宮本常一) #世間師 ーセケンシかショケンシか 沖家室島の海の幸これでもか民宿のブログから
2013/09/19
宮本常一先生の使われた言葉の中に「世間師」というものがあります。広い世間を
知って、その風を狭い地域の中に持ち込んでくれる人、というような意味だと思いま
す。さて、この読み方で困っていたら、
瀬戸内の海の幸これでもか! という 民宿 鯛の里 の取締(られ)役の松本さんが、綿密なフィールドワークの成果を発表しておられました。御本人のお許しを得て、全文引用させていただきます。一本の電話から手づるをたどって、とうとう納得の答えに到達する粘りと、ユーモラスな筆致にカンパイです。http://ankei.jp/yuji/?n=1515 の「宮本常一の呼び声」につづいて2度目の引用です。忙しい方向きに冒頭に最終回答が書いてあるところも、学生のレポートや学会発表にも参考になる手法だと思います。
なお、松本さんの手料理に出会いたい方は、以下からご連絡になればと思います。
ホンモノのうまいもの食べて、うまいお酒をしこたま呑んで、主人とわいわい騒いで
もりあがって、その場に倒れて寝る、という楽しみを知っている方には絶対満足を保
証いたします。お風呂も布団ももちろんありますが、リゾートホテルのようなサービ
スを望まれる方には、おすすめしません。
742-2922 山口県周防大島町沖家室島
有限会社 沖家室水産
民宿 鯛の里(コイの里ではありません。タイの里です。タ・イッ!!)
0820-78-2163 松本昭司
shouji◎d3.dion.ne.jp(◎を@にして送信)
★島のお買いもの便 http://www.d3.dion.ne.jp/~shouji/okaimono.htm
★「よう来たのんた沖家室」http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/
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以下は、
http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/sub51.htm からの引用ですが、年号だけはご本人に確認して挿入しました。
世間師ーセケンシかショケンシか
「松本さん、この間の件だけど、私も主人からショケンシと聞いたし、主人の同級
生
だった人にも聞いてみたけど、ショケンシだそうよ」
用件を簡潔にさらっと話す声は宮本アサ子さんだった。(2009/1/16 21:00)
実は、佐野眞一さんの著書「宮本常一が見た日本」の中の、「世間師」の読み方に
ついて、宮本常一さんの生家がある長崎地区および、生前に宮本常一さんがどのよう
な呼び方をしていたのかを問い合わせていた。アサコさんからの電話はその返事だっ
た。
「世間師」とは、宮本常一さんが書いた「東和町誌」では「旅から旅をわたりある
く人たちを世間師といった」と説明してある。この部分を引用した佐野眞一さんは著
書の中で「しょけんし」とルビを打っていた。
この件について、離島センターの鈴木勇次さんから問い合わせが入ったのは、昨年
(2008年)十二月初めの頃だった。
――――――――
「佐野先生の山口講演ビデオ、ありがとうございました。入手後スコットランドの
方
へ しばし出張していてビデオ拝見が遅れてしまいました。
ところで、今回のビデオの中でも、先のNHKの放送でも佐野先生が「世間師」を
「しょけんし」と読んでいました。でも柳田先生は「せけんし」と読んでますし、日
本社会民俗辞典では、「しょけんし」とは、山窩(さんか)を呼称する際の別の表
現で、「兵庫県地方のサンカは、自身ではショケンシ・ケンシと呼んでいる。」とあ
り、宮本先生が使われた「世間師」は、「せけんし」の項目で確認できます。私も
生前宮本先生からは「せけんし」と聞いたような気もします。でも明らかな記憶では
ありません。直接佐野先生に伺う勇気がないので、博識の松本さん、是非調べていた
だければ幸いです」
―――――――――
博識と言われて気を良くしたものの、実は「世間師」という言葉をはじめて知った
のが佐野眞一さんの著書「旅する巨人」であって、つまりまったくの薄識である。直
接佐野眞一さんに聞いてみることにした。「宮本常一が見た日本」の編集を担当した
NHK出版の小湊さんにもあわせて照会した。すると、しばらくして佐野眞一さんか
ら次のような返事がメールで返ってきた。
――――――――――
「鯛の里松本様
すっかり御無沙汰しています。ネット界に「乱入」すると約束しておきながら、仕
事に追われていまだ果たせないままです。申し訳なく思っています。
さて、返事がだいぶ遅れてしまいましたが、日本離島センタ-の鈴木さんからの疑
問についてお答えします。鈴木さんは、世間師は「せけんし」と読むのではないかと
指摘されているようですが、これは間違いなく「しょけんし」と読みます。
今手元に本がないので、ページ数まで特定することはできませんが、宮本さん自身
「家郷の訓え」(岩波文庫)や「東和町史」のなかで「しょけんし」と書いていま
す。
その旨、鈴木さんにお伝えしていただければ、幸甚です。
来年一月の「水仙忌」には、大島で講演をする予定です。皆さんにお会いできるこ
とをいまから楽しみにしています。 佐野眞一」
――――――――――
どうやらこのメールは奥様が代わりに打ったようだ.
佐野眞一さんからのこのメールをさっそく鈴木さんに転送した。鈴木さんからの返
事のメールは、「佐野先生がそうおっしゃるのだから間違いはないのでしょう・・・
・」と、そのときはこれで一件落着となったのだが、しかしぼくも鈴木さんも少し
引っかかるものを感じていた。というのも、市販されている宮本常一さんの著書はセ
ケンシとルビをふっているのである。小湊さんからも東和町史の索引欄に「せ」で
載っていると指摘があり、編集段階で間違ったのか、それとも宮本常一さんも本当は
セケンシと言っていたのではないか、そんな疑問がすっきりとは解消していなかった
からだ。しばらくすると、鈴木さんから再びメールが入った。
――――――――――
「松本さんへ
往生際の悪い鈴木です。過日ご連絡(回答)頂いた件につき、やっぱり気になり、
岩波文庫の「忘れられた日本人」(第42刷)を求め確認したところ、岩波では、
しっかり「せけんし」とルビが付してありました(214頁)。どうしたらよいで
しょうか。悩みます。というのは、宮本先生は文字も言葉も大切にされていたし、私
も宮本先生からは、統計、文字、伝言などその扱いは厳しく指導されてたので、気を
付けるようにはしてるのですが。まさか佐野先生が間違えるはずはないし、と混乱ば
かりです。尚、岩波へは、「何時、何故このようにルビを付したかを確認中です。御
迷惑をお掛けしてゴメンナサイ。
鈴木 勇次(Yuji Suzuki)
財団法人日本離島センター調査研究部長」
――――――――――(12/25)
ぼくは、「さすがは調査部長だ」と苦笑しつつも感心した。そこで、宮本常一さん
に教わった方たち、「観光文化研究所」(観文研)関係の方たちに聞いてみようとい
うことになった。
ちょうど運良く、観文研時代に宮本常一さんのもとで東和町の民俗調査にあたり、
東和町誌「漁業史」を執筆された水産大学校の森本孝さんが、大学の調査実習で学生
さんとともに沖家室に来ていたのでさっそく聞いてみた。ところが、観文研で宮本常
一さんが「世間師」について語った記憶はないということだったし、森本さん自身も
セケンシと理解していたようだ。ただ、「宮本先生が、地元で使う言葉以外を他で使
うことはないんじゃないか」といった。それもそうだ。地元のお年寄りに聞いてみる
のが一番だ。
一方、鈴木さんも関係者に照会していた。
宮本常一さんの代表的な著書「忘れられた日本人」を刊行している岩波文庫から、
鈴木さんの照会に対して返事が来た。それはとてもそっけないものであった。
――――――――
文庫編集部の者と、岩波の図書室を調べましたが、
この著作の初出本がありませんので、未来社がどの
ような原典に当たってこの読みを採用したのかわかり
ませんが、岩波がこの読みを採用した経緯は次の通り
です。
世間師という言葉に関しては、広辞苑(1~5版)や小学
館の国語大事典等を当たりましたが、「せけんし」という
読みを当てていて、「しょけんし」あるいは「しょけん(世間)」
の読みは見当たりません。
したがって,文庫では一般的な読みとして「せけんし」として
いるということです。
ただし、富山,島根の一部の方言として世間について「しょけ
ん」の音を当てているそうで、それがこのルビの根拠なのかも
知れません。文庫は、あくまでも普及を目的にしているので、
具体的に著者が読みをはじめから指定している場合を除き、
一般的な読みを用います。今後、「しょけんし」とルビを振る根拠
(たとえば,初出誌や原典となる単行本にある)が明らかになれば,
こちらでも訂正を検討して専門家のご判断を仰ぐ事になると思います。
とりあえず、このような回答でよろしいでしょうか?
―――――――――
これには、さすがに鈴木さんも「天下の岩波があんまりだ・・・・」とこぼしてい
た。
さらに鈴木さんは岩波の見解を以って宮本常一さんの弟子の一人、神崎宣武さん
と、「忘れられた日本人」の巻末に解説を寄せている網野善彦さんにも照会してい
た。ところが意外な返事が返ってきていた。
神崎宣武さんからは、
――――――――――
「・・・・さて、「世間師」についてですが、確かな記憶ではないものの、宮本先
生ご自身は、「しょけんし」というつかい方をしていなかったと思います。私の耳に
残っているのは、「せけんし」という言葉です。先生の追悼文集で「世間師」をつ
かったときは、編集委員のなかには「しょけんし」という意見もありましたが、最終
的には「せけんし」で統一しました。
以上、お役にたちませんが、ご参考までにお知らせいたします。」
――――――――――
「先生の追悼文集」というのは「同時代の証言」のことだろう。さらに、網野善彦
さんに電話確認したところ、網野さん自身も佐野眞一さんのルビ打ちに疑問を感じて
いたそうなのである。これはどうも、セケンシが本当なのではないかと思い始めてい
た。あとは、森本孝さんの言った、地元では実際にどう呼ばれているかという点だ。
用事で泊清寺に伺った折、新山住職にこのことを伝えた。すると、新山さんは、
「ウチの父(先代の住職)は、ショケンシという言い方はここにあったと言ってい
たよ。ショケンシでもセケンシでも意味にはかわりはないんだけど、そこまでの話に
なっているんだったら気になりますね。佐野さんの講演の中でも世間師は大事なキー
ポイントですからね。ただ、この言葉は、この沖家室ではあまり使われてはいないで
すね」
その後ぼくは町内で林業を営んでいる伊崎地区の老人、叶井和雄さんを訪ねた。し
かし、ここでも叶井さんご自身もまわりのお年寄りも知らないということだった。
宮本常一さんの生家があるのは、長崎地区。ここでは、長州大工といわれる高い技
術を持って各地を渡り歩く職人がいた地だ。この人たちを「あの人は世間師(しょけ
んし)だから物知りだ」というように周囲から評価されていたと佐野眞一さんも著書
に触れている。この地には、宮本常一さんの妻、アサコ夫人が今も暮らしている。そ
して、アサコ夫人の最も仲の良い友人であり、ぼくの高校時代の恩師 藤村英子さん
も住んでいる。さっそく藤村さん宅に電話をしてみた。すると、運良くそこにはアサ
コ夫人も居合わせていたのである。藤村さんからアサコ夫人にかわり、
「あら、松本さん。声が聞けて嬉しいわ。あれはショケンシでいいのよ。私ももう
少し年のいった方に聞いてみますわね」
ぼくはもう少し詳しく説明をしたかったので、今から伺っても良いかとたずねる
と、
「今からね、柳井に買物に行くのよ。だからダメってこと」
はっきり淡々としゃべるところがなんともアサコ夫人らしい。その夕方、時間が取
れたので、ぼくは藤村さんの自宅を訪ねた。突然に伺ったにもかかわらず、「晩御飯
を食べていきなさい」と迎えてくださった。
藤村さんが鍋のおでんをよそってくれている間、コタツの上を見ると、新聞の切抜
きなどが乱雑におかれてあった。藤村さんは地元ではちょっとした辛口の新聞投書魔
なのだ。その切抜きとともに文庫本があったので手にした。タイトルははっきりと覚
えていないが、「日本科学的思想系譜」?・・・つまり、現在の日本人の思想のルー
ツを解説したような内容で、田中正造とか南方熊楠などの名前があった。
「先生もずいぶんと難しい本を読んでんですねえ」
「それがね、宮本の奥さんがこれを読もうと言ったのよ。私には難しゅうて・・・
・。ほじゃが、迫田さんなんかはもう読んだ言うちょったけ、すごいねぇ」
そうは言うものその本を開いてみるといたるところに赤いペンで下線が引かれて
あった。宮本アサコさんを中心に読書会が開かれていると言う話は聞いていたが、ま
さかこんな本を読んでいたとは驚きだったし、その学習意欲に負けた。
しっかりと煮込んだチクワなどとホクホクのサトイモをほおばりながら、これまでの
いきさつを詳しく説明した。ショケンシが佐野眞一さんの著書を読んだ上でショケン
シと言っているのではないことを確認したかったためだ。藤村さんもアサコ夫人と同
じように、
「ここあたりでは、あの人はよう物事を知っちょる そういう人のことをショケン
シと言ってきたのよ」
藤村さんは、国語辞典、民俗科学辞典、百科事典などを引っ張り出しそれを繰りな
がら、
「世間師というのは載ってないわねぇ。これは、この地方の言葉なのかもしれないわ
ね」
翌日ぼくはそのことを鈴木さんに伝えると、すぐに返信メールがきた。
―――――――――
「恐縮です。ついこだわってしまって。松本さん言われるように言葉より「実質」
か
も知れませんね。でもことばはいきてるので、文化の伝播にも関係してきそうな気が
し
てます。「忘れられた日本人」の「女の世間」という部分で、宮本先生は<女として
の世間をもち…>(未来社、78頁)とか<世間をしておらんとどうしても考え
が…>(同、82頁)と使ってますね。これ、やはり「ショケンを」と読んだんで
しょうかね。御迷惑をお掛けします。今度東和町へ伺ったとき、爺さん、婆さん等い
ろいろの方に聞いてみようと思います。
鈴木 勇次(Yuji Suzuki)」
―――――――――
一月十八日夜遅く宮本アサコ夫人から電話があった。
「ショケンシのことだけど、民具学会のレポートで世間師についてのことが載ってい
るのを見つけたの。差し上げるからとりにいらっしゃい。ポストに入れておくけど、
私が家に居るかもしれないので一応声をかけてね」
翌日さっそくぼくはご自宅に受け取りにうかがった。自宅の前に車を止めると、玄関
に次男の(いや、三男というべきか・・・)光さんがなにやら作業をしていた。
「こんにちは。沖家室の松本です。奥さんが資料をポストに入れておいたと言うので
取りに来たのですが・・・・」
そう伝えると、光さんはポストから冊子を抜き取り渡してくれた。アサコさんから
「声をかけて」と言われてはいたがそのまま帰ることにした。玄関の横には大砲のよ
うな筒状の容器がガラガラ音をたてて回っていた。その筒の下にはたらいが置かれ芋
が入っていた。
「芋を洗っているんですね」
「ええ、そうですよ」
それ以上の会話はなかったのだが、ぼくは光さんの顔が気になっていた。というの
も、周りの人から顔が似ていると言われていたからだ。顔だけではない。性格も似て
いるのではないかともいわれた。ということは、相当へんくうに違いない。初対面で
ある。本当にそうなのか・・・・、やはり似ていた。
お礼をいい、車を出した後大事なことを忘れていたことに気がついた。以前にこんな
ことがあった。ウチに来たお客様で、「光さんに紹介してもらった」と言われてやっ
てきた方があった。「道の駅」で焼き芋の露天販売をしている光さんに「どこか旨い
魚を食べさせてもらえるところはないか」と尋ねたら、「鯛の里にいきなさい」と
いったと言うのだ。いい忘れていたというのは、その紹介をしてもらったお礼のこと
で、いつかの機会をうかがっていたのだ。ところが緊張していたこともあってそのこ
とは吹っ飛んでしまっていた。
さらにそのお客さんが言っていたことだが、その「道の駅」にいた光さんに、
「あなたが宮本常一さんの次男さんですか?」
と尋ねると、
「いや、三男じゃ」
と答えたそうだ。正確にはそうなのだ。光さんの兄は生まれてまもなくなくなっ
た。多くの書物には次男と書かれるが、「三男じゃ」と答えるところに、優しさを感
じた。
宮本家から五十メートルくらいのところにある下田八幡宮の鳥居のそばに車を止め
て、今もらってきたばかりの冊子を開いた。「第二十四回大会シンポジウム 宮本常
一の可能性を探る ~フィールドワーク、実践の軌跡を通して~」題し、五名の発言
者の名前が書かれてあった。
表紙を開くと、短冊状の紙に「松本様。ご苦労さま、どうぞお持ちください」と書か
れ、さらに開いていくと、赤い付箋のあるページがあり、そこには「佐野賢治 最後
の世間師――宮本常一論(1)」があった。世間師に関するところにはアサコ夫人が
赤いペンで下線を引いてくださっていた。
論文最後のところに「註」とあり、興味深い文章を見つけた。
註
世間師は社会通念上、「世情に通じて巧みに世渡りする人。世なれて悪賢い人」
(『広辞苑』)と マイナスイメージで把えられている。当日、蒲田久子先生からも
語の使用には細心の注意が必要との言葉をいただいた。宮本を直接知る人にとっては
脈絡のないこの語の使用には合点のいかないものがあると思うが、世間師は宮本の故
郷・周防大島では、「ショケンシ」と呼び、世間を広く見聞し経験豊かな者を肯定的
に指す言葉であった。
宮本は「忘れられた日本人」(岩波文庫版 一九八四)の中で、世間師を「日本の
村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもったも
のが多い。村人たちはあれは世間師だといっている」(二一四頁)、「明治から大
正、昭和の前半にいたる間、どこの村にもこのような世間師が少なからずいた。それ
が、村をあたらしくしていくためのささやかな方向づけをしたことはみのがせない。
いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。政府や学校が指導したものではなかっ
た」(259頁)。と世間師が村の新生面を切り開いた役割を評価している。宮本の祖
父、市五郎も父、善十郎もこの意味で世間師であり、宮本の人格形成に大きな影響を
与えた。
佐野眞一は十二回にわたるNHK人間講座「宮本常一が見た日本」(テキスト;二
〇〇〇) 日本放送出版協会、放送は一~三月)で世間師としても宮本に焦点を当
て、民具学会のシンポジウムについても言及している(三月二十一日放送分)
「世間師」は宮本学を理解するキーコンセプトとなるとともに、その新たな意味づけ
もなされなければならない。
――――――
車を止めていることにすっかり忘れしまっていた。そういえば、この場所はNHK
人間講座で第一回目に放送されたロケ現場だった。宮本常一さんが小さい頃によく遊
んだといわれるところだ。ロケ当日のことだった、いつもタバコがないと大騒ぎする
佐野眞一さんのためにタバコを買っておこうと思い、この神社の鳥居の横にある自販
機に寄った。するとそこにタクシーが止まり佐野眞一さんは乗り込もうとしていた。
「あれ・・・先生、お久しぶりです。どこへいくのですか?」
「よう、奇遇だなあ。なに言ってんだ。これから君んちのところに行くんだよ。君は
どうしてここにいるんだ」
「ええ、先生はタバコが切れたと言っていつもぼくが買いに走るから、まとめて買っ
ておこうと思ったんですよ」
その会話を横で聞いていたディレクターの三宅侑子さんが、「以心伝心だ 以心伝心
だ!!」だとケタケタ笑っていたことを懐かしく思い出す。
さて、車を走らせながら、先の佐野賢治さんの論文を考えていた。
「宮本を直接知る人にとっては脈絡のないこの語の使用には合点のいかないものがあ
ると思うが・・・・」 これは何を意味したものなのだろうか。
佐野賢治さんの論文には「宮本常一を最後の世間師にすることなく、その遺志を継ご
うとの意も込めたつもりである」と結ばれている。
佐野眞一さんも著書「宮本常一が見た日本」の最後に、「われわれにいま強く求めら
れているのは、宮本常一を崇め奉って「顕彰」することではない。宮本常一の精神を
「継承」していくことこそ、残されたわれわれに課せられた大きなつとめである」と
結んでいる。偶然ではあろうが、姓が同じ佐野というのも興味深いが、少なくとも、
二人が「むすび」で指摘しているのは、現状の民俗学なり民具学に共通した警鐘を鳴
らしていることは間違いない。
ぼくには民俗学も民具学もそのなんたるやはわからない。ぼくの心にある「宮本常
一」像というのは、「経世済民」家としての「宮本常一」である。地べたを這いずり
回りながら、もみくちゃになりながら、土地に暮らす人々を励まし続けたところにあ
る。「経世」という言葉で思い浮かぶのは、ゼネコンの税金アサリが始まった田中角
栄の列島改造、そして竹下登に続く自民党の最大派閥「経世会」。日本列島を虫食い
だらけにし、バブルからバブル崩壊へのシナリオはまさに「経世済民」の対極にある
「経世殺民」の世界だった。「経済」の本来の思想は「経世済民」だと思う
ところで、「世間師」がなぜショケンシなのか。東和町誌の索引が「せ」となってい
るのは、単なる編集段階の間違いなのかもしれない。町誌にはルビを打っていないだ
けに、セケンシと読まれるだろう。岩波文庫「忘れられた日本人」にセケンシとルビ
を打っているのも、間違いということになる。森本孝さんが言ったように、宮本常一
さんが故郷で使う言葉と違う言葉を敢えて使うことは考えにくいからだ。鈴木勇治さ
んが宮本常一さんからセケンシと聞いた記憶があるのは、どうなのか。
この地方に限らず、○○師とか○○べえというのは良くあることだ。あの人は「エエ
かっこ師じゃ」とか。だから、高い所見を述べる人を所見師(ショケンシ)というこ
ともありえるだろうし、世間を渡り歩いて物事を良く知っている人を世間師(セケン
シ)と呼ぶこともありえないことはない。ショケンシがこの地方で古くから使われえ
てきたであるならばは漢字は後から当てはめられたのかもしれない。この二つをドッ
キングさせて世間師=ショケンシと考えるのは、こじつけだろうか・・・。
最後に
離島センターの鈴木勇治さんからこの疑問を投げかけられ、実を言うと楽しかっ
た。なんとこだわる人だと、調査部長の肩書きであるだけに何度も苦笑した。お礼を
申し上げます。
一月三十日、宮本常一さんの命日に行われる佐野眞一さんの講演と偲ぶ会「水仙忌」
にはお会いできますね。世間師談義が楽しみです。
佐野眞一さんの講演は「世間師」と「経世済民」家としての宮本常一さんを熱く語
ることでしょう。おかげで世間師(しょけんし)という言葉があらたな響きを持って
届くと思います。
文中では敬称を、あえて「さん」としました。各分野の大家である皆さんに「先生」
とすべきかもしれませんが、宮本常一さんは学位をとられても、故郷で「常一
さぁー」と呼ばれることに喜んでいたと聞いています。また、お弟子さんを「私の友
人だ」と紹介していたと聞いています。そんな宮本常一さんに親しみを覚えます。な
にとぞお許しください。
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