない。
そんな人物が沖縄県初のはえある市民大学を利用して名誉回復を図ろうとするのを黙ってみすごすわけにはいかない。このままでは、また書かれる側、取材される側の被害者が八重山から出る……。ペンが人を殺すような事態を未然に防ぐために、石垣島在住の被害者の方々とともに私は立ち上がることになった。
具体的には、立松和平事務所にあてて、立松さんの筆の暴力の被害者を中心に結成した「立松和平対策事務所」の所員として、心ある方々とともにファックスを送って立松さんの学長辞任を勧告したのである。
永六輔さんの「無名人語録」(『週刊金曜日』連載中)では登場人物はすべて匿名である。これとは対照的に立松和平さんの場合は無名の庶民がプライバシーもあらわに実名で登場させられる「有名人語録」。私は妻と2人で昨年刊行した『島からのことづて――聞き書き琉球弧の旅』(葦書房、2200円+税)の冒頭に「される側の声――聞き書き調査地被害」を置いた。その中では立松さんを反面教師として、話者の人権を大切にし地域の方々の生活を乱さないために島の名前さえも伏せる徹底した匿名をつらぬいている。
4半世紀にわたる八重山地域研究の中でなにかにつけてお世話になってきた大恩ある石垣博孝さんをはじめとする事務局の方々に大きなご心労をおかけすることにはなったが、いしがき市民大学が永六輔学長のもとで、新しい世紀にふさわしい豊かな学びの場となるよう、できるかぎり応援させていただきたいと心から願っている。