自己との和解)「憤怒痙攣」から「世間をお騒がせする」へ RT @tiniasobu
2014/11/23
ある雑誌に頼まれて原稿を書いたら、字数がだいぶ超過しました。それでさっさと
削った部分です。断捨離。
安渓遊地・安渓貴子の共著です。
1.「自己」との和解
1.憤怒痙攣
遊地がフィールドワークをするようになって一番困ったのは,自分の感情の制御が
できないことだった。二歳のとき,食べようとした菓子を兄が横取りしたとき顔が紫
色になって倒れた。医者の見立ては「憤怒痙攣(ふんぬけいれん)」だった。この子
は腹立ちのあまり失神するのであまり怒らせないようにと言われたという。みさかい
のない敵愾心も強かった。でこぼこ道で転んで起きないので母が助け起こしてみたら
手が血まみれだった。「こいつがぼくをころばせた!」と怒って小さな拳で大地を殴
り続けていたのである。
長じて大学院に進んで,初めてのフィールドの西表島で,廃村調査をした。村にも
どっての酒の席で地元の人とトラブルになった。「おまえは墓場の骨董品荒しの一味
じゃないか」とからまれたのである。酔っていた遊地は軽率にも「あやまれぇ! 学
問を何だと思っているんだぁ!」と叫んで,あやうくビール瓶で頭をたたき割られそ
うになった。
廃村には二人で行った。満潮に阻まれたマングローブの湿地でのビバーグで食べ物
がつきた。頼んでおいた迎えの舟が来なかったのだ。考古学の指導に同行してくれた
篠原徹さん(現在琵琶湖博物館長)は,人界までの海辺を何時間も歩かされながら怒っ
ていた。「なんで俺はこんなところで新婚さんといっしょに,切り干し大根を噛んで
ないかんねん!」
村の食堂のおばさんに遊地はもっと叱られた。「プシキヤン(マングローブ)はハ
ブの巣窟だよ。あんたなんかは蛇に喰われて死んでもいいさ。かぁちゃんの顔見てご
らん,かわいそう! 虫に食われてシチ祭のミリク(弥勒)の面みたいに膨れあがっ
て。」
自分でももてあます短気を治してくれたのはアフリカだった。1978年に訪れた初め
ての外国はコンゴ民主共和国。ここでは,週2便などと書いてある飛行機だが,実際
は2週間も飛ばないことがある。毎日飛行場に通って今日も飛ばないと知らされた怒
りは,日本の7倍もの国土に飛行機が10機しかないなどという事情を聞けば,拍子抜
けの感情に変わっていった。まわりを見回しても誰ひとり怒っていないのだ。「隣り
合わせに坐ったら言葉を交わすもの。そして30分も話せば友だちだ」というのが,ア
フリカの旅の作法だった。スワヒリ語のことわざに
「道に迷うことこそ道を知ること
Kupoteza njia ni kujua njia」
というのがある。着いてしまえば旅は終わり。道草
こそがフィールドワークとサファリの極意だった。
2. アクセルとブレーキ
遊地は自分を自動車に例えれば,ハンドルとアクセルしかついていない欠陥車だと
気付いている。速度計とブレーキがないのだ。これを暴走させずに事故を未然に防ぐ
のが貴子の役割になっている。例えば,コンゴ民主の森の村に二人で暮らすようになっ
た1978年7月,はじめの一月は,カメラもテープレコーダーも出さなかった。村人が
私たちの存在や人柄に慣れるまでは,そのような文明の鈍器を使うまいという貴子の
考えだった。
たまに独り旅もする。遊地が一人でコンゴの村にでかけた1983年,若嫁がシロアリ
の幼虫を食べさせてくれた。蟻がたかっていたので「これ焼くとかできない?」と聞
いたら「もう茹でてあるのよ」と言われて飲み込んだ。貴子がついていればきっと止
めていた場面だ。そのあとマラリアではない熱に悩まされるようになった。コンゴ川
上流部の市場を調べるためにキサンガニまで600キロを二人乗りの丸木船で漕ぎ下る
計画を立てていた。体調不良のため,病院のある200キロの地点で中断して調べても
らった。腸チフスだった。あのまま下ったら途中の村で死ぬところだった。
3.世間をお騒がせする
「研究は,するなと言ってもなさるでしょうが,図書館にこもってお勉強ばかりな
どというのは好ましくありません。友だちをたくさん作ってきて下さい。水が変わり
ます。健康には充分気をつけてください」
これが,国際文化会館の松本重治理事長(1899-1989)の餞の言葉だった。太平洋
の架け橋となることを願った新渡戸稲造博士の名を冠した2年間の奨学金をいただい
て,家族でパリに暮らすようになったのは,1987年の春のことだった。
私たちのアフリカ研究は,ある事情で1983年に中断を余儀なくされる。それがフラ
ンスでの勉強を思い立ったきっかけだった。ある事情とは,世間をお騒がせしたため
に科学研究費をもらえなくなったことだった。1983年の旅で遊地は腸チフスにかかっ
たのだが,それが原因ではない。旅のはじめに,キンシャサの在ザイール(コンゴ民
主)日本大使館を訪ねた。先に到着していた研究室の先輩からの手紙を参事官から受
け取った。ホテルでの支払いを現地通貨でできるように大使館が手紙を書いてくれた
ので君も書いて貰えば,と記されていた。さっそく頼んでみたら「そのようなサービ
スはしておりません!」とにべもない。
遊地は内陸部に旅立ったが,このあと,キンシャサから外務省にあてて概要以下の
ような公電が打たれていたのだ。「科研費で訪問中の大学助教授・安渓遊地氏から無
理な要求をされたが,大使館では一切そのようなサービスをしていないので,外務省
から文部省に科研費の運用のあり方について連絡して再発防止を徹底すること」。
「君,なにしてくれたんや!?」
科研費の研究代表者から電話があっ
たのは,腸チフスで帰国後の遊地が山口県立病院隔離病棟から無事退院した年末だっ
た。文部省の担当者から研究代表者の勤めていた大学の事務局長に電話があり,「こ
んな不祥事を引き起こして,あなたの大学では今後いっさい科学研究費の支給が受け
られなくなってもいいんですか!」ときつく叱られたというのだ。
さぁ,どうしよう。泣こうか,それとも怒ろうか。一応の事情を説明したあと受話
器をおいて考えた。この先あらゆる科研費からずっと外されることを覚悟した(実際,
次の海外科研費の調査隊に加われたのは6年後だった)。世間をお騒がせしてしまっ
た以上,じたばたしても,傷つくのはこちらだけ。しかし,研究仲間がどんどん海外
フィールドワークに出かける中で大きなハンディがつくことは悔しい。キンシャサの
参事官氏に公電を撤回させるといった幻想をすてて,闘いを準備することにした。た
だちに民間助成財団の研究助成の獲得をめざして走り出したのである。日本生命財団
の助成による西表島研究(後に安渓ほか[2007]として出版)と新渡戸フェローとして
のフランス滞在は,この準備の結果だった。
引用文献
安渓遊地・安渓貴子・川平永美・山田武男、2007『西表島の農耕文化--
海上の道の発見』法政大学出版局