天皇に直訴?) 戦争被害の補償をもとめるマレーシアからの華人の場合 RT @tiniasobu
2013/11/09
琉球大学名誉教授の髙嶋伸欣さんの経験談です。八重山の教科書問題についてのメー
リングリストから(拡散ご自由)。
マレーシアの華人たちが 戦争被害の補償をもとめて天皇に手紙をわたそうとした
ときおこったこと。
1 マレーシアでの日本軍による住民虐殺事件で家族10人を失い、
自身も重傷を負いながら生き延びた華人の孫建成氏が、日本政府
に補償請求をしても拒否され続けたため、天皇が1991年秋にマレ
ーシアに来訪したのを好機として、天皇に宛てた手紙を作成してクア
ラルンプールKLの日本大使館に預けたのだそうです。
ところが、その手紙に何も反応がなく、孫氏はそのことに強い不満
を抱いていました。
2 そうしたところに、華人虐殺をしたのが広島の第5師団第11聯隊
だったと判明していたことから、広島の「朝日新聞」支局の記者が
孫氏に体験を取材し、孫氏から天皇への手紙の件を聞いたのです。
その話しが、「朝日新聞」 1991年12月13日の広島版で詳しく紹介
されました。その記事の見出しには「返事を下さい」「首相や天皇あて
の手紙 日本大使館で足止め」とあります。さらに、記事本文の中で
外務省の「南東アジア第2課」の「孫さんの手紙については、知らない。
現地の大使館が開封し、返事をするかどうかを判断している」「回答
しない場合が多いようだ」という説明が、明らかにされていました。
3 この時点で、天皇宛の手紙は、日本の外務省どころか、現地の大使
館で握りつぶされていることが判明したのです。
こうなると、直接日本へ行って直訴するしかないと考えても不思議では
ありません。
4 実際、そのように考えて行動した人たちがいました。それはKLに本部
がある中華大会堂(現・華総)の会長たちです。マレーシアとシンガポー
ルSINGの華人団体は、1942年2月15日のSING陥落後に日本軍から
強制された5000万ドル献金に対する補償を、日本政府に対して請求
し続けています。KLの中華大会堂は、毎年、日本の首相宛の請求文書
をKLの日本大使館を通じて送っていましたが、返事がまったくなく苛立
っていました。
そこへ、上記の「朝日新聞」の記事のことが、数年遅れで伝わったので
す。そうした手紙類をKLの日本大使館で握りつぶしているということなら
ば、直接日本に出向いて首相に手紙を渡そうということになりました。
5 その為の事前調整をして欲しいとの要望を私(髙嶋)たちがされたのは
1999年の8月のマレーシア・ツアーでKLの追悼行事(8月15日)に参加
した時でした。下相談では、12月8日の開戦の日に合わせて訪日するの
で、その時に首相官邸に行きたい、とのことでした。顔ぶれは大会堂の
代表である会長が出向くとの案でしたが「いきなりトップが出て行って、も
の別れになったら、次の機会が作れない」ということで、事務長が行くこと
になりました。
髙嶋が帰国後、首相官邸の外務省から出向の秘書官に経過を説明し
て、12月8日の前日7日に官邸を一行が訪問してしかるべき人物に面会
できるように、という手配を依頼しました。やり取りは平穏に行われて、予
定通りに行きそうな様子でした。ところが11月半ばごろから様子が変わり
しかるべき人物の応対どころか、要請文書の受け取りそのものを拒否し、
「外国の市民団体の要請行動の場合は、官邸の敷地には一歩もはいらせ
ない」という門前払いの強硬姿勢まで打ち出してきました。
6 その最後通告に当たる連絡があったのは、マレーシアからの一行が成田
空港に夕刻到着する直前の6日の昼頃でした。
その夜、一行は相談した結果、「もし官邸で門前払いにされたらその足で
皇居に行って、天皇に面会を求める。急には不可能と言われたら、直訴の
手紙を宮内庁に受け取ってもらう」という方針が、決まりました。
7 12月7日朝、「今日は場合によっては皇居突入だな。そうなったら一緒に
行動するか、止める側に回るか。どっちにしても丸の内警察で事情聴取に
なって、帰宅はできそうにないぞ」と言い置いて、家を出たのを覚えています。
8 首相官邸では、一行を敷地内に一歩も入れないとばかりに、事務職が何
人も門のところに待ち構えていました。ひと悶着を期待したのかTVカメラも
待機してました。
件(くだん)の秘書官が出てきて「文書は受け取ります」と言い出したのが
意外でした。「でも、ここで立ち話の形では余りに失礼でしょう。子供の使い
ではないのだから」と迫ると、「官邸本館ではないけれども、道路をはさんだ
向かい側の総理府別館に部屋を用意してあるので、そこで対応することに
したい。官邸ではないけれど、総理府の施設ということで応じて欲しい」とい
うやりとりになりました。
一行が「それでもよい」と受け入れたので、別館の中で小1時間のやりとり
をしました。そこでもいろいろと礼を失することがあって、一行は憤慨するの
ですが、ともかく皇居突入はもちろん天皇への直訴も実行しないで終わりま
した。
9 なぜ秘書官が7日の当日になって態度を軟化させたのか、その理由はし
ばらくしてから分かりました。6日夜に決めた上記の方針について、当夜の
内に取材の準備をする都合を問い合せてきた報道関係者には伝えていま
した。その情報が各社に伝わる過程で、官邸にも伝わり、万が一にも皇居
へ行って天皇に面会を求めたり、直訴状の提出などをされたら大騒ぎにな
って、海外にまで知られてしまう。そうなれば、外務省の不手際として宮内庁
から外務省に抗議がくるのは必至だし、要請の根源にある5000万ドル強
制献金問題についても改めて報道され、寝た子を起こすことにもなりかねな
い、などの理由で秘書官が上司から叱責されたのだろうというわけです。
10 そうした推測を裏付けるかのように、その後のKLの大使館の対応は様変
わりしたそうです。
まず、相変わらず補償要求に応じない日本政府に対しての要求文書を華人
団体が大使館経由で提出していますが、大使館の担当者が「日本政府に伝え
ます」と言い、後日、官邸から「受け取った」という文書が来るようになったそう
です。大使館も外務省も、マレーシアではマハティールが率いるマレー系中心
の政府とばかり接触していて、華人系社会では中華大会堂が、民間組織とは
いえ、華人800万人全体をまとめている組織で、国内にある経済・文化・居住地
別・出身地別などの各種組織・団体約3000の総元締めであるということを認識
できていなかったのだろうと、私は推測しました。
もう一つのKL大使館の変化としては、地元の華人団体主催の8・15追悼式
に大使館員が出席するようになったことです。最初の数年は、研修員や事務員
でしたが昨年からは一等書記官が出席しています。
SINGの2・15追悼式も民間団体の中華総商会の主催ですが、日本大使館
からは、大使が毎年出席しています。KLでも、もう一度天皇への直訴を匂わせ
たらどうか、などとの冗談が交わされています。
11.マッカーサーと米国政府の政治的な思惑から責任を問われないで済んだ
昭和天皇と天皇制の存続について納得していない状況が、近隣諸国では継続
しています。
山本議員による「お手紙」事件をめぐる議論では、天皇を戦前・戦中の神格化に
戻そうとしている発想が見え隠れしていることに、近隣諸国の人々は気付いてい
るはずです。 そのことの問題点を日本のマスコミがどれだけ認識できているか、
心配です。
12。それに、天皇の政治利用はこれまでに繰り返して行われていることに、社会
全体が慣れっこになっていないでしょうか。
たとえば、伊勢神宮は天皇神道の大本です。もう一つ出雲大社を源とする神道
がありますが、こちらには安倍首相たちが参拝したという話はありません。伊勢神
宮への参拝と皇室外交との相乗効果について問題提起をしたマスコミの存在を
私は寡聞にして知りません。
13 また、戦後も永い間、重要閣僚が国際会議への出席や主要国訪問の前後に
天皇に面会して意見を聴いたり報告をすることが「慣習化」されているという情報
があります。先日、小池百合子氏が国会で問題にした「首相の動静」報道でも
実はこの天皇との面会の事実は記録されてない可能性があります。「産経」が
連載している「天皇、皇后両陛下のご動静」についても同様です。
これらの点も検証して欲しいところです。
以上、山本議員の「お手紙」事件をめぐる議論に向けて一つの問題提起をさせて
頂きました。
教室での議論などで参考にして頂ければ幸いです。
転送・拡散は自由です