原発なしで暮らしたい)_#瀬戸内海_・_#祝島_の人々 という聞き書きを書きました #iwaishima_#genpatsu_#setonaikai_#kaminoseki_RT_@tiniasobu
2012/03/17
『季刊東北学』第二八号(2011年夏)に
原発なしで暮らしたい――瀬戸内海・祝島の人々
という記事を掲載しました。
安渓遊地・安渓貴子
なぜ、祝島の人たちは、30年ものあいだ、上関原発計画をおことわりしつづけて来られたのか、その背景を知りたいと思って訪ねた記録です。
写真入りの原文は
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A3%E5%88%8A%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%AD%A6-%E7%AC%AC28%E5%8F%B7-%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4760140190
で、購入できます。2000円。
氏本長一さんの「お金なしで暮らしがまわる知恵」は、YouTubeで視聴していただけます。
http://www.youtube.com/watch?v=4vsl9w-624M
東日本大震災の被害を受けられたすべての方に心からのお見舞いを申し上げます。福島第一原発が破局にいたったことがわかった時、有機農業に熱心にとりくんでいる山口県内の知人から電話がかかりました。
「このたびの原発事故の様子を見て、上関(かみのせき)原子力発電所の計画に三〇年も反対し続けてこられた祝島(いわいしま)の人たちに、私らは心から感謝せにゃいけん、と思いました。あの人たちががんばってくれていなければ、とっくに中国電力は原発を瀬戸内海に建てておったでしょう。これまであまり原発のことに関心をもっていなかったことを反省しています……」
人口五〇〇人弱の祝島では、九〇%の住民が、すぐ目の前三・五キロしか離れていない長島・田ノ浦に建設が計画されている中国電力の上関原子力発電所に一九八二年の計画公表の時点から一貫して反対し続けています。漁業権と引き替えの一〇億八〇〇〇万円というお金も受け取ることを拒否し続けています。
祝島の方々は、いったいどうやって、二九年ものあいだ原発計画に反対し続けることができているのでしょうか。そして反対の理由は何でしょうか。
私どもは、日本生態学会として、上関原発予定地の生物多様性が日本の浅い海では最後に残された貴重なものであることを踏まえて、それに見合ったきちんとした環境影響評価を求めるというとりくみを二〇〇〇年以来続けてきました。昨年は、名古屋での生物多様性条約締約国会議COP10にあわせて、もうひとつの環境影響評価書ともいうべき『奇跡の海』(南方新社)を編集・発行したところです。奇跡の海の恵みを損なうことなく暮らしてきた人々にその秘密を教えていただくべく、四月末に祝島を訪ねました(図1)。
祝島には何度もおじゃましていますが、二人だけでゆっくり訪れたのは初めてです。初心に帰って、宮本常一先生の父君の善十郎さんの教えの通り、まずは集落の後ろの高台に上がってみることにしました。
ハート型をした祝島の東側に集まった人家は、強い風を防ぐための高い塀を石で積んでその間を漆喰(しっくい)で固めた「練塀(ねりべい)」をめぐらすものが多く、迷路のように入り組んだ細い路地がかなりの傾斜地を縦横に走っています。それを登り切った所に建つ祝島小学校は、一〇メートルを超える高い石垣を積んで広い敷地を確保した、見晴らしの良い場所にあります。現在は休校になっている中学校と共通の校門をくぐると、指を立てたような石碑が並んでいます。文字を読むと、昭和六年とあります。この敷地造成と校舎建設への寄付金の記録のようです。右から一五〇〇円、一〇〇〇円、三〇〇円などと読めます。昭和六年の小学校教員の月給は五〇円ぐらいだったそうですから、一五〇〇円というと三〇ヵ月分もの
給に相当する金額です。祝島にこれだけの金額を寄付できる人がいたのです。
よく読んでみると、始めの二つは、「樺太豊原町」と刻んであります。現在のユジノサハリンスクあたりです。その次は「在北米」で、「布哇(ハワイ)」もあります。このころ、祝島の島民は世界に雄飛して故郷に錦を飾っていたのでしょうか。
島の長老のお一人で八八歳になられる、磯部一男(いそべ・いちお)さんに、お話をうかがうにあたって、まず樺太(サハリン)と祝島の関係のことからお聞きしました。
◎杜氏の島
私は、大正一二年五月一七日生まれで、もうすぐ満八八歳になります。去年までは島の西の方の四キロほど向こうの三浦の畑でミカンを育てていたんですが、車代わりに使っている耕耘機のシャフトが折れて藪に突っ込んで、荷台に乗っていた女房に怪我をさせたので、子どもらに言われて畑仕事をやめました。
学校に登られましたか。今の敷地は、島の人が総出で造成したものです。石垣も手積みで築いたんです。私が小学四年生の時のことでした。
あそこに寄付金の石碑が立っておったでしょう。あの大きな寄付をした藤永さんという人は、祝島の人で、樺太(サハリン)の豊原というところで作り酒屋をしよったんです。大きな酒屋で、千石酒場と言うたそうです。
熊毛郡は杜氏の多いところで、熊毛杜氏といいよったですが、その中でも祝島は杜氏が一〇〇人からおったんです。一人の杜氏が行くときには、三人から五人ぐらいは助手を連れて行くものでしたから、たくさんの人たちが酒造りに出かけていたわけです。
父は堪一といいましたが、私が高等小学校一年生の五月に、四二歳で亡くなりました。父も杜氏をしていたので、豊原の千石酒場でも働いたことがあるそうです。酒造りは冬の仕事ですが、樺太は寒いところですから普通の土間では凍って酒樽が傾くことがあるんです。それで土間に厚く砂を敷いてあったそうです。
戦前は、祝島から朝鮮にも行った杜氏がいました。石碑にあった松原大吉さんという人は、アメリカにおったそうですが、一時祝島にもどっておられたことがあって、書道のための半紙を小学生に配ってくれたことがありました。
父が亡くなってからは、おふくろが自分で働いて私をやしなわんといかんので、除虫菊を栽培したりしてたいへん苦労をしました。私も年間ひと月ぐらいは学校を休んで畑の手伝いをしていました。おふくろは、私が一九歳の年に数えの三九歳で亡くなりました。二人とも若死にでした。
昭和一九年の一月に大竹で新兵訓練を受けて、呉に回って、五月からヤップ島の飛行場の警備にあたりました。一日に一八〇機ほどの機動部隊が来て四回の空襲を受けましたけれど、上陸してこなかったから助かったんです。何度もあわやというところを生き延びて、昭和二〇年の一二月に復員して戻ってきました。
昭和二一年の一二月に結婚しました。女房とは子どもの時からの顔なじみです。昭和二四年と二五年、私も杜氏の助手として、酒米を精米する仕事に二冬だけ行きました。大分県の長洲(宇佐市)の酒場で、一本が四石五斗ぐらいの酒樽に一〇何本の米を電気エンジンで精米しました。最高で四割五分ぐらい削るんですが、三俵(一八〇キロ)かけて一二時間もかかりました。ゆっくり発酵して、三〇日もかけるようならいい酒になりますが、二四、五日が標準です。いつも絞り出す酒が流れていますから毎日飲むうちに強くなって、朝酒をコップに一杯飲んでも平気になりました。
◎宇部の炭鉱へ
昭和二六年に、宇部興産・沖の山炭鉱に入りました。これから石炭を掘り出す先の方を掘る掘進作業の担当で、圧搾空気のピックで掘るんです。高さ六尺、天井の幅が六尺、下は九尺の台形に掘っていきます。太さ二五センチほどの坑木を立てて、天井もはじめは丸太でしたが、やがて金梁(かなばり)というて金属製になりました。隙間は天井も壁も板で塞いでいきます。四〇間(約七三メートル)間隔で二本の坑道を二〇〇間の長さに掘り、最後は五尺角の細い坑道で両方をつなぐんです。こうしておかんと一本だけの袋掘りでは、事故の時に逃げられんでしょう。そういうやり方では違反になります。
沖の山炭鉱には二〇〇〇人からの労働者がいて、鉱炭労という労働組合は強かったですよ。六五日間ストというのをやったことがあって、その時は、祝島に戻って従兄弟と釣りをしよったです。祝島の人間も沖の山炭鉱だけで九〇人からおって「祝親会」という親睦の会もあったですよ。
三人一組で入っているときに、落盤で粉が落ちてきて腰まで埋まったことがありました。大きな断層を突破するときには、四人一組で九度の傾斜を降りて行きました。ポンプをかけっぱなしで、一〇〇メートルおきにぐるりをコンクリートで固めて、横壁に溝を掘り、その溝に一尺角の角材を落とし込んで積み上げて締め切れるようにして、大きな出水に備えていくんです。
炭鉱の仕事は、お天道様が見られないんで、慣れるほどだんだん大儀になります。祝島の人は一年ぐらいで止める人が多かったけれど、私は昭和三八年に炭鉱の仕事を止めました。四〇歳になっていました。失業保険をもらいながら、貸していた自分の家が空くのを待って、家族で祝島に戻り、私の四二歳の厄払いをしました。そのあと、沖の山炭鉱は昭和四二年に閉山になるんです。
◎プラント技術者として
このあと、二年ほど広島の工務店で左官の手伝いをしたり、土建業もちょっとしたりしていましたが、石油プラントで働くようになりました。
祝島から働きに出稼ぎに行くんです。昭和四〇年代は経済成長の時代でしたからプラントの新設がありました。その場合は二ヵ月から三ヵ月の仕事です。普通は二〇日から三〇日の、定期修理工事であちこちに行きました。半年から一年半運転すると、部分的に止めて中の清掃をしたり、配管の悪いところを取り替えたりします。熱交換機なんか、配管が何百本とありますよ。反応塔の中に入っていったりしますが、この時は安全のために厳重なガス検定をします。三つの会社が独立して調べて、OKが三つ揃わないと中に入れません。山九(さんきゅう)グループの下請けの周星工業に雇われて、東曹・出光・日本ゼオン・小野田石油・西部石油・太陽石油などに仕事に行きました。この仕事は長く続けて、六五歳までは行きましたよ
◎福島第一原発で働いた経験
石油プラントの仕事は夏場が多かったですが、冬場の一一月から三月には発電所の仕事もありました。岡山県の水島火力発電所(中国電力)で働いていた時に、ちょっと原子力発電所へ行ってくれんか、ということになりました。それで行ったのが、福島第一原発の二号炉でした。
まず安全教育ということで、「仕事中に絶対傷をするな」ということを言われました。体の中が被ばくすれば除染ができんから、最悪の場合、指や腕を切り落とすことになる、と言われました。それから、仕事をする前に被ばくしてしまうから配管の近くに立つなということも言われました。
始めにやらされた仕事は、復水ポンプが二つに分かれるところの配管と復水器本体の間のパッキンを外したところの本体側に、なぜあんなことになったのか分かりませんが、小指の深さほどの穴が空いているのを埋めることでした。まずスプリンクラーで水をかけて除染してから、二人一組になって、そこを電気溶接して肉盛りをして、やすりがけをするんです。ちょっとの仕事ですけれど、一四人ぐらいで一週間以上かかったんです。汚染がないところなら二日もかかるかなぁというぐらいの作業でした。
別のグループは炉心から制御棒を出しよったかと思いましたが、何分という短い間隔でピッピッとアラームメーターが鳴りよったです。私は、一日一五分から三〇分くらい、延べにして七日から一〇日ぐらい原発の中に入りました。
原発の出入り口は、床が黄色・ピンク・赤と塗り分けられていて、それぞれにバリアーがありました。高さ三〇センチほどの箱が並んでいるかっこうです。赤は放射能で汚染されている場所です。靴下は下に黄色をはいて、その上に赤色をはくんです。手袋も二重で、下の靴下と手袋はガムテープで留めます。仕事が終わったら赤い地帯で肌着を脱いで、赤い靴下を取ったらその先が問題です。黄色い靴下になったら、赤を踏んだらいかんのです。ピンクの場所を踏むんです。踏み間違えるとガードマンに怒られます。放射能測定器としては、フィルムバッジとポケット線量計とアラームメーターを持っています。出たら、その日の線量をノートに書きます。そのあとシャワーをあびて退場と言われるんですがこれが水シャワー。寒いか
浴びんでもええ、ということで手足だけ洗いました。そして、手足を洗濯機ほどの大きさの検定機に押しつけます。緑のランプがつけば出られますが、赤だと危険で洗い直しです。私は一、二度赤いランプがついたことがありました。それが済んだら、体中を調べます。いっしょに行った大畠の松村さんは、肌着についていたので、ガードマンから「裸になれ」と言われたことがありました。放射能のマークの入った会社の下着が用意してあります。
臨時で新設の三号機に行ってくれと言われて、まだ運転を始めていない三号機に入ったこともあります。補助エンジンが五機すわっている部屋のほこりを拭き取る仕事です。放射能を帯びたほこりが舞うといけないから、ようやく背負えるくらいの大量のダスキンを担いでいって拭き取るんです。制御棒の解体作業の練習も一週間ぐらいさせられました。三本一組になっていて、強力なスプリングで押しつけた状態になっていますから、取り外すのにこつがいるんです。本番は水の中でやるので、水が濁ってもできるように練習しておくんです。ばらして水で除染して、切断してドラムかん詰するんです。その洗った水はどこへ行くのやら。
中国電力の立地事務所から電話が掛かってきたんです。私が一坪地主になっちょるから、その土地がほしかったんでしょう。二回目の電話に、私は「おまえは原発に行ったことがあるんか」と聞いてやりました。「ない」というから、「放射能で汚染した水はどうするんか?」と聞いたら、フィルターで濾過するというんです。一〇〇%濾過できるかと聞いたら、できんが、それはドラムかん詰めする言うんです。また、蒲井(かまい)の港に作業台船がおったときは、それを阻止するために行ったんですが、その中国電力の社員に汚染水のことを聞いたら、「再利用する」というんです。それでは作業員が被ばくしてしまいますよ。現場のことは知らんで、その場限りのへたな嘘をいうな、と言うてやりましたよ。
工具なんかも、除染してからでないと出せんのですが、ある作業員が、「検査を受けるのが面倒くさいのぉ」というて、建屋にいっぱいある穴のひとつから渡すから、おまえ外から受け取れというて、出しよりました。厳重なようでも逃げ口があるんです。
また、作業によったら、足場を丸太で組むでしょう。済んだらばらしてトラックに積んで運び出すんです。運び出すところは遠くから見ただけですが、どこへ持って行ったものか、除染なんかなしのそのままですよ。
放射線管理手帳を私は持っていますがこれは偶然です。普通は個人には渡さないそうです。私らを派遣していた安永工業という会社が解散してしもうたのを知らずに、東芝の子会社が管理手帳を返そうとしよったらしいんですが、会社に電話が通じんものやから、私に電話がかかってきました。それで会社はもうないから、私に送ってくれというて送ってもらったんです。私の被ばくは八五〇ミリレム(八・五ミリシーベルト)ですが、格納容器の中に入った二人の人のは私の倍の一六〇〇ミリレムだったですよ。藤田祐幸先生にお見せした時、これは相当高い線量だ、というてびっくりしておられました。
この時、祝島からいっしょに行った村田さんは、ガンで亡くなりました。女房の親戚も胃ガンで亡くなりました。原発に行った中から七人が早くに亡くなって、健在の方も体調が悪い人が多いです。私らの世話をしてくれた人ですが、島根原発に行ったけれど、仕事を終わらんうちに怖くなって逃げてきたという人もありましたが、呼び戻されてホールボディーカウンターで内部被曝を計られたそうです。入った時と出る時で数字が上がっていたら、もとのように減るまでは寮に留め置かれるそうです。
福島第一原発のあの事故を見ての感想ですが、大変じゃと思います。作業員がかわいそうです。私らの時は、物体を離れたら汚染はなかったです。今は建屋の中全体が汚染されているんですから。作業員は納得ずくと思いますが、消防団員や自衛隊員は命令ですから、かわいそうですよね。
◎「こいわい食堂」での食事
お話をうかがったあと、昨年一一月末にオープンした「こいわい食堂」を訪ねました。ここは、金曜日から月曜日の週四日のお昼だけ開いていて、一日五人までの完全予約制の食堂です。祝島のすばらしい食材を届けたいという気持ちからスタートした場所です。メニューは、和紙に筆で手書きのもので、誰がつった魚とか、誰の畑の野菜とかが書いてあります。調味料にも気を配り、体にやさしく、満たされるお味です。味噌汁に酒粕が入るのは、祝島の人たちが酒作りに出かけて大量の酒粕をもらって帰った習慣に基づくものだった(『上関町史』)ことなど、予期しない発見もありました。二日連続で昼食をいただいたあと、「こいわい食堂のお料理の主成分は人間関係ですね!」と言ったら、有機農業の国際ネットワークWWOOF(ウ
ーフ)がご縁で祝島に住むようになった芳川太佳子さんは、うれしそうに笑いました。以下は、一日目の晩にオーナーの氏本長一さん(六一歳)とワインをいただきながらお話しした内容の抜粋です。
◎「氏本農場」の氏本長一さんとの対話
――お久しぶりです。山の中で豚さんたちと引き合わせていただいてから二年ほどたっていますが、「こいわい食堂」のうわさにも惹かれておうかがいしました。
昼は、割りにくい木の薪割りをありがとうございました。うちの豚を出荷している東京西麻布のフランス料理の店から、内臓のテリーヌとワインが届きましたからいっしょに試食してみましょう。
いま、祝島での島内のエネルギー自給一〇〇パーセントをめざすプロジェクトが起動しています。祝島のおじいさんが「島の外からいろいろなものを持ってくるような暮らしがいつまで続くんじゃ?」と言うんです。インターネットはしないし、新聞も読まなければテレビも見ないのに、エネルギーの地域自給の大切さという世界の最先端のトレンドが、島の暮らしの中で直感できるんですね。
祝島にもどる二〇〇七年まで、僕は北海道で牧場経営に関わっていました。祝島全体より広い面積の牧場です。そこへ、ユーラスエナジーという会社がやってきて、牧場に発電用の風車を建てさせてくれないか、というんです。その下見ということで、再生可能エネルギー普及の先進地のドイツに行き、僕は足を伸ばしてスペインのガリシア地方にも行きました。そこでわかったことは、人家を避ければ家畜にはそれほど風車(の風切り音)は影響しないようだ、ということがひとつ。もう一つの問題の、鳥が風車の羽根に衝突するバードストライクをできる限り避ける方法をとりながら、鳥が落ちていた場合は正直にそのことを公表するという姿勢で、住民からも信頼されるようになっている、ということでした。
最近の日経新聞に、五〇過ぎの上関の漁業者の人が、なぜ上関原発を受け入れようと思うのかという記者の質問に答えて「人並みの生活がしたい」と言ったという記事が載っていました。でも、祝島の人たちは、この自然に支えられた自分たちの暮らしが、実は人並み以上なんだと気付きかかっているんです。何十億円もの身になじまないお金をもらって、いったいどうなるのよ。
千年も昔からやっている、祝島の「神舞(かんまい)」という神事があります。今は四年おきにやっていますが、これにだいたい一〇〇〇万円かかります。そのお金は、毎年つみたてて準備しておくんです。そして、島を出ている人たちもその時だけは必ず島に戻ってきて参加します。もし戻れないと、大切な神舞の時に島に戻れないほど身を持ち崩しているのか、と思われかねません。祝島の人たちは神舞があるおかげで、「今さえよければ」とか「自分さえよければ」というようなバクチ的な感覚でなくて、四年後にもちゃんと島に戻れるように暮らそうという、地味だけど堅実な生活感覚に自然になってくるんです。
ですから、上関原発をめぐる対立が島の中にもちこまれて、一時期二回にわたって神舞を中止せざるを得なかったときが、祝島にとっての本当の危機だったと思います。それが再開できた時、祝島が生き延びられる可能性が再び見えたのだと思います。
大分県の伊美(いみ)別宮社からのお神楽をお迎えするために、祝島から櫂伝馬(かいでんま)という船を出します。僕が島にいた頃は、四隻でしたが、いまは二隻出すのがやっとです。高齢化で漕ぎ手も足りませんから、前回から島外の人たちにも手伝ってもらってやっています。
こんな祝島の暮らしにあこがれて、島に住みたいという人たちも少しずつ増えてきました。僕のようなUターンもいるし、いわゆるIターンもいます。僕の個人的なネットワークで訪ねてくる人もいるんですけれど、個人で引き受けるのではなく、自治会や、すでにUターン・Iターンで入っている人たちとの面談で十分情報交換していただいてから、双方納得の上で入っていただくというようにしています。
いろんな人がいるのは良いことです。『祝(ほうり)の島』の映画にも出てきた平万次さんのおじいさんが三〇年かけて人力で開いた棚田の一段九メートルもある石垣をご覧になりましたか。その場で出てきた石を人力で組んであるんですけれど、その石の組み方を見ると、そこに頭の柔軟さそのものがあると僕は思うんです。やや話は飛躍しますが、この石を組んだ頭の柔軟さと、誰もがそれぞれになんらかの役割を担う神舞にみられるような、祝島というコミュニティの成り立ちとの間に共通性があると僕は感じています。つまり、いろいろな石(人材)のすべてを生かして組むんです。
――まさに薬師寺の再建をした宮大工・西岡常一棟梁の口伝「堂塔は木の癖組、木の癖組は工人等の心組」を思い出させますね。一〇〇〇年の木を切ったらその材木を一〇〇〇年持たせるように建てるという、「いのちの循環にもとづく持続可能性の仕掛け」なんですね。それが『祝の島』という映画にこめられたメッセージでもありました。
◎金に換算しないで暮らしをまわす知恵
よそから入ってくる人に助言しているんですが、都会の人が「どうやって金を稼ごうか」という発想で来られると、祝島では壁にぶちあたってしまう。祝島のよさって、できるだけお金を動かさないしくみで暮らしてきたっていうところなんですよ。だから、なんでもお金に換算して考える人と対面しちゃうと、祝島の人たちはうまくつきあえなくなってしまうんです。で、僕が今回定住したいという家族ともお話するんですけれど、無理して金に置き換えようとするな、と。例えば、ビワの収穫を手伝うとか、ヒジキを手伝ったとしたら、一日働いたから日当何千円というように金に置き換えないで、働いた分を、ヒジキ何キロとか、ビワ何パックとかいうように現物でもらうようにしなさいよ。シーズンを通して手伝ったら、例えば
ワの木を五〇本世話するのを手伝ったら、そのうちの三本か四本分の木は「おまえ収穫していいぞ」というような形でもらいなさい。そうして金にしたいんだったら、もらった現物を自分なりのネットワークを生かしたマーケットで売る努力をして、そこで自分で金にしろというんです。
例えば、ビワに袋を掛けきれないで放ってあるものは、見かけは悪くてもかえって太陽をいっぱいに浴びて味は濃いというんです。ところが「こいわい食堂」をやってもらっている太佳ちゃんは、携帯電話もインターネットもしないけれど、ああいう女性ですから、そういう自然のもの、味の良い本物にお金を出すという人たちのネットワークにつながっているんですね。だから、ただでもらったビワがお金に替わるんです。そんなにして探せば祝島に仕事がないわけじゃない、という彼女の意見は傾聴に値すると思います。
◎「祝島市場」の山戸孝さんのお話
山戸孝さん(三四歳)は、二〇〇〇年に祝島にUターンしました。まずは、ヒジキの収穫やビワの出荷などの仕事をしながら、それをインターネットで販売する仕組みをつくって、「祝島市場」というブログに載せています(ネットで検索できます)。二〇〇五年に結婚したとき、二人で神舞ゆかりの伊美別宮社に船でお参りを済ませてから、島での二一年ぶりの結婚披露宴を盛大に祝ったそうです。
畑に訪ねてみたら、二〇代の若者たち数人が、孝さんから習いながら初めての野菜作りに挑戦しているところでした。若者たちは、中国電力による上関原発予定地の埋め立て強行を非暴力で止めるために全国から集まってきた、きれいな海が好きなシーカヤックの若者たちです。三月一一日以後の福島第一原発の破局の中で、山口県知事が埋め立て工事の中断を申し入れたことから、しばしの休息の時間といえるものがもてるようになったのでした。
若者たちは、自然が大好きで運動として取り組み始めたけれど、祝島の人たちとの協働の中で、自分たちの食べるものを自分で作るということの大切さに気付いたのでしょう。私たちも少しだけ手伝いをさせていただきながら孝さんのお話を聞きました。
◎環境を守って生活の質を高める
こうして自然の中で仕事をしていると、人間の思ったようにはならないことが多いじゃないですか。風や干ばつで被害を受けたとしても、補償を求めるということはできないし。しかし、化学物質や放射能となれば、話が違うでしょう。これは天災とは言えない。
俺が祝島に帰った二〇〇〇年頃は、推進する人たちは「もっと豊かになるために原電を」と言いよったのに、今では原発ができることが前提になってしまっていて、「今回の福島の事故を教訓に、より安全な原電を作ればいい。いま原電をやめたら上関町は死ぬ。」とあおる人々もいます。
このたび原発の交付金で掘った温泉の工事は日立の子会社が落札したそうです。いま祝島でいっしょに畑仕事を覚えたいといっているカヤックの若者たちを指して、「よそ者は出て行け」という人もいるんですが、交付金が来ても思ったほど地元の業者に金が落ちないということで、「ついでによその業者も出ていってほしい」という土建業の人もいました。
だから、原発建設を止めると同時に原発とは違う選択肢を示すようでないと、とうてい受け入れられない状態になっている人たちも上関町にはいるんだと思います。
その時に「環境じゃメシが食えん」とよく言われます。また、観光に特化するといってもなかなかそれだけの魅力を出すのが難しいのも事実です。
むしろ、俺は環境を守ることで自分たちの生活の質を高めるという面を強調したい。島での生活のバックボーンとなる第一次産業のクオリティ(質)を保つには、環境を守ることが大前提になるし、それが守られていればメシは食えるんでないの、という考え方。
推進派の人たちは、今度の事故で内心は不安なのに、中国電力のいう原発は安全という建前をくり返しているだけという人も多いです。
祝島はいま原発反対運動の高齢化という問題に直面しています。だから、若者たちが応援に来てくれることはありがたいけれど、自然保護とかいう言葉ではなく実際に体を動かして土に触れるというような体験を重視したい。原発反対運動に限らず、祝島の人たちの生活感を知るというか、どんな時にどのように反応してどのように動くのかを、体で分かるようになってほしいと思っています。まずは、自分で食べるものは自分で作りたい。それが当然というあたりを出発点に……。
◎おわりに
二日目の朝の若者たちとの仕事は、祝島神舞奉賛会代表の橋部さんの畑で、氏本さんの放牧豚たちのそばに防風のための木の苗を植えることでした。海からの強い風をさえぎって、来年に迫った神舞で荒神様に捧げる五穀の一つの豆をつくる計画だそうです。祝島の暮らしには、季節のめぐりにそった段取りがあり、島にゆかりの人々は、それを積み重ねて四年ごとの祭に結実させ、そのようにして千年の昔から島の土地と海の恵みに生かされてきたのでした。
こうして、島の長老の磯部さんからは、祝島の人々が広い世界に働きに出ていたことで、例えば原発の中での被ばく労働の現実を知った人たちが島にはいたから、電力会社の宣伝に簡単にはだまされなかったことを教えられました。中堅の氏本さんとの対話からは、島の中ではお金を介在させない仕組みになじんでいることと、神舞によって島と結びついた堅実な暮らしを基本としていることが、原発の保証金など受け取らないという選択につながっていることがわかりました。そして、若手の山戸さんからは、生活の質を保証する大前提として環境を守ることへの思いをうかがうことができました。また祝島におじゃまして、こんどは女性たちのお仕事のお手伝いなどをさせてもらいながらおしゃべりができたら、と思いました。
五月七日に放映されたテレビ朝日の『ドキュメンタリー宣言」という番組で、上関町のまちづくり連絡協議会の事務局長さんが、「もしここで中止となれば気が狂わんばかりです。」と言ったあと、中国電力は信用できると思うかと問われて、「それはわからん……」と絞り出すように言われたのが印象に残りました。以前、テレビで埋め立て予定地の自然保護をという人が、一人五万円出しましょう、一〇万円出しましょうというなら初めてバランスのとれた論議になるといった方でした。
そして、二〇一一年五月一九日、山口県知事は、いったんは電力会社に与えた原発予定地の公有水面埋め立て免許を延長しない可能性について初めて言及しました。当分祝島をはじめとする上関町の人々の生き方から目が離せない日々が続きそうです。