学生レポート) 「宮本常一の呼び声」(立命館3年生渡邉 太祐さんの調査報告)その2 #MiyamotoTsuneichi #周防大島 RT @tiniasobu
2011/07/19
続きです。
8 複眼の士
昭和20年代の後半になると宮本は離島の振興に力を注ぐようになる。その直接の原因
となったのは、五島へ行きその島の人々の生活を見たことによるようである。宮本は
そこで、「人力を主とした生産エネルギーを動力エネルギーにきりかえるようにする
以外に島民の生活の向上はないと思った」という(『民俗学の旅』)。そして、調査
を終えての中間報告の時に宮本はその事を強く訴えたという。日本の多くの島がみな
同様の状態におかれているという思いから離島振興への思いは強くなったようであ
る。
私は宮本が離島振興に大きな力を注ぐようになった一因として、農地解放時のことが
あるのではないかと思う。農地解放のとき不利な立場にあるにもかかわらず、土地を
取られ、悪徳地主のように言われた人々がいたことに宮本は心を痛めていた。そうし
た人々が弱い立場にありながら省みられなかった、このような体験してきたというこ
とが離島の振興に彼を向かわせた遠因となっているのではないかと思う。
昭和28年に離島振興法が制定された。宮本は島嶼研究会の一員として法の制定に貢献
した。そして離島振興協議会の幹事長となり、その後初代事務局長となった。そうし
て宮本は、代議士や官僚といった人々に離島の現状について説明してまわったとい
う。
『同時代の証言』の中に宮本が当時語っていた言葉が記載されていた。それによる
と、宮本は次のように語っていたという。「島の存在価値はそこに人が住んでいるか
らです。住むということは目的があるからで、その目的を果たすための手段を講じな
ければ離島振興の成果はあがりません」(『同時代の証言』より)。宮本の考えは、
人とその生活にこそ本当の意義があり法律というものは生活をより良くしてゆく手段
であるということであると思う。
昭和29年になると、平野勝二氏を中心とした林業金融調査会が結成された。この調査
会は、全国の山村の社会経済実態調査を行った。宮本は特に林道の問題と取り組むこ
とになった。山村における林道の問題については、著作集の中においても多くの提言
を行っている。この調査会による山村の調査は、昭和43年まで続いて約200もの山村
の調査がなされた。
離島振興について考えてみるとやはり宮本常一という人の学問は、現実の問題意識化
と結びついているという感が深くなる。例えば『宮本常一著作集4・5 日本の離島第
1・2集』を見ると、島についてその過去から説き起こしていこうとしている。自身の
体験、経験を交えつつ、過去から現在までを考察しようとしている。その目が現実の
みに向けられているのではないことがわかる。そして実際に島を歩いて「この生産と
生活の低さはどこから来ているのであろうか、またどうすればそこからぬけ出せる緒
が見出せるだろうかを考えるようになった」(『宮本常一著作集4 日本の離島第1
集』)。そういう想いが離島振興への情熱を並々ならぬものにさせたのではないかと
思う。「経済、文化の発展が多くの誰かを犠牲にしなければすまないものを持ってい
るとするならば、それは深く反省しなければならない。実はこのひずみを訂正しよう
として離島振興法はつくられたのであった」と宮本は述べている(『宮本常一著作集
5 日本の離島第2集』)。
宮本があれほど離島のことに躍起になったのは、やはり私には農地解放のときの体験
が元になっているように思われる。農地解放のときにも弱い立場にありながら、土地
を取り上げられた人々がいた。そうした事を宮本は見たり聞いたりしていた。そのと
きのやりきれない思いが離島振興という事を行うときの原動力になったのではないか
と思う。
昭和30年、宮本は谷川健一氏と出会った。谷川氏と出会ったとき、民衆は力いっぱい
生きてきたことを、そうした跡は、田や畑、溝や住居などにまで見ることができるこ
となどを語った。これが『風土記日本』の構想のもととなったという。
ちょうどこのころ、昭和30年ごろから宮本は民俗学という学問に疑問を持ち始めてい
たという。「日常生活の中からいわゆる民俗的な事象をひき出してそれを整理してな
らべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか」(『民俗学の旅』)。日常生活
の中から民俗的事象を取り出して整理してゆくということは、戦前には宮本も行って
いたことである。これまでも見てきたように、戦後になると宮本の学問は現実の問題
意識と結びついたほうへ方向性が変化してきていた。人を中心に見るようになった。
生きるということを見るようになっていった。そうした視点を持つようになれば、そ
うした疑問が生じても不思議ではないかもしれない。もともと人間の生活の中にあっ
たはずの民俗行事が、人間と切り離され、あたかもそれのみで存在しつづけてきたか
のように民俗行事が扱われているように思われたのではなかろうか。だから、宮本常
一という人は、民俗行事と人間を、民俗行事と生活というものを繋いでいこうとした
のではないかと思う。人々の生活の中にこそ民俗行事の存在というものはあるのだと
思う。このような視点を獲得したのは何度も繰り返しているが戦後の・u梍_地解放と
農村、離島や山村の振興に携わったことに大きな理由があると思われる。
話は飛躍するが、究極的には人間が生きるということの中にそうしたものは全て収
まってしまうと宮本は考えていたのではないかと、私は考えている。このような疑問
を抱いていたころに、谷川氏を知って、『風土記日本』、『日本残酷物語』の編集に
加わったのだという。
この『風土記日本』や『日本残酷物語』の編集に関わっていた時と同じころに、未来
社から『民話』という雑誌が出ることになり、宮本も編集委員に加わった。この『民
話』に隔月連載した「年寄りたち」が後にまとめられて『忘れられた日本人』となっ
た。『忘れられた日本人』の特徴は、何といっても人間そのものにその焦点を当てて
いることであると思われる。この当時の宮本の学問が向かおうとする方向をよく示し
ているのではないかと思う。宮本が困っている人を見過ごすことができない性格を
持っていたからこそ、このような方向を持ちえたのかもしれない。精一杯生きていな
がら封建的という言葉によってその生き方が否定されてしまうことがある。宮本には
そういうことが我慢できなかったのかもしれない。そうした一生懸命に生きてきた人
たちが持ち伝えてきた伝承や民話などは、学問的に取り扱われることはあっても、そ
の人々の生活そのものについて、生活がどうすればもっとよくなるのかは考えられる
ことが少ない。しかし、宮本が出会ってきた人たちは生きてゆくために働いている。
そうしたことから、宮本の学問は人々の生活を中心としたものに重心を移してゆくよ
・u桙、になったのかもわからない。また現実の社会に対する問題意識とも深く結び
ついていたものであろう。
伝承をもちつたえている故老たちの世界は、戦後の進歩的な人たちにとっては固陋で
あり、封建的であり、否定せられるべき世界としてうつっていたからである。もしそ
の伝承の中に肯定に価するものがあるとすれば、それは古い民衆生活を肯定するもの
でなければならぬ。つまり民話は民話が民衆の中に生きている姿をつきとめてこそ、
初めてほんとうの価値を生ずるものであって、そうでないかぎり自己の意思や思想を
つたえるための手段や道具にすぎなくなる。ここに民話の発見は同時に民衆の発見を
要請せられるのである(『宮本常一著作集21 庶民の発見』)。
「庶民の発見」ということが宮本にとって大きなテーマであった。それは民話に限ら
れたものではなくて年中行事、民具などにいたるまで生活から離れて存在していたも
のではなかろうか。これらの民俗事象は人々の生活の中に生きており、また生活に結
びついていたものであった。民俗事象が人間の生活の中でもつ意義、民俗事象の人間
が生きていく上での役割というものは、人間の姿を見失ってしまっては見えてこなく
なる。そうした意味から宮本は「庶民の発見」ということをといているものだと思
う。従って私は、この「庶民の発見」という言葉は宮本常一という人を考える上での
重要なキーワードになるのではないかと思っている。
人が生きていること、人の生活があるということにこそ宮本の関心や情熱は向けられ
たのであると思う。民俗事象というものは、人が生きていく上で必要とされたもので
あった。人が生きていくということは人間の生活においては、最も重要なことであ
る。人間は、生き延びていくために多くの工夫をしてきたのであった。そうした工夫
の跡を我々は目にすることができる。だが、私が宮本常一という人が本当にすばらし
いと思うのは、ただ眼前にあるもののみに目をとらわれていないことにある。私には
宮本が、目に映るもののみがすべてではない、と考えていたのではないかと思われる
ときがある。眼前のものの中にもその歴史を認め、その歴史の中で生きてきた人間の
姿までも捉えようとしていたように思われるのである。何か大きなことを成し遂げた
人間だけが歴史を刻んできたのではなく、日々を誠実に生きてきた人々の生活のあ
と、それも実は目を向けると残っているものである。そうした人々の歴史というもの
は忘れ去られたものではない。人間の生きてきた跡というものは残っているのであ
る。
私は宮本常一という人はこのように考えていたのではないかと思った。そしてこのよ
うなことは、私が『忘れられた日本人』を呼んだときの感想でもある。「こうした
人々の人生というものもまた歴史として残るものであるのか」と。
目に映るものから、目で見ることのできないものへ、例えば、田や畑、その他の景観
物などの眼で見ることのの中から、過去の人々の生活という目で見ることのできない
ものを読みといていく。こうした宮本の能力を評して「複眼」といった方がいらっ
しゃった。私も同様の意見である。宮本常一という人は「複眼の士」と呼べるだろ
う。
9 郷土の土
昭和33年7月に大分で講演を行うことになったとき、渋沢が宮本に東京から大分まで
の飛行機の切符を手渡してくれた。飛行機で瀬戸内海の上を飛んでくるとよいという
ことであった。宮本は、飛行機から瀬戸内海の島々を見ることによって多くのことを
教えられたという。均分開墾の有無や集落のあり方の差異、山麓集落と海岸集落の違
いなどさまざまなことが宮本の目にとまったようである。権利や技術山林の所有など
と村落形態の関係といったことは以前より興味を持っていたようであったが、島々の
集落の歴史について多くのことを考えさせられたのは、この時の経験によるところが
大きかったように思われる。昭和34年の9月、宮本は学位論文となる「瀬戸内海の研
究一、島嶼の開発とその社会形成」の執筆を開始した。そして昭和36年12月に東洋大
学より学位を受けている。幼いころ将来何になるかと問われて、「文学士になりま
す」と答えていた少年は、大きくなり文学博士となったのである。夢はさらに大きな
形となって実現した。
こうした間にも調査旅行は行われていた。昭和35年から36年にかけては、9学会連合
の佐渡調査に参加している。この調査以来、佐渡には何度の足を運ぶようになった。
昭和35年にはまた山口県見島の調査にも参加している。この調査では、漁村を主とし
て調査したという。そこで、漁民は船の間取りと同様の家に住み、その家を転々とし
て住む習俗を持っていることを知ったという。こうした調査のほかにも、瀬戸内海の
島々や九州沿岸の島々の多くを歩いたようである。
昭和38年10月25日、宮本の方向性に大きな影響を与えてきた渋沢敬三が亡くなった。
弟子は師の姿を見て育ち、やがては一人歩きをはじめなければならない。この日が宮
本の独り立ちの日であったのかもしれない。
昭和40年、宮本は武蔵野美術大学に勤めることになった。ここで民俗学、民族学、生
活史などを講義した。次第に民俗学等に興味を持つ学生が増えたようで週に1回放課
後に生活文化研究会が民俗学の研究室で開かれるようになった。こうした学生を中心
とした研究、調査の輪は次第に広がりを見せ、民俗学のみならず、考古学や、民具ま
でがその対象になった。
これは個人的な印象であるが、宮本は美大生たちの物を観察する視覚能力や創作をす
るために鍛われた創造力というものに期待していたのではないだろうか。また宮本自
身もこうした学生たちと触れ合うことで大きな影響を受けたのではないかと思う。学
生たちが家屋、部屋などを丹念に即図していくというこれまでとは違った方法で同じ
対象にアプローチを行うこと、また、そうしたことを行うことのできる人たちと一緒
に調査することができたということは、学問に大きな刺激となったのではないかと思
われる。
このような調査に心を惹かれた学生たちの中には、学校を卒業したあとも、自分の
テーマに取り組もうとする人たちがいた。そういう学生たちにとっては、日本観光文
化研究所は自分のテーマと取り組むには適切な場所であったようである。
日本観光文化研究所(通称、観文研)は、宮本が武蔵野美術大学に勤め始めた年と同
じ昭和40年に創設された。この研究所は近畿日本ツーリストから研究費を出しても
らっていた。この研究所ができるきっかけとなったのは、宮本が、近畿日本ツーリス
トの旅館連盟から依頼を受けて「日本の宿」を書いたことだった。この研究所には武
蔵美を卒業した学生だけでなく、様様な所から人が集まってきて、それぞれの研究に
打ち込んでいた。この観光文化研究所からは「あるくみるきく」という雑誌が出版さ
れていた。
観光文化研究所の人たちの中には外国へと旅に出て行く人も多かったという。そうし
た人と一緒に宮本もアフリカへといった。そこで農耕社会の持つ共通する文化につい
て知ることができたという。
宮本はこうした若い人たちに大きな期待をかけていたようである。若い人たち、そし
てその未来に期待をかけつつ、宮本は自らの歩いてきた道を振り返ってみる。そうし
た時、「昭和二十一年三月、先生から言われた平和への道の希求の心」は変わらな
い、と宮本はいう。この時の渋沢の言葉が宮本に学問とは「人と人が信頼する関係を
うちたてていくため」のものであるという信念を与えてくれた。そうした信念から宮
本は戦後の日本を歩いてきたのであった。しかしながら、「日本の政策は農民から農
業を奪うことに集中」してしまい、今日の平和さえもが「軍備の拡張の上での平和」
であると宮本の目には映っていた。そうした状況の中で「みんながかしこくなって相
互に理解しあい、日本の国の中だけでなく、国の外においても富の偏在を是正する道
を見つけていかなければならない」と宮本は考える。軍備がなくても保たれる平和、
富の偏在の解消への道を提案する中で、「民俗学から民族学、あるいは文化人類学へ
の視野をひろげることに努力してきた」のだという。日本から世界へと視野を広げて
いく努力をしたということであろう。そうした時に異なった民族の文化と日本・u桙
フ文化の差、または習俗の差を調査するだけではなくて、本当は「お互いの生活の中
から共通項目を見出していくことを、最後の願いとしなければならないのではなかろ
うか」と宮本は言う。なぜなら、互いの生活の中から共通する項目を見出した上で
「何が異質なものを生んだかさぐりあて、そのことの理解の上に、正しい相互理解と
連帯感をうちたてていかなければならないのではないか」と宮本は考えるからであ
る。
共同体の中で村人を相互に結び付けていたのは、共同体的な紐帯であった。しかし、
村共同体の解体とともにその紐帯が離れたあとに、宮本はもう一度、人と人を結ぶも
のとして連帯感という新たな道を模索したのではないかと、私は思う。
宮本は連帯感というものをどのように考えていたのだろうか。彼の言葉によれば連帯
感とは、「自分だけは別だ」というような意識から生まれるのものではないという。
それでは連帯感はどこから生まれてくるかというと、宮本はこう述べている。
その連帯感は、人間はみんな平等なのだ、生きるということ、生きなければならない
ということ、生きのびなければならないという共通の意識の上にたっていることに
よって生まれる(『民俗学の旅』)。
宮本が人と人とを結ぶ連帯感を考える上でその根底にあるものとして捉えていたの
は、生きるということであった。また宮本はこうも述べている。
色々なものを蓄積し、その蓄積したものが実は豊かな世界です。
次に豊かな世界の中で一番大事な基礎になるものは何かといいますと、連帯感を持つ
ということではなかろうかと思います。
(中略)
町の地形模型を作ったり、民具を集めたり、民具の調査をしたりしていくうちに、こ
れまでこの町で生きてきた人たちの生き方に共感を持つことができるようになりま
す。その共感があるからこそお互いに生きてゆけるのです。そういう共感がより深
まったものを我々は信頼感といいます(夢と情熱 宮本常一郷土大学開校記念記念講
演)。
ここでは、連帯感、共感、信頼感と3つの言葉が使い分けられている。連帯感とはこ
れまで見てきたように生きるという平等で共通の意識の上にたつことから生まれてく
るものであった。そして豊かな世界一番大事な基礎になるものであった。
では、次に共感というものはどこから生まれてくるのであろうか。宮本によれば共感
を持つためには「我々自身が色々な願いを持ち、その願望を実現させてゆこうとす
る。すなわち夢を託するものがなければいけない」という(同上)。
共感を持つためには夢を託すものがなくてはならない。「現実になってゆく夢」が必
要だという。未来を考えた時に夢を託すことのできるものがあるとき、初めて共感と
いうものを持つことができるということであろう。そして、その共感というものは民
具を集めたり、調査をする過程で過去に生きた人々に対して抱くものであるという。
そういう共感のより深まったものが信頼感と呼ばれるものであった。また「共感があ
るからお互い生きてゆける」のであるから、信頼感の生まれるところでは、そこに生
きる人々はより緊密に生きてゆくことができるのかもしれない。共感と信頼感という
ものはお互い生きてゆくために必要なものであり、連帯感というものはそうした共感
や信頼感によって結ばれた”生きる”という意識のうえに立つものであるように思われ
る。
さて、そうした連帯感の道を見つけていく上で宮本は「人の移動、文化の移動、その
複合により多くの関心を持ってきた」という。そして「文化を複合を重層のあり方に
ついて見ていくことは日本の文化のひろがりの上で考えていく手がかりになるのでは
ないか」という(『民俗学の旅』)。
宮本は日本文化の国外へのひろがりを考える一方で、平和とはどういうものかについ
ても考えてみている。「古い習俗は僻地に残る、とよくいわれて、そういうところの
調査をおこなってきた。しかし、私はそういうことに若干の疑問をもってきた」と宮
本は言う。さらに宮本は続けて「むしろ中世以来領主のかわっていないところ、ある
いは戦争のほとんどなかったところに古い習俗も文化も形をかえることが少なくして
残るのではないかと思うようになった」と述べている。そうしたところに古風なもの
は多く残っているが、「古風が多く残っているからといってかならずしもおくれてい
るのではない。むしろ文化の厚み、生活の厚みを感ずることが多い。そのことによっ
て古い文化のもつ意味について考えようとしている。同時に変化するということは、
どういうことなのであろうか。対馬を歩いてみると、同じ田や畑を六百年も七百年も
耕しつづけている家を少なからず見かける。よく家も血も続いてきたものだと思う。
どうしてそういうことが可能だったのであろうか。都市などの住民の交替はきわめて
はげしい。家の盛衰、住民の交替のはげしいことがより高い文化だといえる・u桙フ
であろうか、またそういう社会で生み出されたものの方が尊いのだろうか。現実の世
界を見ていると、そういうことについて深く考えさせられるのである」(『民俗学の
旅』)。
争いや競争の中では古い物は残りにくいが、新しいものは生まれやすい。しかしなが
ら、そうしたものは、文化の厚み、生活の厚みという点からみたときにどういうもの
として考えられるものなのか。それはより良い代替品が現れてきたとき、すぐにもそ
れと取り替えられ、忘れ去られてゆくものなのではないだろうか。市場における競争
を原理とする資本主義社会、市場経済の中で生活し、またそうした社会から生み出さ
れてくる財を消費して生きている私たちは、この宮本の言葉について考えてみなけれ
ばならないかもしれない。また、この言葉を踏まえた上で『民俗学の旅』の最後の部
分の「進歩とは何か」を読んでみるとより興が深い。
昭和52年、宮本は武蔵野美術大学を退職した。昭和55年に、故郷の周防大島に郷土大
学を設立した。郷土大学の講義の日程は不定期ではあるが、さまざまな講師によっ
て、規格品ではない、その講師の本当に話したい部分を聞き、生徒はそれを蓄積に変
えてゆく。宮本の言葉を借りると「その実感、自分の体感、その郷里におるその実感
をとうして見ていき感ずる」ということが郷土大学の主要な目的であると思う(夢と
情熱 宮本常一 郷土大学開校記念講演)。
この郷土大学で宮本の講義を聞かれた中本健雄氏によると宮本の講義は、学生を講義
から目を離させないものであったという。そして何よりもその知識がすごかったとい
う。講義を始めると何も見ずにとうとうと歴史について語ったという。この郷土大学
に関するエピソードで、私が大変興味深く思ったことがあったので少し書いておきた
い。
『郷土』(第4号)にかかれている「<土>がええ」という文章に私は大変興味を引
かれた。執筆なさったのは、宮本常一の御次男である光氏の奥様、宮本紀子さんであ
る。この『郷土』の文章によると、宮本紀子さんが、郷土大学のバッジを作っては、
と提案されたという。郷土の頭の一文字<郷>という文字はどうだろうかと宮本に言
うと、宮本は、「それなら<土>がええじゃろう」と答えたという。
この<土>という答えを読んで、ひとつの話を思い出した。それは司馬遷による中国
の史書「史記」にある孟嘗君の話である。それは以下のような話である。ある時、秦
王であった昭王が孟嘗君を秦へと招いた。孟嘗君はその招待に応ずるつもりであった
が食客の一人(蘇代)が止めた。その男は、木の人形と土の人形の言い争いの話をし
て孟嘗君を諌めたのだった。土人形と木の人形が道で言い争っていた。木の人形は、
土の人形に向かって、「おまえなんか雨が降ればとけてしまうじゃないか」と言っ
た。土の人形はそれに対して「おれは土から生まれた。だからとけて土にかえればも
ともとだ。だがおまえは流され、どこへ行き着くかわからないぞ」と言い返した。
この話を思い出し、宮本も郷里の土から生まれ、また郷里の土に返ってきたのではな
いかという気がした。父母から教えられた土の掟を学び育った宮本は、また戻ってき
たのではないかと思われた。郷里の土から生まれると、どんなことがあってもまた郷
里の土へと戻ってくる。流れ流されるのは、木の人形のほうである。この『郷土』の
文章を読んでそういう思いが強くなった。
同じ昭和55年12月、宮本は府中病院へ入院した。これ以後宮本は
、病床に原稿を持ち
込んで執筆を続けた。それは彼の学問の集大成となるであろう、
「海からみた日本」
であった。しかしながらこの「海からみた日本」は完成することはなく、
宮本は昭和
56年1月30日になくなった。73歳だった。
「海からみた日本」は完成しなかった。しかし、宮本がその仕事に手をつけたと言う
ことは、彼の頭の中では、その構想が出来上がっていたからであろう。自らの限界を
試しながら、向上しては、すぐさま向下し、日本を果てし無く模索しつづける様は、
あたかも無限の輪廻の中で模索しつづけているようにさえ思われる。しかし、そうし
た探求の道を歩きつづけてきた彼が、その集大成に取り掛かっていたのである。その
とき宮本の目には、過去から現在、未来までを貫く一筋の道が日本の中に見出されて
いたのではないかと思う。日本を見渡す乾坤独歩の地平が開かれていたことだろう。
そうした地平を見通しつつも、全てを書き残すことはなかった。ひらかれた地平に立
ち尽くした彼が見ていたものは何だったのであろうか。
10 おわりに
このレポートは多くの人たちのご協力によって出来上がった。感謝申し上げることな
しにこのレポートを終えることはできない。
貴重な時間を割いて、貴重なお話をお聞かせくださり、また多くの資料を見せてくだ
さった宮本アサ子さん、宮本常一の若いころの文書の存在を教えてくださった藤村英
子さん、宮本常一の短歌に関する論文を見せてくださった土手正恵さん、宮本常一に
関する貴重なお話をしてくださった毛利甚八さん、仕事中のお忙しい中、郷土大学に
関するお話をしてくださった中本健雄さん、そのほか多くのかたがたのご協力をいた
だいた。この場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました。
参考文献
大戸三千代『長塚節の研究』桜楓社 1990年
土手正恵「歌人としての宮本常一 ~短歌から見る旅とふるさと」 1998年
ピョートル・クロポトキン(大杉栄訳)『相互扶助論』同時代社 1996年
宮本常一『歌集 生命のゆらめき』(近畿民俗叢書)現代創造社 1981年
――――「国民の覚醒にまつ(米国における排日問題について)」『山口県青年』
第
1巻 1924年
――――『宮本常一著作集1 民俗学への道』未来社 1968年
――――『宮本常一著作集2 日本の中央と地方』未来社 1967年
――――『宮本常一著作集4 日本の離島第1集』未来社 1969年
――――『宮本常一著作集5 日本の離島第2集』未来社 1970年
――――『宮本常一著作集6 家郷の訓』未来社 1967年
――――『宮本常一著作集9 民間暦』未来社 1970年
――――『宮本常一著作集10 忘れられた日本人』未来社 1971年
――――『宮本常一著作集11 中世社会の残存』未来社 1972年
――――『宮本常一著作集12 村の崩壊』未来社 1972年
――――『宮本常一著作集13 民衆の文化』未来社 1973年
――――『宮本常一著作集16 屋久島民俗誌』」未来社 1974年
――――『宮本常一著作集18 旅と観光』未来社 1975年
――――『宮本常一著作集19 農業技術と経営の史的側面』未来社 1975年
――――『宮本常一著作集21 庶民の発見』未来社 1976年
――――『宮本常一著作集30 民俗のふるさと』未来社 1984年
――――『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』未来社 1986年
――――『宮本常一著作集32 村の旧家と村落組織1』未来社 1986年
――――『宮本常一著作集33 村の旧家と村落組織2』未来社 1986年
――――『宮本常一著作集37 河内国瀧畑左近熊太翁旧事談』未来社 1993年
――――『宮本常一著作集38 周防大島を中心としたる海の生活誌』未来社 1994
年
――――『民俗学の旅』講談社学術文庫 1993年
――――「夢と情熱 宮本常一郷土大学開校記念講演」東和町ふるさとづくり実行
委
員会 1987年
宮本常一記念事業策定委員会『郷土』(第2号)東和町町役場 1992年
宮本常一記念事業策定委員会『郷土』(第4号)東和町町役場 1994年
宮本常一記念事業策定委員会『郷土』(第8号)東和町町役場 1998年
宮本常一先生追想文集編集委員会編『宮本常一 同時代の証言』日本観光文化研究
所 1981年
米山俊直・田村善次郎・宮田登編『民衆の生活と文化』未来社 1978年
以上で引用おわります。
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