島からのことづて)火山の島に暮らす----口永良部島のみなさんのお話(2001年)
2015/06/25
いま噴火でたいへん! の口永良部島におじゃましてお話を聞いたことがあります。
屋久島で出ていた季刊の『生命の島』57号:20-26頁(2001年秋)島からのことづて16
火山の島に暮らす----口永良部島のみなさんのお話
安渓遊地・安渓貴子
「熊毛は一つ」
この三月(2001年)に初めて訪れた口永良部島は、とてもひなびた湯のある穏やかな島でした。現在建設中の貴船さんのユースホステルに泊めていただき、そこを拠点に何人かの方にお話をうかがうことができました。
ところで、昨年来、馬毛島(西之表市)を核廃棄物捨て場にする計画が明るみに出て、それを阻止するために立ち上がった種子島・屋久島のみなさんのスローガンが「熊毛は一つ」でした。実は、私たちが暮らす山口県にも熊毛郡があるのです。瀬戸内海に面する柳井市から南に伸びる半島を熊毛半島といい、その南に連なる島が長島、祝島です。そして、長島の祝島に面した入り江に、中国電力上関原子力発電所を建設することが国の計画となって進められようとしています。祝島の住民は、もう二十年も反対し続けてきていますし、最近になって長島の海がすばらしい生物多様性をもつ場所であることがわかってきました。私たちの属する日本生態学会でも、昨年と今年の二回にわたって、「すばらしい自然のある場所なので、
環境影響評価は万全を期してほしい」という趣旨の決議をあげています。二つの熊毛郡を知り、ともに大切に思う者として、なんとか、この二つの熊毛の取り組みをひとつにつなぐ道はないものか、と思ってきました。
今回のお話は、山口県の長島の東側の平郡(へいぐん)島から、三島村の黒島を経て口永良部島に住み着かれた、Hさんとの出会いから始まります。山腹の傾斜地に一軒分の住宅地を切り開いた形のHさんのお宅で、移住のいきさつや、火山の噴火のことをうかがいました。私たちにとっては、まさに「熊毛は一つ」を感じさせてくれる旅になりました。また、前田の渡辺ミキさんのお宅にもおじゃまして、ご近所のお友達も交えていろいろなお話を楽しくさせていただきましたが、ここでは、噴火の時のことを中心に少しだけご紹介いたします。みなさん、ありがとうございました。
山口県・平郡島での暮らし
Hさん「私のおやじは、伊予(愛媛県)の松山の人。山でかせぐ山師やったが、オイ(私)の十一歳の頃には、山口県の瀬戸内海側の平郡島という島におった。自分は大正五年の生まれやが、愛媛で生まれたのか、それとも山口で生まれたのか、それはようわからん。オイのおった島には、部落が二つあって、西側の西平郡におった。向かいには、三日月のような島(八島)があった。その向こうには、長島とか祝島もあったなあ。」
----現在、平郡島が属している柳井市から松山市までフェリーが日に五、六便出ています。近いですよ。
Hさん「柳井というところも、ようおやじから聞かされよったな。平郡島は島だけれど、田が一町歩ほどあった。石垣で止めて草を夜中に切ってくる。それを田に入れて足で踏み込むわけ。それからスキで牛に引っ張らす。なぜわざわざ草を夜切るかというと、そうせんと人が切ってしまうからな。わしらの頃は牛は大事にしたよ。荷物は人間がかるうて(担いで)牛は前を歩かせていた(笑い)。」
----当時の生活はどうでしたか。
Hさん「牛に草を食わせながら海辺で昼寝をする。六月の照りあがった時には、浜の石の湯飲み茶碗くらいの大きさのが、一里ぐらい三日月型になって敷いている場所もあったとやからなあ。『油石』ちゅうて黒い堅い石があるところは、裸足で歩けば足が焼けて痛かったな。砂浜にいるムカデみたいな長いの(ゴカイ)をとって空き缶に入れて、これを餌にして釣れば、大きくても七寸まで行かないような魚がようつれよった。海底は砂浜よ。雨が降って海が濁れば、そこは、フグがいっぱいいよった。」
----山師というても、いろいろありましょうが……。
Hさん「おやじは、炭焼きをしよった。それしか能がなかったとやろうなあ(笑い)。あのころは、電気というものもガスというものもなくて、一般の人が、農家の人でもみんな炭に頼って生活をしていたわけ。私は、今ここに火鉢があるけれどな、これへ入れる炭は買いよるわけよ(笑い)。山が終わると『あそこがヨカちゅうど』というと、『そんならそこへ行ってみようか』というて、各地をまわったらしい。だから、財産とかそういうものもなんにもなか。」
----一町(1ha)の田んぼを作っていたとさっきおっしゃったのは?
Hさん「それは、農家の人がいっぱい作っちょった。いっぱい田んぼだらけではあったが、あれは、みんな人の財産よ。大きな溜めが田んぼの中にあって、人糞を町から運んでくる。そのころは機械船というのはないから、魯舟(ろぶね)に乗せて、ずうっと運んできて、女の人が五、六人で天秤棒で担ぎ上げて、その溜めの中に入れよったな。それを肥やしにしたわけや。」
黒島へ、そして口永良部島へ
----それで、山口を出られたのがおいくつの時でしたか。
Hさん「おふくろが黒島の人やったから、結局、山口県から黒島に来た。あれは、十三ぐらいになっとったかなあ。よう覚えちょらん。」
奥さん「私は、黒島の人。主人のお母さんも黒島の人で、私たちは、黒島で結婚したのよ。」
----どうして愛媛や山口の人とそういうご縁ができたものでしょうか。
奥さん「主人のお父さんは、黒島へ炭焼きに来ていたのよ。私の父ももともとは京都の人で、母は黒島の人でした。」
----こちらから黒島は見えますか。
Hさん「見えるよ。今なら、黒島までは早い漁船で一時間ちょっとでいけるやろ。今の船ならトッピーぐらい早いからなあ。」
奥さん「ここに来たのは、開拓で入ったんです。昭和三十五年に土地は配分してもらいました。畑だけで一町七反ぐらいあります。名義を自分たちになおすのに、屋久島へ行ったり、いろいろ大変だったんですが、畑だけは自分の名義になおすことができました。その他に採草地が五町歩あるんです。名義をなおすまで九年間土地代は払ってきました。」
Hさん「昭和三十五年に開拓に入る前には、ここの田代の下の方におって畑を借りて作っていました。ここは、十条製紙の土地やったが、政府が買い取って、個人個人に下げ渡したのよ。今でもほとんどの土地は十条のものや。」
----五町歩の採草地というのは、牛を飼うためにということですか。
奥さん「牛を飼っていたけれど、平成七年の二月に全部処分しました。七頭ぐらいおったかなあ。だんだん牛に力でかなわんようになりました(笑い)。」
Hさん「せりに村までひっぱって行く時なんか、外に出したら言うこと聞かんから。道の横がちょっと空いておるとそこをめがけて牛ん子はもう走り出します。」
奥さん「せりに出す牛を小屋につないで養って、せりにひっぱって行こうと思って、外に出して慣らそうとしたところが、その牛ん子が走り出して。もう、綱を放したところが、その綱がこっちの足にからんで、転んだことがあります(笑い)。そうして足がこねたわけや。転んだそこに何もなかったからよかったのよ。もし何かあったら、片足は折れちょった。」
----そりゃ、仔牛でもたいがい大きいですからね。一昨日船から下りてすぐに牛の競りを見てきました。博労さんたちも海がひどく荒れたので、船酔いでダレてましたよ。
Hさん「海が荒れて船が来んから積み出しもできんからなあ。」
昭和四十一年の大爆発と人々の離島
奥さん「あの当時、十一軒の人たちが開拓で入りました。みんな永良部の人やった。でも、あの噴火がしてからすぐ、ほとんどの人たちが出ていきました。亡くなった人もあれば、出ていった人もある。」
Hさん「あのころは、噴火がきっかけになったなあ。もうわしらも命はなかかなあ、と思うちょったから。知り合いが向江浜にいて、パルプ材を出すために集材機を据えて仕事を市よって、ワイヤーを外しに行った時に噴火が起こって、煙が風に乗って海岸めがけてザアーッときた。それをわしらは見ておったのよ。」
奥さん「あのときは、私は、寝待温泉の所に魚釣りに行っちょったのよ。寝待の温泉について、靴を脱いで、今お湯に入ろうかなあとしたところが、なんか大きな音がしたので、何か飛行機でも飛んでくるのやろうか、と思うて上の方を見ると、上の方にきらきら光ったものが飛んでくるのが見えてな、温泉の沖の方の海の中にそれが落ちたのを見たら、焼けた石やからガタガタたぎって。まあ、あのときは、ほんとに(笑い)。朝の十時頃やったかなあ、一番末の男の子を一人つれて行って、反対の方へあわてて逃げていきよった(笑い)。」
Hさん「オイはなあ、温泉のずうっと向こうに魚釣りに行っとった。ところが、飛行機がいくつも編隊を組んで来るような音がした。湯向の方向を見たときには、何か煙がバァーと上がるものやから、これこそ噴火ちゅうもんやな、と思うて。釣り竿なんか、そこにおいて温泉の方へ走ってきた。来るあいだにもう、温泉の上の竹山が焼けよったわ。焼けた石が落ちてくるから。だから、そこの下にも避難壕というあれがあるけれど、あれは何にもなりゃせん。あ、噴火じゃと気についた時には、もう焼けた石が落ちてくるから、間に合わんのよ(笑い)。その時、初めて噴火ちゅうのはこういうもんやなあ、とわかったわけ。」
奥さん「あれは、昭和二十何年やったか。いや、昭和三十三年生まれの末の男の子がちょうど五歳の時やからな。この場所になおってからやからな。昭和三十五年には、末の女の子が生まれ、この家がその年にはでけたとやから。」
----役場の記録では、昭和四十一年十一月二十二日、午前十一時三十分となっていますね。
噴火の力
Hさん「でっかい石が道路に落ちて、道路なんかあちこち通れんところがありよったな。今でも、大きな岩が海に落ちて、山の方がくぼんで海の方が高くなっている所はいく所もある。石が何メートルも海の方へずり落ちてな、そうしたらそこが禿げ山のようになる。焼けた石やから軽石のようなものかと思うたら、これが鉄のように堅いのよ。」
奥さん「道路には畳一枚敷きぐらいの石が飛んできて、そこがボクッと引っ込んでしもうておるわけ。あんな石をようまあ飛ばしますなあ。厚さもだいぶん厚かったよ。噴火のあと、測量で火口の近くまで行った人が見たら、そこらの木はみんな吹き飛ばされて、そこには何もないのよ。噴火というものは恐ろしい。」
Hさん「単車の五十(CC)のエンジンでも人間の五十キロ以上のものを乗して坂道をポッポポッポあがる。あれも爆発をしてあがるわけやから、火山の爆発の力がどのくらいあるか、これは想像もつかん(笑い)。」
----なるほど、そりゃ理屈です。黒島には火山がないんですか。
奥さん「黒島には火山が通っていないからなあ。ここらの島で火山があるのは、口永良部、硫黄島は通っている。それから、中之島なあ。それから諏訪之瀬島。黒島も竹島も火山はないです。」
----大きな噴火を経験されたのは、一回だけですか。
奥さん「そう。一回だけ。その前にもあったらしいけどなあ。その時はいなかったから。」
Hさん「前の噴火の時には、何人か人も死んでいる。湯向のなんとかの谷というあたりで。その時は、私らはここにいなかったから。水蒸気爆発なら何回もあったよ。ここあたりも灰が一寸ぐらいずうっと積んでいたこともあったしな。今またテレビを見ておれば諏訪之瀬島が爆発したらしい。永良部がこれからどうなるか。」
奥さん「開拓で入った人で、噴火の後も残っているのは、避難小屋のすぐ下に主人の兄さんともう一軒と、合わせて三軒だけ。」
----何か前触れのようなものはなかったですか。
Hさん「いや、全然なかった。前触れちゃなかよ。いつも突然くるよ。」
奥さん「何か噴火がある、と前触れとか知らせがあったら、逃げるけど(笑い)。灰だけやったらなあ、肥やしになるけど(笑い)。」
Hさん「水をかけてやると、セメントを練ったみたいに粘ってなあ。肥やしにもならん。」
島に暮らす楽しみ
----子どもさんは何人ですか。
Hさん「子ども八人。長女は五十八歳で亡くなった。」
奥さん「口永良部には一人も残っていない。鹿児島に三人、岡山に二人、大阪に一人、滋賀県に一人。孫の数は、今はようけ生まんから、十四人。曾孫が一人です。」
奥さん「定年になったら島に帰ると言う子もおるが。」
Hさん「これもあんまりあてになった話やない。こちらから、都会に行けば、もう死ぬばっかりや。」
奥さん「テレビ見て座っているだけ。」
Hさん「こっちにおってイオ(魚)でも釣っておった方がよっぽどよか。今日は、海がしけて出れば命がなかから休み(笑い)。釣ってきた新鮮なやつを刺身に切って、残りを冷凍しておいて人にやれば、釣りに行かん人は喜ぶ。オイは酒も飲まん、お茶はこのごろちょっと練習をして飲むようになったが、たばこだけはやめられん。もう、好きなものは飲んで死のうかなあ(笑い)。もう、魚釣りも行けんようになったら、早う死なにゃ、と考えとる。」
----よかったら、写真をお送りしますから、もう少しひっついて座られて(笑い)。
初めての噴火----渡辺ミキさんの話
私がまだ学校の生徒だったとき、爆発がありました。あの時は五年生だったか、六年生だったか、大正五年二月生まれでもう八十五歳になって、物忘れがひどいのよ。一番最初の噴火があったのは、夜でした。地震があって、吹き出す大きな音がしました。何かと思ったらおじさんたちが「岳が爆発した」といいました。その時、ご飯を食べよったです。みんなが初めてでした。みんなが経験のないことで、テレビがないころでもあり、誰も知らなかったんです。
----これは、役場の記録には、昭和六年四月二日午後七時爆発とあります。
ああ、そうですか。そのころの岳には硫黄会社があって、人夫がつるはしで起こしていました。みんなで木馬に三百斤ぐらいずつ運んできて、有蓋車で出します。朝早く出たら、十時ごろ帰ります。一日一回しかできません。岳で硫黄を採っている人や、道の修理する人たちがいました。爆発が昼ならみな即死ですよ。
うちは、向江浜でしたから、噴火の直前に、隣の親戚の家が火事になったのよ。その時、母はうちに火が移ると思ってあわてたのな。その時、もう今度何事かあった時にはあわててはだめやと思っていた。そこへ、岳が爆発しました。だから、その時は全然あわてなかった。母に起こされた時に、母は、すぐお位牌に『窮屈でしょうけれど、避難せんといけんので、いちおう手提げに収まってください』と言うて、出ました。
ところが、すぐ上の家でちょうどお産があって、生まれた時だったのよ。それで、そこの家のご主人が馬に鞍かけて避難する時、黒砂糖の製造場のところの杉の木の所に来て、しまった!と思ったんです。奥さんと赤ちゃんを連れてきてないのよ。馬をつないで家に連れに戻ったら、もう居ないのよ。私のお母さんが連れて避難させていましたから。私らは海辺のドンドロの所を通っていったら、それがすれ違いになったんです。ご主人が製造所の所へもどって来てみたら、こんどは馬がいない(笑い)。体の不自由な人を背負って逃げる人が、どこの馬か知らんけど、神のお助けと思うて借りて行ったんですよ。けっきょく、馬の方が先に避難所の岩屋泊に着いていました。みんなあわてたのなあ、あの時は。
この時は、屋久島の一湊にひと月ぐらい避難していたのよ。みんなここに残っていらしたけれど、私たちは初めてのことでびっくりして避難しました。その後は、何度も噴火が続いてなあ。岳が爆発したあと、ほとんどの人が子どもさんのところに引っ越して出ていきました。私も夫の仕事のつごうで兵庫県に十何年いましたよ。ここらの空き地はもともと、みんな家のあとでした。噴火が恐ろしくて神戸にいってみたが、そこで震災の被害にあった方もあるのよ。
雨が降れば、よく土石流がありました。噴火の後三年目(昭和十年四月)に大雨が続いて、旧の三月二日の餅つきをした晩に向江浜に土石流が流れてきて、三十七人も亡くなったことがあったのよ。そのあと代替地として私らはここ(前田)に引っ越したのよなあ。岳の裏側の七釜の方に焼け石が飛んで、私らの知らんうちに、硫黄製造の人が亡くなったこともあったのなあ(昭和八年十二月二十四日午前四時爆発。死者八人)。
----トカラの中之島に行ったら、ちょうど旧暦の十三日だったんですよ。そしたら、村の人がみんな集まってあたりをきれいに掃除していました。そこで聞いたら、こんな話でした。昔、ある年、ある月の十三という日に、お岳が大噴火をして、もう逃げるのに船もないし、もう神様にたよるしか道がなか、ということでみんなでお祈りをしてようやく命は長らえたので、それから毎月十三日、毎月よ、みんなで集まってお祈りをしたあと、村の掃除をするということを続けております、と。昔の人はよかしつけをしたもんじゃなあ、とそういうてやっておられましたよ。(『生命の島』三十二号)。
うちらもなあ、旧の四月三日と六月十五日には、お祭りをしてきました。これは、昔、噴火が始まった日と、終わった日というて伝えられているのよ。
----それは、天保十二年、西暦一八四一年のことで、八月一日(旧六月十五日)の大噴火では、元村が全焼したと役場の記録にはありますね。
それでもなあ、やっぱり人間は生まれ育ったいなかが一番いいのよ。
----どうも、ありがとうございました。どうぞお元気でお過ごしください。
おわりに(実際に印刷されたものでは、このお話はスペースの都合でけずりました)
ふるさとを愛する人たちが島と島をつなぐ話を続けます。現在私たちがいっしょに田んぼを作っている、Tさんという若い女性がおられます。このひとは、萩市の北の見島出身の方ですが、ともに瀬戸内海の長島と祝島を訪れたことがあります。驚いたことには、彼女のお父さんと原発いらない運動の中心となっておられる漁協長の山戸貞夫さんは旧知の仲だったのです。また、Tさんは、トカラ列島の小宝島の方々とも親交があります。実は、見島・祝島・小宝島をつないだのは、全国離島会議での出会いが元らしいのですが、去年の秋に彼女のところに、緊急の署名を求めるファックスが来ました。馬毛島でくじかれた核廃棄物計画が、トカラ列島でも一番人口の少ない小宝島をめざして手を伸ばして来そうだ、というのです。
小宝島から見島というルートで私たちの手元のとどいた情報を、その日のうちに、屋久島・種子島ルートにもつなぎました。その後、幸い多くの署名を得て、十島村議会でも核廃棄物拒否を決議しました。「熊毛はひとつ」をさらに広げて、台湾を含め、黒潮洗う島々が手を結んで自然と暮らしを守る時代がやってきたことを頼もしく思います。
(あんけいゆうじ、大学教員、 あんけいたかこ、大学パート教員)