教科書の抜粋)『キャンパスを飛び出そう』 RT @tiniasobu
2014/04/29
このところ、ずっと読んでいた The Earthsea Cylce (ゲド戦記)ようやく4巻まで読み終わりました。Puffin books に4巻までの1冊本があるので、独りになれる場所でぼつぼつと読んできたのでした。あまりにもやるべきことが多い3月4月に、重苦しい3巻を読み、今日読み終えたのは、Tehanu(明星)(岩波書店版の邦訳では『帰還』)人界にくらす龍の物語です。
2年生用の教科書として分担執筆した『キャンパスを飛び出そう――フィールドワークの海に漕ぎだすあなたへ』みずのわ出版、
その中の最終章の最後のところに、龍の一族のことを書いた、こんなエッセーをのせてしまったのでした。たぶん、若い学生たちにはなんのことやらさっぱりわからないかも、と思いつつも、思いのたけをかたっています。
◎自分から開放される(安渓遊地)
大学教員になってすぐのころは、自分が授業をリードしていく主人公だと誤解していた。しかし、あるとき一人の女子学生が、私のすべての授業に顔をだすようになった。同じギャグや脱線が許されないというのは、それなりにつらいものだったが、人権感覚のするどいその人の反応に背中をおされるようにして、私は国際的な人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルの山口グループの創設にかかわり、教室の外でも人権について発言する機会を得て、やがて自然を守る運動の仲間とともに街にも出るようになっていった。このように、10歳以上年の離れた、意識の高い学生に育ててもらうことで「ただの教員」の道を踏み外していったのである。
60歳の年まで生きてきて、自分が行きたい目標を定め、自力でそこに向かって進んでいきたいと願ってあがいても、実はそれだけではたいした所に行けるわけではないという事実を、最近は抱きしめて暮らしている。誰とダンスするかが決定的に重要なのだ。人間は、したいことをすることができるけれども、何をしたいのかを自分では決めかねる動物だ。欲望の奴隷といってもよいだろう。そして、自分の野望と思っているものも、コマーシャルや迷惑メールでのお誘いや成功者の自伝のようなその時代の欲望のレパートリーの範囲を大きく超えることは難しい。本当に大切で難しいのは、いまの時代と「自分」という2重の桎梏から開放されることである。若い方々は、私の敬愛する人類学者クローバーの娘であるル・グインのゲド戦記シリーズの第何巻に一番深く共感できるかを読んでみてほしい。ちなみに、私と妻が深くうたれたのは、さまざまの大冒険を経て大賢人の位まで上りつめたゲドがすべての魔法の力を失って生きていく第4巻『帰還』であった。
フィールドワークでも、調査する側・される側を対立させ、固定的に考えることはそろそろやめた方がいい。文化人類学者の岩田慶治さんが追い求めてきたように、ともに自由になるという地平があるはずだ(岩田、1988)。そこへいたる第一歩として、フィールドワークする側ではなく、話者が主導権をにぎって、私と妻が受け身にまわっているという例を紹介しておこう。
台湾にほど近い与那国島でお会いしたN子さん(仮名)は、ゲド戦記でいえば、たまたま人間界に住む龍の一族を思い起こさせる人だが、1週間ほどの滞在でいろいろの対話をするうちに、屋久島やアイヌ民族とも大きくかさなるその自然観や世界観に深い感銘を受けたのだった。その後の20年以上の間には、10年目に30分ほどお会いする機会があっただけである。電話をかけてもつながらず、たまにこちらから会おうとしても体調不良と言われる。そんな彼女から電話がかかってくるのである。2年もかかってこないと思っていると、連日3回ずつかかってくることもある。午前2時すぎに電話がかかってきて、それから明け方までお話を聞いたことが何度もあった。
1974年から西表島や与那国島でフィールドワークをしている私と妻は、島々の歴史に深い興味をもっているが、その歴史のなかで最古の史料が、『朝鮮王朝実録』に載っている1477年の金非衣ら3人の済州島民の与那国島への漂流の語りである。この史料にさんざんお世話になって論文や本(安渓編著、2007など)を書いてきた私と妻は、機会を得てはじめての済州島訪問を果たすことができた。2007年3月上旬のことである。
済州島からもどった翌朝、N子さんからひさしぶりに電話がかかってきた。「とっても不思議なお話があってね、ンカチ ンカチ ダランカチ ユー(昔むかし大昔のこと)どこからとも知れないところから島に3人の男たちがやってきたの。疲れ切っていた男たちは……」ではじまるその伝承は、彼女が小学校に入ってすぐに、高齢者に言われて方言を書き留めた紙切れが、本の間にはさんであったのを偶然見つけたから、40年ぶりに読んでいるというものだった。5分も聴かないうちに、私はそれが530年前の済州島民の漂流記に対応するものではないかと直感し、ひとことも聞き逃すまいと耳を受話器に押し当てていた。
しばらくして、N子さんは、この漂流者に関するノートと、スケッチを送ってくださった。この「フガヌトゥ(よその人)伝承」の伝承者たちは、N子さんにすべての伝承をたたき込むとともに、「島を離れるときは、だれか確かな人にこの伝承を渡しなさい」と命じてあの世に旅立ったのだという。まるでアウシュビッツの生き残りのように、自分しか証言者がいない状態におかれたN子さんは、「また口から出任せをいっている」というまわりの住民からの非難中傷にさらされて苦しむことになる。「心ならずも島を離れますが、この伝承を受け取る確かな人が現れた時には、どうぞ自分の体になにかのしるしをください」と祈りをこめて、N子さんはこの伝承に封印をし、私たちにもこれを語ることはなかったのだった。
私たちが、済州島では、奇跡的に保存された1945年の米軍撮影の高精細な空中写真(安渓・安渓、2011a)という発見はあったものの、15世紀の漂流民の墓も顕彰碑も、博物館での1行の記述さえもなかったことにやや落胆しつつ山口にもどった。その翌朝のこと、N子さんは、足が異常にしびれることに気付いた。ひょっとすると、これは「いまこそあの伝承を語れ」というしるしではないか、とはっとしたという。その時、彼女の体はひとりでに動いて電話機を手に取り、無意識のうちにわが家の電話番号を押していた。私たちがN子さんからの電話を受けるようになって18年、ながく鎖されてきた伝承の封印が突然に解けたのである。それから3年にわたってN子さんからはのべ数百時間の電話と厚さ60センチにおよぶノートが届いた。これまで学者のだれも、島の人々さえ気付くことがなかった、534年前の与那国島の生き生きとした厚い語りであった。今は、これと史料の中の済州島民の語りをつきあわせ、英語でも報告を書いて、私たちの「!」を世界の「!」にすることに取り組んでいるところである(安渓・安渓、2011bなど)。
N子さんの真夜中のおしゃべりに延々とつきあってきた歳月の末に(大学の会議での爆睡の果てに)、予想もしなかった500年ぶりの大発見が、向こうからやってきたのである。自分やその時代の常識を越えるような質問を発することは誰にもできない。何事にも、その時が満ちるという潮時があり、その時に備え、満を持して獲物が通るのを待ちながら耳をすませているハンターのように、できるだけ自分を無にしてひたすら「何かを待つ」ことでしか得られない発見や仮説もあるのだと思っている。
文献
安渓遊地編著、2007『西表島の農耕文化――海上の道の発見』法政大学出版局、東京
安渓遊地・安渓貴子、2011a「1477年の済州島漂流民と与那国島民の交流の記憶」
安渓遊地・当山昌直編『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社、鹿児島
安渓遊地・安渓貴子、2011b「奇跡のコレクションとの出会い――韓国・
済州大学校所蔵の奄美沖縄空中写真予備調査報告」『奄美沖縄環境史資料集成』
南方新社、鹿児島
岩田 慶治、1988『自分からの自由――からだ・こころ・たましい』講談社
(現代新書)